求めよ、その旋律を
――さわさわ。
それは、葉擦れの音でしかない。
くろがね色の髪の男は、そう自分に言い聞かせていた。
――さらさら。
それは、川のせせらぎに過ぎない。
自分にそう言い聞かせながら、男は森の傍を歩いていた。
うんざりだった。小鳥のさえずりや動物の声は愚か、風が、彼の髪を背に流していく些細な音すらも。
けれど、それでも聴覚を己から切り離すことまではできない。自分は弱い。
「最悪だな……」
そうつぶやくのも、すでに日課のようなもの。
男には、目的もない。日々をただ無駄に浪費しているだけ。毎日毎日、こうして森まで足を伸ばして、最悪だと零して、足が疲れたら踵を返してねぐらまで戻る。
それを繰り返すことが、いつの間にか男のすべてになっていた。
そのときまでは。
「……あん?」
男の口から、常にはない音が漏れた。
目の前にも、いつもとまったく違うものがある。
――倒れた、少年。
男は、美しく流れる髪を、無造作にばりばりとかきむしった。
熱い。
熱くて、死にそうだ。
水がほしい。
痛い。
……助けて。
「――す……て」
クフェサは、必死に手を伸ばした。その指先が、こつんと何かに当たった。
「おい」
――人の……声?
クフェサがそう認識する前に、両方のこめかみが急に何かに圧迫された。
「……ぅ」
「ん、元気そうだな。痛みに対する反応が早い」
そんな、のんきな言葉も振ってくる。クフェサは瞼に力を入れて、目を開けた。
「――!?」
「いきなりそんなに勢いよく目を開ける奴があるか。ずっと寝てたんだ、まぶしいに決まってるだろ?」
言ってくる口調はぞんざいで、声はクフェサの知らない男のものだった。焦点を合わせ――そんなことにも、多大な労力を必要とした――クフェサは、声の持ち主を捜した。
「よう」
隣に見つけた、気さくににやりと笑う顔。やはり、知らない男だった。長い鉄色の髪は艶を帯びて美しく、面差しは繊細だった。崩れた印象を与えるその表情を一切消してしまえば、充分美貌と表現することができるだろう。
「なんだよ。命の恩人に対して、礼もなしか?」
言っている内容とは裏腹に、男はにやにや笑っていた。人を食ったような態度に、クフェサはむっとして身体を起こしかけ。
「づづづづづづづ……!!」
「寝てろ。骨折れてたぞ。今さっき、クヴァール先生が手当てしてくれたところなんだ」
男は、クフェサが横になるのを手伝ってくれた。そのときに、クフェサは気づいた。この男は口は悪いが、親切なのだ(こめかみを押されたのは少し痛かったが、それほど深刻なものではなかったし)。
そして、もう一つ。
「っ、あんた」
痛む上に、しっかり添え木で固定されていた右腕に重さをかけないよう、気をつけてクフェサは左手を伸ばした。目を丸くする男に、何とか触れようとする。
「あんただ……間違いない」
しゃべるたびに本当は胸も痛かったが、クフェサは言葉を絞り出した。これだけを、なんとしても今、伝えなければならない。この男に。
「あんたが、イーヴァ・スーリンなんだな……!」
彼に逢うために、ここまでずっと旅をしてきたのだ。
――目的を達した安堵感と、休息を求める彼自身の身体が、そこで彼の意識を眠りの中に引き戻した。
イーヴァ・スーリン。
それは確かに、男の名前だった。だが、なぜ見ず知らずの少年が自分の名前を知っていたのか。
「ったく。こんなガキがこんなへんぴなところに、なんの用なんだか」
再び気絶してしまった少年を前に、彼は憮然とつぶやいた。
イーヴァは、長く長く溜息をつく。肩から滑り落ちてきた髪を払い、視線をめぐらせた。
少年の荷物は、本当に少なかった。旅に必要なものは、ほとんどを使い切ってしまったようだ。古い鞄の中はほとんどからだった。
だというのに。
「……相当、頑固者みたいだな」
自分の顔が歪んだのは、苦笑のためなのか何なのか、イーヴァにもわからなかった。
旅の必需品よりも自分の身よりも、弓引きの琴を守り通した、この少年。
――わしはもう駄目だ。
クフェサの師匠は、そう言った。
もう歌えない。いいながら楽器を無造作に放り投げた。
――そんなことない。あんたは俺の師匠だろう。
床に落ちそうになった楽器を必死で受け止めて、クフェサは師匠を睨みつけた。
師匠は、白い髭に覆われた顔に、寂しそうな笑みを浮かべた。
――もう駄目だ。わしの声は枯れてしまい、もう言葉を音とすることができない。音を物語に変えることはできない。そして、唯一残されていたこの楽器もまた……。
師匠の笑みが、苦いものになった。
――どうすれば。
クフェサは、問うていた。必死に、問いかけていた。
――どうすれば、この楽器は元に戻る?
