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私の資産で愛人を養っていたヒモクズ旦那。浮気の現場を押さえたら『これは人工呼吸(救急処理)だ』と言い張りやがった件

作者: 熾星
掲載日:2026/07/10

 

 神代家は不動産管理会社、商業ビル、高級マンション、いくつかの別邸を所有している。私は普段、メディアに顔を出すことがほとんどない。多くの人が知っているのは、私が神代不動産管理株式会社の代表取締役社長だということくらいで、神代家の本当の資産規模までは知られていなかった。


 海外投資ファンドの代表を迎えるため、私は神奈川県葉山町にある海辺の別邸を一棟、非公開のまま残していた。そこは賃貸にも売却にも出していない、特別な客人を迎えるためだけの家だった。内装工事が終わったあと、私は管理用の鍵を夫の蓮司に預け、定期的な換気と設備点検を頼んでいた。


 その日、私は急きょ、その別邸で大切な客を迎えることになった。玄関の扉を開けた瞬間、出迎えたのは管理担当者でも、家政婦でもなかった。シルクのガウンを羽織り、巻き髪の女が、コンビニで買った菓子を手にしたまま、まるで女主人のように玄関口にもたれていた。


 女は私を上から下まで眺めた。


「ねえ、そこの人。コンビニで生理用品を二つ買ってきて」


「あと、キッチンにある薬膳スープも持ってきて。こぼしたら、ただじゃおかないから」


 私は彼女の足元にある来客用スリッパを見て、それから背後のリビングへ視線を向けた。ソファには女物のショールがかけられ、ローテーブルには飲みかけのワイングラスが置かれている。玄関の棚には、蓮司がよく使っていたライターまで置かれていた。


 胸の奥に浮かんだ冷たさを、私は無理やり押し込めた。


「ここは私の家です」


「今日は大切なお客様をお迎えする予定があります。別邸の管理担当者を呼んでください」


 女の顔色が変わった。彼女は一歩前に出て、まるで私こそが勝手に入り込んだ部外者であるかのように、鋭い声を出した。


「あんたの家? 鏡を見てから言ったら?」


「こんなところに貧乏くさい女が来て、オーナーのふり?」


「よく見なさいよ。この家の女主人は私なの」


 庭で松の手入れをしていた庭師が、騒ぎを聞きつけて剪定ばさみを手に近づいてきた。彼は私を一瞥し、うんざりしたような目を向けた。どうやら、この女が別邸で人に命令する光景に、すっかり慣れているらしい。


「今回ばかりは、あなたのほうが悪いですよ」


「こちらの方は、黒瀬さんが一番大切にしている方です。管理会社の人間もみんな知っています。誰も失礼なことはしません」


 私は玄関に立ったまま、指先をゆっくり握りしめた。


 蓮司は、住み込みの家政婦を手配するという名目で、私の葉山の別邸に女を住まわせていた。


 それだけではない。


 彼はその女を、私の家で堂々と女主人の顔ができるほど、甘やかしていた。



 1



 私はその場で騒ぎ立てなかった。スマホを取り出し、別邸の防犯カメラの記録を開いた。映像の中で、二人はすでにここで夫婦気取りの暮らしをしていた。


 白石小雪が料理中に指をやけどすると、蓮司はすぐに彼女の手をつかみ、その指を口に含んだ。小雪が胸を押さえて苦しそうな顔をすると、蓮司は彼女を抱き寄せ、救急処置だと言い張った。


