プロローグ
その日、男は一人の女性に出会った。
地下にあるプラットホームから地上の改札へと向かうエスカレーターに乗っていた彼は、背後からのガタガタという物音を聞いて振り返った。
数段下のステップを踏み外したらしい中年男性が崩れた姿勢を立て直そうと必死で右側の手すりをつかんでいた。掴んだ手すりも乗っているステップも無情に動いていくためか、男性はもがいても、もがいても起き上がれずにいた。
そんな男性をさらに二つほど下のステップで支えている、小柄な女性。彼女の後ろには……無人の空間。
巻き添えを食らうのを恐れたらしい、彼女の後ろに並んでいた人たちは横に開いていたスペースを利用してさっさと通り過ぎていく。
ヤバイ。この子、巻き添えで一緒に落ちる。
男はもがく男性と同じ段、さらに一段上のステップの二ヶ所に足場を確保して、エスカレーターの左側の手すりを掴む。空いている方の手で男性の腕を掴んで、引っ張り起こす。息を合わせるように、女性が腕を伸ばすのが見えた。
何とか男性の姿勢がもどった。彼は礼も言わずそそくさと、ステップを駆け上がっていった。残されたのは男と、女性。
エスカレーターの降り口が近づく。
エスカレーターを降りて、改めて見ると男と同じくらいの年齢の女性だった
「大丈夫?」
「はい、ありがとうございました」
リクルートスーツらしい服装の彼女は礼を述べると、黒目がちの丸い目でじっと男の目を覗き込む。
心の中の全てを見られているような、その瞳。
なんて、瞳だろう。
男の心に、丸い瞳の魔物が住み着いた。
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その日、女は一人の男性に出会った。
昼食を摂りに入った一軒の蕎麦屋。
注文を済ませて、お茶を一口飲んで。
何気なく見た、窓の近くの座席。女と同じくらいの年齢のスポーツ刈りの男性が一人で食事をしていた。
この人、すごく食べる姿勢がきれい。
箸を握る指使いもその手の動きも。口元に運ぶ姿勢も。
女は運ばれてきた自身の昼食を食べながら、チラリチラリと視線が彼に向かうのを止められなかった。
食事を終えて立ち上がった彼と女の視線が合った。
短髪に、切れ長の目。リクルートスーツらしい黒いスーツ。
怖い、と思わせるようなその目が、女と合った瞬間にふっと緩んだ。
そして、すっと視線をはずすと、彼はレジへと足を向ける。
すれ違う他人をかわすその動きも、美しいと女は思った。
只者の体捌きじゃないわ。
相手の進路を妨げず、尚且つ、相手に譲られた意識も持たせない絶妙のボディコントロール。
女の心に、水の流れを思わせる魔物が住み着いた。