入職
新年度。
私は中規模病院に新人薬剤師として就職した。
国家試験の日程の関係で、四月一日を数日過ぎてからの入職となった私は、初日に総務部の近藤さんに連れられて、各部署の挨拶めぐりをしていた。
内科病棟、外科病棟。給食室に、外来。
「失礼しまーす。新しい職員の紹介です」
何ヶ所目になっただろうか。連れて行かれた先はリハビリ室だった。
「今日付けで薬局に入りました、本間 沙織さんです」
「本間です。よろしくお願いします」
ペコリと下げた頭を上げた時、正面に立つ人と目が合った。
ニコッと、彼が微笑んだ。
それが彼、桐生 達也 との出会いだった。
先輩にくっついて仕事を覚える日々が始まった。指導担当で一つ歳上の堀田さんのローテーションに合わせて、仕事の割り振りがある。
外来、入院の調剤に、注射薬のセッティング。覚えることは山のようで、トイレに行く暇もない。
昼休みも、堀田さんのローテーションにくっついて。
入職から二週間ほどが経った、ある日のこと。
「遅番、昼休みどうぞ」
会議があるからと、早番で昼休みを取っていた薬局長の声で、この日もやっとお昼ご飯。職員食堂に、堀田さんともう一人の遅番の森本さんと一緒に向かう。
「桐生センセ、ここいいですか?」
空いている席を見つけた森本さんが、声をかける。
「はい、どうぞ。空いてますよ」
顔を上げたのが、あのリハビリ室で微笑んだ人だった。
今日のメニューは、カレーか、定食の二択。カレーにしてみよう。
料理を受け取って、席に戻る。
「桐生先生、今日は一人?」
「はい。会議があるから、室長が先にお昼行っちゃって。俺、一人ぼっちなんです」
切れ長の目で笑いながら、堀田さんの質問に答える桐生先生。
「あら、じゃあ。桐生先生めでたく独り立ち?」
「午前診が終わってからの、留守番だけですけどね。昨日、合格発表だったんです」
おかげさまで合格しましたとVサインを出す彼に、
「おめでとー」
と、声をそろえて手を叩く森本さんと堀田さん。
「森本先生も堀田先生も。ありがとうございます」
そう言いながら、桐生先生はスプーンを置くと軽く頭を下げている。
あれ? 国試? ってことは私と年が変わらない人、かな?
「本間先生、でしたっけ?」
うわ、”本間先生”だなんて。
大学の頃、『君たちは、薬剤”師”になるんだ。いいか、”師”だ。先生と呼ばれるにふさわしい人間になりなさい』って言ってた教授がいた。
入りたての新人にまで、”先生”だなんて。くすぐったい事を言う人だな。桐生先生。
そんなことを思っている私に、
「俺の顔、何か付いてます?」
と、言葉を続けながら、桐生先生がニコッと笑った。
いけない、またやっちゃった。
彼氏にも散々注意されているのに。じっと人の目を見るなって。
「すみません、ついクセで」
「クセ?」
「はい。無意識に、人を見つめてしまうクセがあるみたいです。感じ悪いですよね」
スプーンを一度置いて、謝る。そして顔を上げて、数秒。
桐生先生が噴き出した。
「本間先生」
「はい」
「ごめんと言ったその口で、また見てる」
あー。
本当に、すみません。
「桐生先生は、本間さんと同期になるわね」
食堂から戻って、薬品倉庫の片隅、休憩スペースで堀田さんが教えてくれた。リハビリと薬局は、慣習的に互いを”先生”と呼んでいることも教えてもらった。
「国試の日程の関係で、理学療法士のほうが入職が早かったわけよ。数日だけど」
本間さんも、来週発表だもんね、と、森本さんが思い出したくないことを言ってくれる。
受かっているかな? 落ちたら、失業だし。
ああ、胃が痛い。
机に突っ伏していると、堀田さんが肩を叩いてきた。
「なーに、暗くなってんの。大丈夫よ」
あのー。その根拠はどこから。
「本間さんの合格待ちだからね。新歓。毎年、副診療部合同でするから、検査とレントゲンと、あとリハビリも一緒にやるよ」
薬局が五人、検査室が三人だったかな? で、レントゲン室が二人に、リハビリが……あれ? 何人いたっけ?
「総勢何人です?」
私の質問に、うーんと考えた堀田さんの答えは
「十三人、ね。本間さんの合格待ちをしている人数は」
だから。
何で、そんなプレッシャーをかけるんですか!?