 けれど、防犯カメラの角度ははっきりしていた。彼の言う救急処置とは、ソファに押し倒して深く口づけることだった。その手は、彼女のガウンの裾から中へ入り込んでいた。


 私はその映像を蓮司に送った。十分もしないうちに、彼は別邸へやって来た。玄関を入るなり、彼の顔に後ろめたさは一切なく、むしろ怒りをぶつけるように私をにらんだ。


「澪、どういうつもりだ?」


「そんなふうにしか見られないなんて、君の考え方はおかしい」


「小雪は胸が苦しいと言っていたんだ。俺は助けただけだろう。君には人を思いやる気持ちもないのか?」


 私は彼を見つめた。ただただ、ばかばかしかった。


「日赤の救急法講習で、いつ舌を入れろなんて教わったの?」


 蓮司の顔が一瞬こわばり、すぐに険しくなった。


「言葉には気をつけろ」


「俺と小雪は何もない。勝手に侮辱するな」


 小雪は彼の後ろに立ち、目を赤くしてうつむいた。声だけは弱々しく、いかにも傷ついた人間のようだった。


「奥様、私はただ体調が悪かっただけです。そんなふうに言われたら、私、もう誰にも顔向けできません」


 私は動画を開いたまま、画面を二人に向けた。


「よく見なさい。顔向けできないのは誰なのか」


 蓮司は一度だけ画面を見て、すぐに視線をそらした。数秒黙ったあと、彼は急に冷笑した。まるで本当に悪いのは自分ではなく、私だと言わんばかりだった。


「何年夫婦をやってきたと思っているんだ。家に防犯カメラまでつけていたのか」


「澪、俺たちの間には、もう最低限の信頼すらないんだな」


 彼は小雪の手を取り、私を見もしないまま言った。


「行くぞ」


 二人はそのまま別邸を出ていった。こんな芝居は、もう何度も見ていた。先週、私が小雪の下着を彼が手洗いしていた理由を尋ねたとき、彼は私を心の狭い女だと言った。住み込みのスタッフを思いやっただけだ、と。


 その前には、小雪が夜に怖いと言ったから、彼女の部屋で午前三時まで付き添っていたこともあった。そのときも彼は、スタッフの心のケアをしていただけだと言い張った。


 毎回、彼は怒ったように家を出ていく。以前の私は、自分から連絡を入れ、彼をなだめ、さらにお金を振り込んで、ようやく帰ってきてもらっていた。


 けれど今回は、追いかけなかった。



 2



 蓮司のために、私は海外事業を広げる機会を一度あきらめたことがある。結婚生活を大切にしたかったからだ。彼が合う仕事がないと言えば、会社で常務執行役員兼海外事業部長の席を用意した。


 彼が苦労したくないと言えば、毎月五百万円の生活費を渡した。ロールス・ロイスが好きだと言えば、迷いもせず何台も買い与えた。家では彼の機嫌をうかがい、彼が不機嫌になればなだめ、疲れたと言えば私が折れた。


 子どもが欲しいと思ったときでさえ、私は先に彼の意思を確認した。


 その夜、私は秘書に指示して、別邸にある蓮司の私物をすべて片づけさせた。服、酒、ライター、ネクタイ、書斎に置いていたゴルフクラブまで、すべて箱に詰めさせた。リビングが元の姿を取り戻したとき、私の心は不思議なほど静かだった。


 私はずっと、彼は特別で、優しくて、弱い人に手を差し伸べずにはいられない人なのだと思っていた。けれど現実は、容赦なく私の目を覚まさせた。彼は優しいのではない。ただ、女に崇拝されることと、私の金で他人を囲うことに酔っていただけだった。


 私は弁護士に離婚協議書を作らせ、銀行には彼の家族カードをすべて停止するよう連絡した。


 今日から、神代家は神代姓を選ぶ夫を探す。



 3



 翌朝、私は久しぶりにぐっすり眠れた。スマホは何度も震えていた。すべて蓮司からのメッセージだった。文面は相変わらず傲慢で、私が止めたのは家族カードではなく、彼が当然のように所有している人生そのものだとでも思っているようだった。


「澪、正気か? 俺のカードまで止めるなんて」


「俺に選ばれなければ、中卒の君が東大卒の俺と結婚できるはずがなかっただろう」


「今すぐカードを戻せ。でなければ、一週間は帰らない」


 私は返事をしなかった。結婚前の記憶が浮かび上がる。父は亡くなる前、私の手を握り、将来結婚するなら相手には神代家に入ってもらうこと、子どもにも神代の姓を継がせることを約束させた。


