背中を押す手
この冬は、よりによって元旦が出勤に当たった。
川本さんと二人で、救急当番をこなす。くじで引いた当番が彼女と二人になったとき、こっそりと酒井さんが『代わろうか?』って言ってくれたけど、あからさまに彼女を避けるのもどうかと、そのまま引き受けた。
「本間さん、コロッケってどうやって作るんですか?」
病棟に点滴を払いだしたあと、午後一時までが拘束時間。ぱらぱらとやって来る時間外診療の処方をこなす合間に、川本さんと世間話。
「作ってみるの?」
「はい。がんばってみます」
何でも、忘年会の帰り道で、大森さんに『男、つかむなら胃袋から』って、力説されたそうで。
「大森さんが言うには、思春期のグレた男の子も”母の味”があれば家に帰ろうとするそうですよー」
そんなもの? なの?
あー。様子のおかしかった美紗も、小食とはいえご飯は食べていたっけ。
そんなことをつらつらと考えながら、川本さんの顔を眺めていた。
キョトンとした顔で私の目を見返してくる。
ちょっと、意地悪で
「桐生先生の胃袋を掴む気?」
目に力を入れてたずねると、とんでもないって、手を振る。
そして、私から目を逸らさずに
「台風の中を守ってくれて、『俺の心は紀美子のもの』って言ってくれる人を見つけます」
胸の前で手を握り締めて力説する。
改めて、言われると……なんか恥ずかしい。
けれど、『疚しいと合わせられない』と言われた私の目をまっすぐ見返す彼女に、エールを送るつもりで、
「まずは、ジャガイモをね……」
次の処方箋が来るまでの時間で。コロッケの作り方教室。
元旦の出勤を終えて、実家に戻る。
美紗は少し視線が合うようになったけど。
「学校はどう?」
「まあ、楽しいかな?」
ひっそりと笑いながら、すっと席をはずす。やっぱりどこか不自然。
「相変わらず?」
お茶を飲んでいる母に尋ねると、黙ってうなずかれた。
「あの子も、ある意味、強情だから。自分の心が動かなかったら、変わらないわ」
「そっかぁ」
「で、あなたは?」
「私?」
「うん。どうなってるの? 彼とは」
「うーん」
どう言ったものかなぁ?
空になったお湯飲みを、捻くりまわす。左手にキャッツアイの指輪。
八割くらいは、結婚に心は傾いているんだけど。
あと、一歩が踏み出せない。
「何か、悩んでる?」
「うーん」
答えは、誰かに出してもらうことじゃないって判っているけど。
自分の心の問題だから、相談することじゃないって判っているけど。
どう、しようかなぁ
「沙織」
「うん」
「自分が幸せになれるって思う方向に進めばいいから。それだけを考えなさい」
母は、そう言って空になった急須にポットのお湯を注いだ。
年明けから十日も経たずに、年号が変わった。
そしてさらに一ヶ月ほどが経ったころ。
私は新しい命が胎内に宿っていることに気づいた。
「子供?」
達也さんが、目を見開いて尋ね返してきた。彼の半日の出勤が終わって、休みだった私の部屋へとやってきた土曜日の午後。
「うん。十月に産まれるって」
「そうか……」
フーっと息を吐いて、コーヒーに手を伸ばして。一口飲んで、私の目を見る。
「沙織は……」
言いかけて、止まった言葉の続きに意識を集中する。
「いや、違うな」
うーん、と、唸りながら天井を睨む。
しばらく考えて、一度目を閉じて。
目を開いて、私を見た。
がっちりと視線で絡めとられる。
目をそらさずに見つめあう。
「沙織。俺と結婚して、その子を抱かせて」
彼の視線と、お腹の子に背中を押された。
彼の目をまっすぐ見つめて、ひとつうなずく。
私が幸せになれる方向は
達也さんと、この子で家族になること。
少し順番は間違えたかもしれないけれど。
産まれてくるこの子に誇れるぐらい幸せになろう。
”あなたが宿ってくれた”
その事実が、こんな華の栄養になったと。
それからの日々は慌しかった。
翌日、実家に帰って両親に報告をして。
「この、馬鹿娘が!」
久しぶりに父に怒鳴られた。二人で、体を縮める。
「もう、後戻りや方向転換は許されないからな」
口調を緩めた父の言葉に顔を上げる。厳しさの中に、慈愛を含んだ父の目。
「桐生さん。何もかもが、常識に外れたお恥ずかしい娘だと思いますが。どうぞ、呆れずに末永くそばにおいてやってください」
「はい。一生を添い遂げるつもりです。良識のない行動を、どうかお許しください」