師匠が、楽器に何を求めているのか、『元』とはどんな状態なのか、それすら知らずに彼は尋ねた。
師匠は、しばらく何も言わなかった。
クフェサはそれでも、師匠が答えをくれるのを待っていた。
やがて、師匠は……年老いた吟遊詩人はあきらめたように口を開いた。
――もう、十数年前になる。
語る師匠のまなざしは、憧憬の色に満ちていた。
――わしが生きてきた中で、最も心揺さぶる歌を紡いだあの男ならば、或いは……。
それは誰だ、と問いを重ねると、聞き慣れぬ響きの名前が帰ってきた。
――イーヴァ・スーリン。
クフェサは、大怪我をしてこの小さな村の診療所に運び込まれていた。動けるようになるまでここにいるといい、と親切なクヴァール医師は言ってくれ、彼もそれに甘えることにした。動きたくても、動けなかったのだ。
クフェサを見つけて、医者に運んでくれた男は、なんとイーヴァと名乗った。ずっと探してきた男だ。クフェサは飛び上がって喜んだ――気持ちの上ではそうだったが、身体はそれを許してくれなかった――が、彼はすぐにクフェサの興奮を握りつぶしてしまった。
「俺は、吟遊詩人でもなんでもないぞ。村の連中に聞いてみろ、俺が歌うどころか、楽器いじってるのも見たことないって言うぜ」
「っ、だって、師匠が!」
「同じ名前の別人だろ」
青鈍色の瞳と鉄色の長い髪の、繊細な顔立ちの青年は、見た目から受ける印象とまったく正反対の性格の持ち主のようだった。少し戸惑ったけれど、クフェサはめげずに正面から彼にぶつかっていった。かつて、クフェサの師匠をして最高と言わしめた、吟遊詩人なのだろう、と。
そして、けんもほろろに否定されたのである。
「納得できねぇって顔してるが、事実だぜ。受け止めろ」
イーヴァは、クフェサの頬をふにふにとつまんできた。その手を振り払おうとして、またしても折れた腕に激痛が走り、うめく彼にイーヴァはさらに言葉を重ねた。
「そんな奴探すより、自分の歌と演奏の腕磨けよ」
「……え?」
「いるのかいないのか、はっきりしねぇやつを探す時間を、そっちに当てた方がよっぽどましってもんだ」
にやり、とイーヴァは皮肉に口元を歪め。
クフェサが口を開く前に、さっさと立ち上がって部屋の扉を開けて出て行ってしまった。
閉じられてしまった扉の向こうから、くぐもった声が漏れ聞こえてくる。一人は、クヴァール医師だろう。イーヴァと何か話している。
「……絶対に、イーヴァが師匠の言ってた人だ」
クフェサは、唇をひき結んだ。
『ああ、心配ない。口の方はずいぶん元気だから、そのうち怪我もつられてよくなるさ。……どっからきたのか? ああ、そういや訊くの忘れたな』
イーヴァの声は、低くよく通る。
クフェサの、師匠と同じ。
弓引きの琴は、アフーという。古い民族楽器で、今はほとんど操れる者はいないだろう。
弦は二本。座った状態で身体に引き寄せももの上に置き、弦の間に弓を通してこすり合わせることで音を出す。音階は、微妙な指使いで調整するのだ。難易度は高い。
「……ばかばかしい」
イーヴァは苦笑して首を横に振った。
どうでもいい、ことだ。あの楽器の弾き手がいなくなってしまったとしても、イーヴァには関係ない。彼は、楽に携わる者ではないのだから。
もう、自分には関係ないのだ。
もう、永久に。
少年の分の食事を持って、イーヴァは夕方診療所の扉を叩いた。もう少し容態が落ち着くまで、クフェサはここで寝泊まりすることになっており、こうして食事を運ぶのはここ数日でイーヴァの日課になっている。
「おや、イーヴァ。ご苦労だね」
扉を開けるなり、挨拶してきたのがクヴァール医師。彼にも挨拶して、イーヴァはクフェサに視線を転じ。
硬直、した。
「イーヴァさん。毎日御飯ありがとな。今日は何?」
くった区内笑顔で振り向いた少年。もう、かなり動けるらしい。その手に、あの楽器を持っているくらいなのだから――。
「……これ、ここに置いておくからな」