 神代家の姓と資産を、私の代で終わらせてはいけない。けれど蓮司の母は当時、ひどく騒いだ。黒瀬家は三代続く家で、蓮司が妻の姓を選ぶなどあり得ない、と。


 私は蓮司のために、父との約束を破った。


 スマホがまた震えた。


「君が欲しがっているのは子どもだろう?」


「二百万円振り込むなら、今夜帰ることを考えてもいい」


「この機会を逃したら、もう二度と俺に触れさせてもらえると思うな」


 私は画面を見て、思わず笑った。子ども。まだそれで私を縛れると思っているらしい。


 以前の私は傷つき、折れていた。けれど今は違う。神代家に入ることを望む男なら、東京から大阪まで列ができるほどいる。


 どうして私が、彼としか子どもを持てないと思えるのだろう。



 4



 私は離婚協議書を送った。数秒後、蓮司からのメッセージが次々に届いた。その言葉の一つ一つが画面越しに叩きつけられ、私は初めて、彼の醜さをはっきり見た気がした。


「頭でも打ったのか?」


「本気で俺と離婚するつもりか?」


「中卒の君が俺と結婚できただけでも、ありがたく思うべきだろう」


「こんなやり方で俺を帰らせようとするなんて、澪、いつからそんなに情けなくなった?」


「戻ってきてほしいなら、君のほうから頭を下げに来い」


 私は彼の小さな自尊心を守るために、昔、自分は進学しなかったのだと言ったことがある。まさか彼がその「中卒」という言葉を、何年も私を侮辱するための道具にしていたとは思わなかった。


 画面を見つめながら、私はふとばかばかしくなった。


 私はどうして、こんな男を好きになったのだろう。


 しばらくして、小雪から音声メッセージが届いた。声は弱く、いかにも傷ついた被害者のように震えていた。


「奥様、本当に誤解なんです。私と蓮司さんは、そんな関係ではありません」


「私のせいでお二人が揉めるなら、私はもう家政婦を辞めます」


 続けて届いたのは、蓮司の声だった。


「小雪がここまで傷ついているのに、まだ騒ぐのか?」


「澪、君は昔こんな人間じゃなかった」


「救急処置をしただけで、離婚まで言い出すなんて」


 私は一言だけ返した。


「離婚協議書に署名して、二日以内に送って」


 その後のメッセージは一切見なかった。神代家に入る夫を探す話は、すでに外へ出している。二人の下手な芝居を見るより、今の私にはもっと大切なことがあった。



 5



 夜、東京の本宅に戻ると、リビングの明かりがついていた。蓮司が戻ってきたのかと思ったが、ソファに座っていたのは、彼の母と黒瀬家の親戚たちだった。彼女たちは私のリビングで、私の茶を飲み、私のカップを使いながら、少しも遠慮する様子がなかった。


 蓮司の母は、私がオークションで落札したばかりのルビーのネックレスを首にかけていた。叔母の手には私が注文したダイヤの指輪があり、別の親戚は私のエルメスのスカーフを肩にかけている。その一つ一つは、かつて私が婚姻関係を大事に思って贈った体面だった。


 蓮司の母は私を見るなり立ち上がった。


「よく平気な顔で帰ってこられたわね」


「黒瀬家に嫁いで何年も経つのに、子どもも産めない。そのうえ離婚なんて言い出すの?」


「男が外で少し誰かの面倒を見るくらい、よくあることでしょう」


 叔母も口を開いた。声には、上から見下ろすような哀れみが混じっていた。


「澪さん、女があまり欲張るものじゃないわ」


「蓮司は東大卒なのよ。選ばれただけでもありがたいと思わないと」


 別の親戚が続けた。


「昔の女なら、離婚なんて簡単に口にしなかったわ」


「夫にも年長者にもそんな態度を取るなんて、育ちが知れるわね」


 私は彼女たちが身につけているものを見て、ゆっくり笑った。叔母の息子が失業したとき、私は会社の後方部門に入れ、普通の社員より良い待遇を与えた。彼女の家の住宅ローン七百万円も、私が立て替えたものだ。


 もう一人の親戚の夫が事業に失敗して破産寸前になったとき、私は二千万円を出して助けた。今まで一度も返済を迫っていない。蓮司の母が身につけている真珠のネックレスも、高級な帯も、私が贈ったものだった。


