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 結局、つぶれたままの川本さんは薬局長と、”男手”として小松さんとがタクシーで送っていった。自宅から通っているって言ってたから、薬局長はご両親に上司として謝ってくるらしい。

 店の前で、解散して。達也さんと駅へと歩く。達也さんの家のほうが近いけど、土曜日の明日も出勤の私と違って、彼は休みなので私の家まで送ってくれる。


 電車を待っていて、なんとなく川本さんのことが気になった。

 今日は『彼女に隠し事をしたくないから』って言ってくれた、達也さん。でも、来月は? 来年は?

「どうした?」

 黙りこんで、左手の親指で他の指の爪をイジイジと触っていた私の顔を覗き込んでくる。

 その、切れ長の目を見返して。

 彼の心を信じきれていない自分が、情けなくって、目がそれる。

「今日の、ゴメンな。俺が、川本先生に隙を見せてしまって」

「達也さんは、悪くない」

 信じ切れない私の心が醜いだけ。

 もう一度、彼の目を見る。自分の目が映る。

 ああ、ダメだ。彼が『大好き』って言ってくれた目が。揺れている。

「沙織?」

「達也さんが悪いんじゃないの」

「だったら、どうしてそんな顔をする?」

 大きな手が頬に添えられる。

「自分が。達也さんの心を信じきれない私自身が……」

 泣くつもりなんてなかったのに、酔いのせいか涙がこぼれる。

 心変わりをした代償か、これは。

 心の奥底から欲した人の心が、自分にあり続けることを信じることができない。


「沙織、一度ゆっくり話をしようか」

 穏やかな達也さんの声が降ってくる。

「送っていくだけのつもりだったけど、上がって話をさせて?」

 その言葉に、うなずく。

 目元をぬぐってくれた手で、頭を撫でられて。

 私たちは到着した電車に乗った。



 夜道を、いつものように手をつないで歩く。ただ、二人の間に言葉だけがなかった。

 アパートの階段を上がって、鍵を開けて。

「どうぞ」

「おじゃまします」

 窓を開けて、空気を入れ替える。その間に、彼はキッチンスペースでお湯を沸かしている。

「お茶、勝手に入れるけど?」

「あ、うん。おねがい」

 達也さんにお茶をお願いして、その間にざっとテーブル周りを片付ける。

「はい、どうぞ」

 すっかり勝手を知った達也さんが、紅茶を淹れてくれた。

 寝る前だったらお砂糖多めのミルクティー。それはいつの間にか出来上がった、二人の約束事。

「さて、と」 

 向かい合って座った達也さんが、テーブルに肘を突いて指を組む。

「あのな、まずひとつ質問だけど。俺が住んでいるところの最寄り駅あるだろ? 沙織、あの駅に就職活動で来たことない?」

「うーん? あった、かな?」

 記憶をたどる。就職活動って、二年も前だし。大体が方向音痴だし。

 ええーっと。ええーっと。

「あ、あった。うん、あそこからバスに乗って……」

「だよな。それでさ、ホームから改札に向かうエスカレーターでおじさんが落ちてこなかったか?」

 

 その言葉に、鮮明にその日の光景が蘇る。

 

 すぐ前の人がぱっと退いたと思ったら、その更に前のおじさんが段を踏み鳴らしながら後ろ向きに落ちてきた。とっさに手を出してその背中を支えたのと、おじさんが手すりをつかんだのが同時で、何とか踏みとどまれたけど。それ以上は私の力ではどうにもできなくって。

 私の後ろの人が次々と私たちを追い越していく。その人数を考えると、私の後ろにはどれだけ無人のスペースが開いているのだろう。

 あ、ダメだ。これ以上は支えられない。でも、この人から手を離したら……どうなる?

 そう思ったとき。数段前にいた男の人が、おじさんを引っ張り起こしてくれた。

 

「あった、よな?」

「うん」

 確かめるようにたずねる達也さんの声に、ぼんやりと返事を返す。助けてくれた人が、どんな人だったか覚えてないや。珍しいことに。

「あの時、手伝ったのが俺なんだけど」

「はぁ?」

 うそ。そんなこと有り?