その場ですぐに踵を返さなかっただけ、自制心は十分に持ったと言えるだろう。
預かってきた食事をなんとか近くの台に置いて、彼は医師への挨拶もそこそこに診療所を飛び出した。
走る。
村を抜けて、いつもの森へ。
森は、きっと変わらない。
クフェサに出会う前と。
あの楽器に、再会する前と。
「君は、何か得意な歌はあるのかね?」
急に様子のおかしくなったイーヴァを首をかしげて見送ったクフェサに、クヴァール医師は静かな声で問いかけてきた。少し考えて、クフェサは躊躇いつつも首肯する。極簡単なものだが、師匠に及第といわれた歌はいくつかあった。
「腕が治ったら、一度聞かせてくれんかね。村の者は皆歌が好きだ。こんな小さな村なものだから、あまり吟遊詩人が足を向けることはないがね」
「……俺でよければ……」
照れくさくて、嬉しくて、クフェサは頭をかいた。そして腕の痛みに顔をしかめたが、それも気にならない。右腕は骨折していたが、左腕は無事。それは本当に何よりだった。
あの楽器を演奏するためには、左腕――左指が何より大切なのだ。
そしてふと、思いついたことを医師に聞いてみたくなる。
「イーヴァさんって、ほんとに歌ったこととか楽器弾いたこととか、ないの?」
問いかけに、医師は一瞬目を瞠った。そして……少しの間をおいてから、ふと窓の外を見やる。
「……彼は、数年前ふらりと村へやってきたんだ」
唐突な話題の流れに戸惑うクフェサをよそに、医師は訥々と語る。
「君を見て、私は少し昔のことを思い出したよ。あれは、五年ほど前かな。君のように、行き倒れた旅人がいたんだよ」
医師が次に口にした言葉は、クフェサを驚愕させ、彼の中の推測を確信に変えた。
「その旅人も、君の持っているのと同じ楽器を持っていたよ」
森の向こうには、異郷がある。そこには、人を食う魔物がいる。
イーヴァの生まれたところでは、そう信じられていた。だが、それが迷信に過ぎないことをもうイーヴァは知っている。
あのとき、森に興味を持たなければ。
今でも、そう思う。
薄暮の中、彼は重なり合う木々の緑が徐々に暗がりに呑まれていく様をぼんやり眺めていた。ここは、あの森に酷似している。だから、足を運ばずにいられないのかもしれない。
「イーヴァさん」
何かを引きずるような音と、その声は同時に現れた。
振り返らなくても、クフェサだとわかる。杖をついてきても、あの怪我ではここまで来るのは困難だったろうに。
「どうして、そこまでする?」
「あんたを捜して、ここまであんたに会いに来たからだ」
「……自分の歌と腕を磨けと、言っただろう?」
「磨くさ。だけど、俺はその前に師匠の願いを叶えたい」
クフェサは、注意しながらゆっくりとイーヴァの隣に座ろうとする。その様子が危なっかしくて、彼は手を貸した。
「ありがとう」
礼には、答えず。
「お前は……歌が好きなのか」
問うと、クフェサの幼い顔は驚きに彩られ――すぐに劇的に変化した。
「もちろんさ。生まれたときからずっと好きで、きっと死ぬまで好きでいるさ」
何と真っ直ぐに、彼は答えることか。
イーヴァは目眩を覚え、きつく目を閉ざす。
この輝きを、この笑顔を、この純粋さを。
彼は、知っていた。
「――五年前に、俺が拾った行き倒れも……」
うめいて、彼は両の掌で顔を覆った。
「お前と同じように答えて、歌って――あの楽器を弾いた」
倒れていた旅人は、初老だった。ひどい怪我をしていたが、もともとからだが丈夫だったことが幸いして、彼は一命を取り留めた。
そして、礼だと言ってあの楽器を――アフーを奏で、朗々と歌ったのだ。
イーヴァの、故郷の歌を。
「アフーは、もうほとんど弾ける奴がいないんだ」
クフェサはぽつりとつぶやいた。空はもう暗い。森は寒い。
森の向こうが、闇だ。
「北の大陸から、どんどん新しい楽器と新しい音楽が入ってきている。王様がすごく奴らを気に入ってるんだ。それで……昔からの楽器や曲は、見向きもされなくなってきた」