 彼女たちは私の金で食べ、私の贈ったものを身につけながら、私に我慢を説いている。人は与えられ続けると、自分がもともと何者だったのかさえ忘れてしまうらしい。


「黒瀬さん」


 私は蓮司の母を見て、静かに言った。


「今の暮らしが誰のおかげで成り立っているのか、忘れたんですか?」


 彼女の顔色が変わった。


「今、なんて呼んだの?」


 彼女は手を振り上げた。私はその手首をつかみ、かつて私の頬を打った手を止めた。


 結婚したばかりの頃、私は蓮司に連れられて群馬の実家へ行った。古い木造家屋にはまともな暖房がなく、冬の朝は骨にしみるほど冷えた。蓮司の母は、体の不自由な祖母のポータブルトイレを片づけるよう私に命じ、動きが遅いと頬を打った。


 朝食が口に合わなければ打たれた。返事が気に入らなければ、また打たれた。


 あの頃の私は、蓮司のために耐えた。


 けれど、もう耐えない。


「あなたは私の母ではありません」


「今のあなたは、ただ蓮司の母親です」


 叔母が立ち上がり、顔をゆがめた。


「澪さん、なんてことを言うの。年長者に向かって」


 私は手を離し、ファイルを取り出した。離婚するのなら、結婚という名の布で隠してきた貸し借りも、ここで清算するべきだ。私は一枚目の書類を取り出し、叔母の前に置いた。


「これはあなたの借用書です」


「七百万円。二日以内に全額返してください。返せないなら、弁護士を通して請求します」


 二枚目の書類を、別の親戚の前に置いた。


「こちらはあなたの分です」


「元金と利息を合わせて、二千万円」


 私はほかの女たちへ視線を移した。彼女たちの身につけている宝飾品や小物を、一つずつ見ていく。


「それから、身につけているものはすべて、私名義の個人資産です」


 警備員がドアのところに現れた。


「ご本人のものではない品は、こちらでお預かりします」


 リビングは一気に騒然となった。蓮司の母は顔を青ざめさせ、甲高い声を上げた。


「そんなこと、許されると思っているの?」


 私は別邸の登記資料を取り出し、テーブルに置いた。その瞬間、全員の視線が書類に集まった。さっきまで一番騒いでいた蓮司の母でさえ、一瞬だけ黙った。


「もう一つあります」


「葉山の別邸は、神代家が海外の賓客を迎えるための場所です」


「そこに住み込みの家政婦を置き、女主人のように振る舞わせた」


「黒瀬家として、どう責任を取るつもりなのか、よく考えてください」


 彼女たちが追い出された頃には、夜の十時を過ぎていた。スマホはまた震えていたが、私は見なかった。蓮司の連絡先をすべてブロックし、部屋に戻って眠った。



 6



 翌朝、蓮司は小雪を連れてやって来た。本宅の玄関先に立つ彼の顔は、一晩眠れなかったようにひどかった。小雪はその後ろに隠れ、相変わらず弱々しく無垢な顔をしていた。


「澪、俺たちはまだ離婚していないんだぞ。なのに、もう神代家に入る夫を探しているのか?」


 私は離婚協議書を彼の前に置いた。


「時間の問題でしょう」


「候補者を見極める時間を邪魔しないで」


 蓮司は明らかに言葉を失った。彼は今でも、私がただ怒っているだけで、最後にはいつものように折れて、自分をなだめに来ると思っていたのだろう。


「何年夫婦をやってきたと思っているんだ。小雪に一度救急処置をしただけで離婚するのか?」


「よく考えてみろ。あのとき俺が証言しなければ、君に今の生活があったと思うのか?」