「その時にな、沙織のその眼に出会った。あんなときでも、お前の眼は俺の目をのぞきこんできたんだよ」

 そう言いながら組んだ指を解いて、右手が私の目元に当てられた。


「あの眼に、『ヤラレタ』と思った。もう一度会いたいって」

 彼の目がすっと細くなって、何かを思い出すように私から視線が外れた。

「だから、沙織が入職して挨拶に来たときには……自分の幸運が信じられなかった」

 初めて目が合ったときの、彼の笑顔。そうか、あのときか。

「私だって、確信があったの?」

「最初は、まさかなって気持ちも半分ほどあったけど。リハビリ室から出て行く後姿が、エスカレーターの彼女と同じだった」

「後姿?」

 彼が言うには、骨格とか筋肉の付き方とかで体の動きには個性があるらしくって。

「もう一度会いたいって思ったから、駅で立ち去る時の動きを必死で記憶に焼き付けた」

 今考えると、気持ち悪いなって、苦笑いをしながら紅茶に口をつける。  

 そんなことないと、頭を振って私も紅茶に手を伸ばす。

「だから、去年の歓迎会で彼氏がいるって聞いて、ショックだった。男のプライドで必死で顔を作ってたけど、本心は泣きたかった。それからは、ずっと諦めなきゃって自分に言い聞かせてて。でも、諦めきれなかったから、仲のいい同期として沙織の近くでチャンスを伺ってた」

 後は知ってのとおり、と、話を締めくくる。

 

「そう、だったんだ」

「そう、だったんだよ」

 互いに、意味があるような無いような相槌を打って、顔を見合わせる。 

「一目ぼれから再会まで一年、お前の心が俺に向くのに更に半年待った。だから、俺の心が変わるかもなんて、不確定な未来の心配はするな」

 な、って、視線に言いくるめられる。

 オズオズとうなずいた私に、

「どうしても不安なら、永遠にとは言わないから。俺の心が沙織の元にあると信じられる、その一瞬、一瞬を俺のそばに居て」

「一瞬?」

「そう。一瞬を積み重ねて、一生にする。それが俺の”努力”だって、わかった。『裏切らない』なんて”言葉”では信じられないだろ? だから、いつでもお前の視線を受け止める俺でいる。お前の眼を見続ける限り、俺はお前を裏切ってない」

 そう言って、達也さんは私の目を覗き込んだ。

 その視線を私も受け止める。見詰め合ったまま、顔が近づく。

「今、この一瞬。俺の心はお前のもの」

 ささやき声とともに、唇が触れる。


 薄紙でも重ねると、厚みが生じるように

 一瞬、一瞬を重ねて

 二人で歳をとっていけるなら。


 この人とずっと一緒に居たいという願いは

 叶えられるのだろうか。



 翌日からの二人の時間は、再び春の海のように穏やかに流れる。


 二日酔いを心配した川本さんは、やっぱり翌日使い物にならず、堀田さんに呆れられ。それでも薬局長の予想通り、仕事に大きな支障は無くって、堀田さんと二人でため息をつく。

 そんなことを知らない彼女は、週明けにはすっかり元気になって

「桐生せんせー」

 なんて、やっている。

 その横で、達也さんと目を見交わしては、『ヤレヤレ』『お疲れ、がんばれ』って。


 あの夜の約束どおり、彼は顔を合わせると私の目をまっすぐに見てくる。

 労りと決意の混じった不思議な視線で。

 負けずに私も見返す。

 愛しさと信頼を込めて。



 八月に、この時期には珍しい台風の直撃があった。

 典型的な風台風に、患者さんも来ることができず病院は昼から開店休業状態。無人に近い待合室のテレビで入院患者さんたちが台風情報を眺めている。

 私は、カウンター内で専門誌を読みながら、処方箋を待つ待機状態。調剤室では、入院の定期薬をさっさと作り終えて、今は酒井さんが監査の真っ最中。他の三人も手持ち無沙汰に、奥の事務室の机でそれぞれがお勉強中。

「電車、大丈夫かなぁ」

 横で、同じく暇そうにしている医事の吉野さん改め、小西さんがつぶやく。先月リハビリ室長の小西先生とめでたくご結婚されたそうで。 

「危なそうですね。止まってしまうかも」

 止まったらどうなるのかな? 病院に泊まるの? 薬局、寝るところなんて無いよ。

「外来、来ないし、ヒマだー!」

 閉めちゃえ、閉めちゃえ、って言いながら何やら書類の整理をパラパラと始める。

 私も、雑誌に意識を戻した。

 終業まであと、一時間。電車が止まりませんように。


「本間先生」

 達也さんの声に雑誌から顔を上げる。

 カウンターに肘を突くようにしてピラっと、紙を渡された。

「消毒、切れそうだから」

 はいはい。薬品請求ね。

 院内の消毒薬などの管理も薬局の仕事。各部署の手指消毒スプレーは無くなるごとに、薬局に請求が来る。

 伝票を片手に調剤室に入る私についてくるように、達也さんも待合室に続くドアから薬局に入ってくる。

「暇そうだね」

「外来が、完全に止まってるし。病棟も今日は落ち着いているみたい」

 ええっと。一リットル入りが三本って……カゴに入れる?