父に頭を下げる達也さんに倣って、私も頭を下げる。
顔を上げて、母と目が合う。
「沙織。幸せになりなさい」
そう言って、母の丸い目が細められた。
それから、美紗と達也さんを引き合わせる。
美紗は、
「妹の美紗です」
それだけを言って、目を伏せた。
「桐生 達也です。これから、よろしく。美紗ちゃん」
「はい。よろしくお願いします」
ペコリとひとつ頭を下げてさっさと部屋から出る美紗を、ため息を殺して見送る。
家族といるときは、あれでも気を抜いていたのか。
身にまとう空気がいつもより硬い妹に、あの子の心が受けた痛みを思う。
「俺、嫌われてる?」
と、達也さんが心配そうに私の顔を見る。
「それは、ないと思うけど……」
どう説明したものか。
「人見知りで、ごめんなさいね」
お茶を淹れなおしていた母が、フォローする。
ほほぅ。そんな言い方がありか。
「あなたたちが、幸せになってくれたら。あの子ももう少し、人との付き合いが楽しみになるかも知れないのだけど」
「楽しみ?」
「そう。『他人と触れ合うって、いいな』って。思えるようになれば、少し楽になるんじゃないかしら」
お手本になってやってね。
母はそう言うと、私たちの前にお茶をおいた。
翌週、ドキドキしながら蔵塚市の南部にある達也さんの実家へ。
「病院まで、通えなくもないんだけどな。両親のポリシーでさ。卒業したら一人暮らしって」
バスに揺られながら、そんな話をする。ポリシーがあるご両親なんて。こんな順番違反の結婚、叱られないだろうか。
お座敷に通されて、ご両親の前に座る。ああ、本当だ。疚しいと目が合わせられない。
テーブルの向こうの縁にある、達也さんのお母さんの組んだ指を見るのが精一杯。
「うちの病院の薬剤師の先生で、本間 沙織さん。結婚しようと思ってます」
「本間 沙織と申します」
「驚かせるようで、父さんにも母さんにも悪いけど。秋には子供が生まれます」
いきなり暴露した達也さん。
座を支配する沈黙が重い。うつむいた視線ごと、畳にめり込んでしまいそう。ああ、背中が曲がっている自覚がする。
チラッと横目で達也さんを見る。
いつもどおりのキレイな姿勢で座っている。
おなかに力を入れて、背中を伸ばさなきゃ。
丹田に、気合をこめる。
さあ、ほら。背筋をのばせ。
「沙織さん、とおっしゃったかな?」
穏やかに聞こえるお父さんの声に、顔を上げる。
「はい」
「そちらのご両親には、もう?」
「はい。先週、報告を」
「で、了承は頂けた?」
「はい」
「そうですか……」
腕組みをしていたお父さんが、お母さんと顔を見合わせる。
「それでは、こちらからは何も申しません」
「父さん?」
いぶかしげな達也さんの声に、お父さんの顔が険しくなった。
「お前はいったい何を考えてる!」
「すみませんっ!」
反射のように達也さんが頭を下げる。
「ご両親が大事に慈しんでこられたお嬢さんに、お前はなんてことを!」
「はいっ。反省してますっ!」
「男側からはな。こういった場合、何も言っちゃいけないと思っている」
トーンの変わった声に、達也さんの顔が上がる。
「どんな事情があったにせよ。男に責任があるんだ」
わかるか? と、お父さんが言い聞かせるように言う。
「はい。俺が、責任を持って二人を守ります」
その返事に重々しくうなずいて、お父さんは私に向き直った。
「沙織さん。達也は、欲しいとなったら、我慢の効かん男です。呆れずに添うてやってもらえますかな?」
「はい。こちらこそ、お恥ずかしい始末で申し訳ありません」
改めて、頭を下げる。
「我慢が効かんって……」
「効かないでしょうが。舌先三寸で周りを丸め込んで、思い通りにことを運ぶくせに」
「人聞きの悪い。結婚詐欺師みたいに言わないでください」
お母さんと達也さんの応酬が、テーブルの上を行きかう。
「舌先三寸……」
「そうなのよ。沙織さんも気をつけてね。気づいたら、達也の口車に乗せられて、動かされてることってよくあるのよ。この子の弟も何度それで泣かされたか」
「智也を泣かしたりしてないです」
「泣いてたわよー。高校のバレー部に入ったとき」
「バレーをしろってそそのかした覚えはないですけど?」
「『先輩が、”催眠術師の弟”って俺のことを呼ぶ』って」
頭を抱えて、テーブルに肘を着く達也さん。