 昔、私は電車の中でスマホを盗んだと疑われた。車内の誰も私のために口を開こうとしなかった。蓮司だけが前に出て、私の無実を証言してくれた。


 あのときの彼は、私にとって光のように見えた。私は彼を善良な人間だと思った。その印象にすがって、何年もの間、私は何度も自分に言い聞かせてきた。


 けれど、たった一度の善意で、その後の悪意までなかったことにはできない。


「今のあなたは、私にとってただのごみよ」


 蓮司の顔がこわばった。


「俺をごみだと言うのか?」


 私は答えなかった。彼は歯を食いしばって笑った。その目には、傲慢さと憎しみが混ざっていた。


「離婚したいならすればいい。夫婦の共有財産は八割もらう」


「この会社がここまで大きくなったのは、東大卒の俺が夫として支えてやったからだ」


 私は彼を見て、怒ることさえ無駄に思えた。


「不倫しておいて、八割?」


「正気なの?」


 蓮司は声を荒らげた。


「俺がいつ不倫した?」


「助けただけだと言っているだろう!」


 私はもう争う気もなかった。


「署名しないなら、それで構わない」


「家庭裁判所から調停の呼出状が届くはずよ」


 蓮司は冷笑し、わざと小雪へ視線を向けた。


「俺と別れて、ほかに相手がいるとでも?」


「小雪は少なくとも東大卒だ。君よりずっとましだ」


 小雪はそばで、わずかに得意げな顔をしていた。私は一部の資料をテーブルに投げた。紙が広がった瞬間、彼女の表情が変わった。


「彼女の東大卒という経歴は嘘よ」


 蓮司は資料を手に取り、読み進めるほどに顔を険しくしていった。小雪の履歴書は偽造されていた。東京大学卒どころか、高校もまともに卒業していない。数秒後、彼は拳を握りしめ、次の瞬間、小雪の頬を打った。


 小雪は床に倒れ、スカートの裾に血がにじんだ。彼女は腹を押さえ、声を変えた。


「蓮司さん、赤ちゃんが……赤ちゃんを助けて!」


 リビングが一瞬、静まり返った。私は二人を見つめた。汚い関係だとは知っていた。けれど、子どもまでできているとは思っていなかった。


 蓮司は一歩後ずさり、顔に嫌悪を浮かべた。


「誰の子だよ」


「俺が君みたいな女と子どもを作るわけがないだろう」


 小雪は顔を上げた。目にはもう、憎しみしかなかった。


「今さら知らないふり?」


「あの奥さんは退屈だとか、私との子なら頭のいい子が生まれるとか言ったのは誰?」


「あなたの言葉を信じたから、避妊しなくてもいいって思ったのに」


 そのとき、私はようやくわかった。私が子どもを望むたび、彼が何かと理由をつけて拒んできたわけが。


 彼は子どもが欲しくなかったのではない。


 私との子が欲しくなかっただけだ。


 蓮司は私のほうを向き、表情をすぐに変えた。


「澪、彼女に誘われただけなんだ」


「一度だけ間違えた。男なら誰でも犯すような過ちだ」


「君は子どもが欲しかったんだろう? 今からやり直せる」


 彼が手を伸ばしてきた。私は身を引いた。胃の奥が冷たくなった。


「触らないで」


 彼の手が宙で止まった。


「澪、もう一度だけチャンスをくれ」


「これからは何でも君の言うとおりにする」


 私は玄関を指さした。


「署名するか、調停で会うか。選びなさい」


 蓮司の顔が暗く沈んだ。


「俺は署名しない」


 私はスマホを手に取り、弁護士へ連絡した。小雪はすでに意識を失っていたので、警備員に一一九番通報させ、救急隊へ引き渡すよう指示した。蓮司だけはその場から退去させた。