「これだけ、持てる?」

「楽勝」

 手が大きいと、これだけ持てるのか。右手で二本の底をつかむように支えて、もう一本を左手で持って。

「あ、ごめん。ドア、開けて」

「はいはい」

 待合室に出るドアに向かおうとすると、ドアのほうが開いた。

 あけたのは、院長。

「薬局長、いる?」

「はい」

 奥の薬局長に声をかける。返事が返ってきて、薬局長が出てきた。

「お疲れ様です」

「お疲れ様。今日は、早仕舞いで外来も閉めるから。急ぎの処方が無かったらもう帰るように。桐生君、リハビリにも伝言頼めるかな?」

「はい。リハビリも閉めるということですよね?」

「うん、よろしく」

 そう言って院長はカウンターのほうへ出て行った。次はカウンターでつながった医事に回るつもりらしい。

「帰り、送るから」

 小声で言う達也さんに、ドアを開けながら黙ってうなずく。

「片付いたら、待合室な」

 彼は、そう言い残してスルリと薬局から出て行った。


 酒井さんの監査も残りは明日、ということで、大急ぎで片づけをして着替える。

 タイムカードを押してから、『ちょっと……』と言い残して、待合室のほうへと向かう。その背中を、パンと酒井さんに叩かれる。

「仲良しだねぇ」

 なんて言われながら。それを見て堀田さんが意味ありげに笑って、

「本間さん、帰らないんですかぁ?」

 ってたずねる川本さんを『電車が止まるよ』と引きずっていく。


 待合室にはすでに、達也さんが待っていた。

「終わった?」

「うん」

 改めて、職員出口に向かう。幸い雨は小降りだけど、風がすごくって傘がさせそうにない。それどころか、飛ばされそう。

 肩を抱きかかえるようにしてもらって、駅まで歩く。

 やっとの思いで、駅に着いたけど。電車がかなり間引き運転らしくって。改札で薬局の皆と会ってしまった。


「何で? 本間さんと桐生先生?」

 川本さんが信じられないって顔で見る。その横で、堀田さんが空を仰いでいる。

「何でって、ねぇ?」

「この嵐だったら、彼女守るのが男ってもんじゃない?」

 サバサバと薬局長と酒井さんが言う。薬局長にもばれてたか。

「彼女? って、本間さんが?」

「そう、年上の彼女」

 私の肩を抱いたままの達也さんの手に力が篭る。

「ウソ。そんな……」

「ウソじゃないよ。最初から、俺、言ってたでしょ。『本間先生と同い年の彼女』って」

「いつから?」

「川本先生が入職するよりも前から」

 川本さん。そんなに根掘り葉掘り聞いて。しんどくないの?


「ああ、もう。こんなところで修羅場ってないで。どこか喫茶店とかお店に入りなさい。みっともない」

 薬局長が、私の背中を押す。

 あ、本当だ。駅のコンコースで何やってるんだろ。

「桐生先生。薬局長の言うように場所を変えたほうが……」

 川本さんの顔が泣きそうになっている。

 電車を待つ人たちのいい見世物だ。

「じゃぁ、川本先生。ひとつだけ聞いて。俺の今の気持ちは沙織のモノなの。心変わりってね、した者も、された者も傷つくけど。”させた者”も一生、傷を負うんだよ。川本先生は、まだ若いんだからさ。そんな茨道をわざわざ歩くことないよ。ね?」

 達也さんはそう言うと

「薬局長、お騒がせしました。俺たちはタクシーでも拾います」

 と、私の肩を抱いたままタクシー乗り場のほうへ体の向きを変えた。

「二人とも、気をつけて帰りなさい」

 薬局長の言葉に振り返って、軽く会釈をする。その横で泣いている川本さんが見えた。



 タクシー乗り場も人が一杯で。順番を待ちながら、帰りに薬局から貰ってきていたタオルで髪を拭く。ノベルティーでタオルをくれたメーカーさんありがとう、だ。

「達也さん」

「うん?」

「傷、抱えてる?」

 彼の分もと、余分に貰ってきてたタオルをかぶっているその目を見つめる。

「傷って言うかさ。反省は一生続くと思う。欲に負けて、順番を間違えた負い目はある」

「そうか」

「ただ、後悔はしてないけどな」

 そう言って、彼は笑ってみせた。

「沙織は?」

「うん。後悔していない」

 澤田さんとの婚約が軽率だったと反省はするけど。

「だったら、良いんじゃないか。俺たちはあるべき関係にたどり着いたってことで」 

 そう言っていつものように私の目を見る達也さん。


 母の言葉が形を変える。


 川本さんに流させた涙に誇れるように、彼と幸せにならなきゃ。

 彼女の涙は、こんな華の栄養になったと。

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