「誰だ? そんなことを言いそうなのは……じん、はないな。とおる?いや、意外と……」
ブツブツ言いながら考え事を始めた。
そんな彼をどうしたものかと眺めていると、お母さんに声をかけられた。
「沙織さん」
「はい」
「私が仕事をしていたから、昼間は祖父母のもとで育って。あまりしつけの行き届いてない子だけど、とりあえず家事は仕込んであるつもりだから、ドンドン使ってやってね」
「はぁ」
そんな、ご謙遜を。
しつけの行き届いていない人が、あんなにお箸をきれいに使えるとは思えませんが。
「お仕事、続けるつもり?」
妊娠がわかってから、二人で相談したこれからのこと。
「今の病院は配置定員の関係もあって、産休は取れないと思います。一度、退職して子育てが落ち着いたら改めて働くつもりです」
「そう。なら、達也」
「はい」
「子供の”手伝い”以上のことをしなさい。あなたはパートナー、よ」
「はい」
私たちが話している間に顔を上げた達也さんが、神妙に返事を返す。
「”本間先生”が仕事をがんばってきたことを、俺は見てきたから。全力でサポートします」
その返事に満足そうに笑ったお母さんは、達也さんとよく似たきれいなしぐさでお茶を飲んだ。
子供が生まれるからには、一日も早く届けを……と、次の休みに、私は”桐生 沙織”になった。
仕事がらみの届出も片付け、職場にも報告をした。
「いつまで働けそう?」
年度代わりで退職が決まっている薬局長が心配そうに尋ねてきた。薬局長はおうちの事情らしい。新年度からは酒井さんが新しい薬局長になって、新人がまた一人入ってくる。
「一般的に産休にはいる時期を考えて、八月……と思ってます」
「そう。なら、総務に相談して求人を出さないとね」
今度は、中途採用を取らないと……って言いながら、総務へと向かう薬局長。
すみません。最後に仕事を増やして。
引越しをして新婚生活が始まる。
式はなるべく早く、とは思うものの。お腹が目立つ前にできればラッキー、みたいな感じで準備にかかる。
新生活は、お母さんに言われたことを守った達也さんが、結構家事をしてくれる。
「リハビリは、定時で終わるから。残業のある薬局より時間の融通がきくし」
と言って、帰りに買い物とか洗濯物を取り入れてくれたりしている。
「それに、沙織は体が辛いだろうが」
確かに。
つわりが、こんなに辛いとは思わなかった。
ご飯を食べても食べなくっても、気持ち悪い。
食べなきゃって思うのに。”あと一口”が、引き金になって、吐いてしまう。
世の中のお母さんたちが、乗り越えてきた道だけど。私は越えられるのだろうか。
夜明けに、ふと目が覚めて。不安のあまり、余計なことを考えてしまう。
ここまでの、選択が間違いだったから。こんなに辛いの?
「沙織?」
モゾモゾと動いたせいで、隣の布団で寝ていた達也さんが目を覚ます。
「どうした? 辛いか?」
掛け布団から伸びた大きな手が、頬に当てられる。目元をぬぐわれる。
「泣くほど辛いか?」
ううん、と、ゆるく頭を振って否定する。
じっと、薄暗がりの部屋の中で切れ長の目が私を見つめる。見つめ返す。
「沙織な、ペインスケールって知っているか?」
ソロっと私の布団に入ってきた彼に、うなずく。ひとつの布団の中で抱きしめられ、頭の上から声がする。
「あれってさ、痛みを客観視するために痛みを自己評価するだろ?」
痛くないのをゼロ、 我慢できない最大の痛みを十として、自分の感じている痛みが十段階のどこにあるかを示すことで他人である医療者に痛みの強弱を示すのがペインスケール。
「あれの応用な」
「うん」
「なんともないのがゼロ」
「うん」
頭の中に目盛を書いて、ゼロを入れる。
「で、だ。腹の子を殺してでも楽になりたいほどの辛さを十」
はぁ?
「ちょっと、何を……」
「いいから、ほら。十の目盛入れたか?」
そんなスケールって。
滅茶苦茶じゃない。
「今の沙織の辛さは?」
「三か、四」
「だったら、もう少しがんばれるな?」
「うん」
十までは、まだまだ遠い。大丈夫。
「もう少し、時間があるな」
目覚まし時計を見た達也さんが、もう一度私を抱えなおす。
「もう一眠り、しよう。な」
「うん」
まだ、ふくらみの感じられないおなかに手を当てる。
幸せにならなきゃね。親子三人で。
この辛かった時間も、こんな華の栄養だったんだよって言えるように。