そうなのだろう。あの王は無知で無邪気で、先のことなど考えてはいない。
音楽を、文化を積極的に導入し自ら率先してそれに馴染むことで、時刻がどんな道を辿るかなど、あの王にわかるはずがない。
もしも少しでも理解していたならば、イーヴァをあんなに簡単に切り捨てるはずがない。
「――王は、馬鹿だ」
イーヴァは空を仰いだ。星すら見えない。何と虚ろな。
「俺のいない間に、ますますあの愚かな政策を進めているのか」
どうなったのだろう、考えたくもない。
失いたくなかったのに。イーヴァは。それだけだったのに。
「俺は……国を愛していたのに」
イーヴァ・スーリン。
かつては、名前の前にこんな肩書きがあった。
<宮廷楽師>。
アフーを好くし、歌声は他の誰よりもよく通り豊かと讃えられた。イーヴァは何より音楽を愛していた。自分の国の歌を、自分の国の楽器を。
だが、国王が異国からの楽を愛でるようになってから、彼の地位も立場もがらりと変わってしまった。イーヴァはがんとして、外つ国の楽に親しもうとはしなかった。
そうして、思い詰めた末の国王への讒言がもととなり、彼は国を追放された。
「……師匠が言ってたよ」
うずくまるイーヴァの背中に、何かがそっと触れた。温かい。
クフェサ。
「あんたの歌は素晴らしかったって。忘れてしまっていたものを思いだしたような気持ちになったって。それから、師匠は昔から俺達の国にあった歌を集め出したんだって」
そろそろと、イーヴァは顔を上げた。少年の目の中を、まじまじと覗き込んだ。
そこに、嘘が隠れていないか。
そこに――本当に、真実の輝きがあるのかどうか。
「俺も教えてもらった。まだ習っていないのもあるけど、たくさん歌えるよ。それに、師匠が作った歌も」
クフェサはやおら立ち上がり、深く息を吸い込んだ。黙って見守るイーヴァの前で、幼いが十分にしっかりとした少年の歌声が紡がれ始める。
しばらく耳を傾けて、イーヴァはゆっくり目を瞠った。
その旋律は、イーヴァの知らないものだった。しかし同時に、どこか懐かしく思えた。
不可思議な安らぎすら覚える。なぜだろう。
必死にイーヴァは曲を追いかけ、しかし答えが出ないまま歌は余韻を残して終わってしまう。
「その歌は……?」
「師匠が作ったんだよ」
少年は元のように腰を下ろし、次の言葉にイーヴァは愕然となった。
「昔からの国の歌と、新しく北からやってきた音楽を組み合わせたんだ」
それはイーヴァにとって、あり得ない事実だった。
「何だと……?」
大切に大切に歌ってきた故国の歌と、聞くに堪えない異国の歌が。
「そんなことが……そんなことが、あっていいはずがない!」
聞き分けのない子供のように、イーヴァは激しく首を振った。耳をふさいで、目を固く閉じて。そうして、忘れたいと心から願った。
先ほど聞いたばかりの、あの旋律を。
「どうしてさ?」
少年はどこまでも無邪気に問いかけてくる。どれだけ強く耳を覆ってみても、その声はイーヴァの中に入ってくる。歌を歌うための声だ。
その声は、剣。刃が深く、イーヴァに突き刺さる。
「こんなに綺麗な歌なのに」
息を呑んで、彼は一切の動きを止めた。
何という声。
何という言葉。
致命的な。
「俺好きだよ、この歌」
少年は幼い。そして、歌うことが好きなだけ。そこに何の葛藤も柵も、拘りもない。
だからこそ、言えるのだろう。イーヴァが口にすることのできないこの言葉が。
あの時も、どうしても。
言えなかった。
「そうだな……」
身体を起こし、しかしうなだれたままイーヴァは低く嗤った。
故国を愛していた。それは事実だ。何よりも自分の国で生まれた音楽が好きだった。
けれど、海を渡って伝わった、異国の旋律を否定したのは。
「俺は……どうしても歌えなかったからだ」
ただそれだけの理由。
聴いたこともない音楽は、イーヴァのアフーでは再現できなかった。イーヴァの声も、どうしてもあの旋律を奏でることはできなかった。