国試の無事合格を果たして、ゴールデンウィーク明けに新歓をしてもらった。
今年の副診療部の新人は、私と桐生先生とだけだった。検査室と、レントゲン室は欠員がなかったので、今年の採用はなかったらしい。
その席で自己紹介のようなものをして。
桐生先生は、三年制の短大を卒業しているので、私より一歳年下の二十一歳、とか。
リハビリ室長と薬局長は、十ウン年前に同期での入職だったとか。
「本間さん、彼氏、いるの?」
そんな質問をしてきたのは、私の左隣に座った検査室長の大森さん。子供がこの春に、中学に上がったばっかりのお母さんらしい。
年の離れた実家の妹と同い年の子がいる人が同僚なんだなぁって、妙なところに感心してしまったのは、さておいて。
彼氏の話、か。今は仕事の後だから、指輪を着けてるもんね。左の薬指に。
「あ、はい。一応」
「一応って何、一応って」
突っ込んできたのが、リハビリ室長の小西先生。
実は……婚約者、だったりするんですよね。
どう答えたものか、ちょっと迷っていると薬局長が
「小西先生。それ、セクハラだから」
ビールの入ったグラスを握った手で、小西先生をビシッと指差すから、これ幸いと、うんうん、横で頷く。
「本間先生? 俺の言ったのってセクハラ?」
「はい。小西先生。立派に」
なんでー、どこがー? と、呻く小西先生に座に笑いがあふれる。
ふっと。本当になんとなく。向かいに座った桐生先生を見た。
みんなと同じように笑いながら、すっと食べ終わったお皿を重ねて、脇に寄せる。その仕草に何故か、意識を引かれた。
「本間先生?」
「! はい?」
うわ、びっくりした。
「また、見ているよ」
本当にクセなんだね、と言って、桐生先生が笑った。
駅前で解散して、電車に乗って。ブラブラと一人暮らしの部屋へ帰る。
部屋着に着替えようとして外した指輪を手の上で転がしながら、今日話題になった彼氏、澤田雄二さんのことを考えた。
雄二さんは二歳上の商社マンで、私の通っていた総合大学の近所にある経済専門の単科大学の出身。合同サークルで知り合って、付き合うようになって。
去年の秋、大阪に三年の予定で彼の転勤が決まったときに、付いてきて欲しいって言われた。
薬剤師になりたくって、入った薬学部。卒業まで半年を残して中退する選択は私にはなかった。十歳年下に妹がいて、金銭的に余裕があるわけではない状態で、県外の大学に進学させてくれた両親にも申し訳が立たなかったし。
それなら、せめて……と言われて、結婚の約束をした。それだけ彼に求められている感じがして、私も素直にうれしかった。
三年後に彼がこっちに戻ってきたら、具体的な話をすることにして。私は今の病院に就職した。
このゴールデンウィークの少し前、彼から電話で
〔沙織、ゴールデンウィーク、こっちに来れない? 会いたい〕
と言われた。
行きたいのは山々だった。彼が大阪に行ってから、電話は毎週のようにかけてくれていたけど、国試もあったから、まったく会えなかった。
連休の休みはカレンダーどおり。先輩たちは休日出勤があったみたいだけれど、まだ、見習い状態の私は戦力にならず、休みだった。
ただ、お財布が厳しかった。
四月一日を数日過ぎての入職だった私は、四月分の出勤がほとんど無かった。シビアに日割り計算された初任給は、微々たるものだった。
〔ごめんなさい。お給料が……〕
正直に事情を話すと、舌打ちが聞こえた。
〔だから。働かなくっても、俺が食わしてやるって言っただろうが。そんな仕事、さっさと辞めて俺のところに来いよ〕
それは……何か、違う気がする。
返事に困って黙ってしまった私に、雄二さんは笑って
〔冗談だよ。来れないなら来れないでいいよ。俺がそっちに帰るから〕
そう言ってくれた。
その日、電話を切った私の胸に、小さな、本当に小さなトゲが残った気がした。
ゴールデンウィークは楽しかった。
雄二さんは、大学のある楠姫城市の実家には帰らず、私の部屋に泊まってくれて。ママゴトのように二人で生活した。大学も仕事も実家から通っていた彼が、私の部屋に”泊まる”のはこれが初めてだった。
結婚したら……こんな感じなのかな?
新婚生活のようなくすぐったさと、彼が身近にいるぬくもりと。
ただ。大阪へ帰る彼が、部屋を出る間際に言った
「割に合わない仕事なんか、続けなくってもいいじゃないか。俺はお前とこんな風に一緒に暮らせるのが一番うれしいんだけどな」
って、言葉だけが引っかかった。
”割に合う”仕事って、何?
それは、”誰”が決めるの?
薬学部4年制の時代の設定です。