 彼は玄関で振り返り、陰った目で私をにらんだ。


「澪、覚えていろよ」


 扉が閉まると、家の中はようやく静かになった。



 7



 翌日の午前中、私はオフィスで秘書がまとめた候補者リストに目を通していた。家柄、容姿、学歴、性格。どれを取っても、適当に選んだ一人でさえ蓮司よりましだった。


 十時、臨時株主総会を兼ねた経営説明会が始まった。主要株主、取締役、顧問弁護士、財務責任者が会議室にそろっている。私は下半期の海外展開計画をスクリーンに映した。


「当社はこれまで国内市場を中心に事業を進めてきました」


「しかし、東南アジアと北米の不動産ファンドとの連携はすでに成熟しています。下半期は、海外資産への投資枠を確保する予定です」


 田村会長は私を見て、うなずいた。


「澪、この件は君の判断で進めなさい」


 田村会長は神代家を昔から支えてきた人物だった。彼がそう言うと、ほかの出席者から大きな反対は出なかった。会議が終わりかけたとき、扉が勢いよく開いた。


 蓮司が入ってきた。秘書が後ろから追いかけてきて、青ざめた顔で頭を下げた。


「社長、申し訳ありません。黒瀬部長を止めきれませんでした」


 私は蓮司を見た。


「家庭裁判所からの呼出状は届いたはずだけど」


「今日は何をしに来たの?」


 蓮司は冷笑し、会議室の中央へ進んだ。彼は私が神代姓を選ぶ夫を探しているという案内文をスクリーンに映し、出席者たちを見回した。まるで、自分が形勢をひっくり返す舞台に立ったつもりでいるようだった。


「皆さん、ここにいる神代社長が、実は中卒だということをご存じですか?」


「まともな学歴もないうえに、婚姻関係が続いている最中に男を探している」


「そんな私生活も管理できない人間が、代表取締役でいていいのでしょうか」


 会議室にざわめきが広がった。何人かの小株主は顔色を変え、私を見る目に迷いが浮かんだ。


「中卒?」


「まさか」


「神代姓を選ぶ夫を探しているとなると、会社のイメージには確かに影響があるな」


 蓮司はさらに続けた。


「私は東京大学経済学部卒です」


「澪とは夫婦です」


「彼女が過ちを犯したのなら、私が支え、神代不動産をより安定した方向へ導くことができます」


 私は彼を見て、笑いそうになった。こんな数分の演説で、会社を奪えると思っているのだろうか。神代不動産の七十パーセントの株式は私が保有している。


 彼は一体、どこからその自信を持ってきたのか。


 田村会長の表情が険しくなった。


「黒瀬君、作り話をするなら、もう少しまともなものにしなさい」


「誰が澪を中卒だと言った?」


 私は資料を開き、自分の卒業証明をスクリーンに映した。ハーバード・ビジネス・スクールのMBA。卒業証明書と大学への照会記録はそろっている。


 蓮司は画面を見つめ、顔から血の気を失っていった。


「あり得ない」


「こんなもの、偽物だ」


 私は淡々と言った。


「顧問弁護士を通して確認すればいいわ」


 田村会長は出席者たちを見渡した。


「澪は私が子どもの頃から見てきた。海外で学び、帰国して会社を継いだことも、すべて記録がある」


 会議室の空気が一気に変わった。


「神代社長は、ずいぶん控えめにしていらしたんですね」


「ハーバードのMBAか。海外ファンドとの交渉を社長自ら担当していたのも納得だ」


 蓮司は歯を食いしばり、それでも引き下がらなかった。


「学歴が本物でも、婚姻中に男を探していた事実は変わらない」


 私は彼を見た。


「神代家に入る夫を探しているのは事実よ」


「ただし、それは私たちの婚姻関係が破綻したあとです」


 私は防犯カメラの映像をスクリーンに映した。画面の中で、小雪はソファに座り、蓮司は彼女に顔を寄せて口づけている。その手が彼女のガウンの中へ入っていくところまで、はっきり映っていた。


 蓮司は慌てて前へ出て、映像を止めようとした。だが、見るべきものはすでに全員が見ていた。


 会議室が数秒静まり、その後、誰かが低く笑った。私は蓮司を見た。かつて何より体面を気にしていたその顔が、少しずつ赤くなっていく。


「小雪が指をやけどすれば、あなたはその指を口に含んで物理的に冷やしたと言った」


「彼女の下着を手洗いしたときは、スタッフへの気遣いだと言った」


「私の別邸でここまですることを、あなたは救急処置だと言い張った」


「黒瀬さん、全員に目がないとでも思っているの?」


 取締役たちの表情が微妙にゆがんだ。蓮司の顔は赤くなり、白くなり、最後には青ざめた。自分が作り上げてきたエリートの仮面が、粉々に砕けたことを、ようやく理解したようだった。