――馴染み深い自国のものであれば、どんなものでもこの身にて奏することができるのに。
第一の宮廷楽師ともてはやされたイーヴァの自尊心も自負も、外つ国の新たな音の前にいともたやすく砕かれてしまったのだ。
たったそれだけで。
イーヴァは新たな音楽を拒否した。
愛していたすべてを捨てて、逃げた。
「俺は<伝説>なんて器じゃない。臆病で卑怯な小さい男だ。今までずっと逃げ続けている。お前の師匠が新しい道を切り開くために戦っていた間もな」
勇敢な少年にすべてを語り、イーヴァは目を覆った。泣く気力すらない。
歌うことなどなおさらだ。
「わかったらとっとと幻滅して帰れ。そして師匠の跡を継げ」
先に腰を上げ、彼は少年に手をさしのべた。まだ一人で立つのはつらいはずだ。
「帰るさ」
だが、立ち上がった少年の手は、しっかりとイーヴァのそれを握ったまま離れようとはしなかった。
何のつもりだとやや剣呑に睨みつけても、クフェサの瞳は強さを失わず、逆にイーヴァを圧倒した。
ひたむきな輝きだった。
「一緒に帰ろう」
「……何?」
思わずイーヴァは眉根を寄せ、少年はさらに言葉を続けた。
「一緒に帰って、新しい歌を作ろう」
「いやだ」
即座にイーヴァは答えを返した。
あの国ではもう、自分は用なしだ。何もできない。自ら捨てた。
おめおめと、戻れるはずがない。
「頼むよ……」
そこで、初めて。
少年の瞳が揺らいだ。
そこに満ちていたのは、涙。
「お前……?」
「俺だけじゃ駄目なんだ……」
弱々しく震える声。
そこで初めて、イーヴァは気づく。
クフェサは強いのではなく、張りつめていただけだったのだと。
「師匠の手はもう動かないんだ……声も出ない。俺はまだ……アフーの弾き方を習っていなかったのに」
我知らず手を伸ばして、イーヴァは少年の方を抱き締めていた。クフェサがすがりつくように身体を預けてきて、触れあった箇所が細かく震えた。
泣いている。
「歌うのが好きなんだ。アフーの音だって、聞いていたらすごく幸せになるんだ。……なのに俺がまだ未熟だから、アフーも弾けなくて……」
口惜しい。
そういって、少年は泣きじゃくる。
ぎこちなく背中を撫でてやりながら、イーヴァは夜空を見上げる。
暗い。
けれど、風が流れる。
雲を取り払う。
星が見えなかったわけを、イーヴァの頭上に煌々と晒して。
「俺は帰らない」
顔は上向けたまま、まぶしさに目を閉じて、イーヴァは口を開いた。
クフェサが目を上げたような動きは伝わってきたが、やはりイーヴァはそのままでいた。
「だが、アフーは教えてやろう」
「ほんと!?」
じたばたと腕の中でクフェサが動き、すぐにおとなしくなった。傷に響いたのだろう。少し笑って、イーヴァはゆっくりと目を開けた。
まぶしい。
黄金の月が。
「もちろん、その怪我が治ってからだ。無理をしないでとっととよくなれ」
「当たり前だよ! あんたこそ、絶対、約束だよ!」
「ああ」
抱擁を解いて、イーヴァは先に立って歩き出した。
口惜しいと泣く少年の嘆きは、かつての自分と同じ質のものだ。
痛いほど、それが伝わってきた。そうして思い知らされた。自分も、楽の徒なのだと。
今までも、これからも。
毎日この森の傍まで足を向けていたのも、同じ理由からだった。森の向こうにある故国と、追憶への未練から離れられなかった。
歌への思慕も。
「ちょ、ちょっと待ってよ……」
「さっさとこい。寒い」
「ここにきたの、あんたじゃないか」
軽口を叩き合いながら、前だけを見てイーヴァはゆっくり歩いた。
もう森の向こうを思うことはしない。捨ててきたのならば、心を決めよう。
そしてかわりに、願いと希望をあの先へ帰すのだ。
やがてクフェサが追いついて、イーヴァの隣に並んだ。しんしんと輝く月の光を浴びて、歌い手たる青年は少年と共に歩く。
後ろの森を振り返らずに。
こういう、何気ない日常をファンタジーで描きたいという気持ちで書きました。地味ですが思い入れはあります。