 私は映像を消した。


「今日付で、あなたの海外事業部長の職を解きます」


「常務執行役員としての契約も停止。必要な手続きは顧問弁護士を通して進めます」


 蓮司は急に笑った。


「忘れたのか? 君は俺に十五パーセントの株を渡した」


「俺にも発言権はある」


 私はうなずいた。


「思い出させてくれて助かったわ」


 秘書が別の資料を出席者全員に配った。それは蓮司が会社資金を私的に流用した記録だった。総額は一億二千万円。三月二十日、四百万円の高級オーダースーツ。三月二十五日、百五十万円の宝石付き腕時計。三月二十八日、港区のマンション購入の頭金三千万円。


 そのほかにも、ホテル代、ジュエリー、海外旅行、小雪名義の口座への複数回の送金が並んでいた。会議室は完全に静まり返った。蓮司は唇を動かしたが、一言も出てこなかった。


「あなたが株式を受け取ったとき、重大な背任行為があった場合の買戻し条項に署名している」


「業務上横領、会社資金の私的流用、会社に損害を与える行為があれば、神代家は契約に基づいて株式を買い戻し、民事上および刑事上の責任を追及できます」


 私は彼を見た。


「東大卒のあなたが、自分の署名した契約も覚えていないの?」


 蓮司の顔色がついに変わった。私は秘書に目で合図した。


「顧問弁護士を通じて、告訴状と証拠資料を提出して」


 蓮司は私の前に駆け寄り、その場にひざをついて私の脚にしがみついた。さっきまで会社を奪おうとしていた男は、今では最後の体面すらかなぐり捨てていた。


「澪、悪かった」


「ほんの出来心だったんだ」


「告訴だけはしないでくれ。夫婦だった情けで、一度だけ許してくれ」


 私は彼を見下ろした。心は少しも動かなかった。


「遅いわ」


 遅すぎる後悔に、価値なんてない。



 8



 その後、蓮司は顧問弁護士が提出した証拠資料をもとに、業務上横領と特別背任の疑いで捜査を受けることになった。金額は大きく、証拠も十分だった。やがて彼は起訴され、数年の実刑判決を受けた。


 彼の名義財産は、会社への損害賠償に充てられた。


 離婚調停の日、彼は家庭裁判所に連れてこられた。短い間に、彼は別人のようにやつれていた。顔色は悪く、無精ひげが伸び、目の下には疲れがたまっている。東大卒の肩書きと整った外見で人を見下していた男の面影は、もうほとんどなかった。


 彼は私を見るなり、目にかすかな光を浮かべた。次の瞬間、その場にひざをついた。


「澪、夫婦だったことに免じて、助けてくれ」


「俺が悪かった。もう二度とあんなことはしない」


「これからは本当に変わる」


 職員がすぐに彼を席へ戻した。私は彼を見なかった。弁護士の準備は万全で、手続きは滞りなく進んだ。調停を経て、離婚は私の望む形で成立した。


 蓮司は神代家の財産に一切手を出せなかった。


 家庭裁判所を出ると、陽光が私の肩に落ちた。私は空を見上げ、静かに息を吐いた。その瞬間、私はようやくこの結婚から抜け出せたのだと思った。


 今日から、私はただの神代澪だ。


 誰かの妻ではない。


 父との約束を破ってまで、愛にすがっていた娘でもない。



 9



 秘書から電話がかかってきた。声には珍しく、少し弾んだ響きがあった。どうやら候補者の中から、本当に条件に合う人物を見つけたらしい。


「社長、ご希望に合う方が見つかりました。身長百八十センチ以上、体も鍛えていて、容姿もよく、わがままではなく、誰にでも優しい顔をするタイプでもありません。神代家に入ることにも同意しています」


 私は彼女が送ってきた写真を開いた。そこに写っていた男は、整った眉目に黒い髪、濃紺のスーツを着こなし、清潔で落ち着いた雰囲気をまとっていた。私は数秒見つめて、ようやくその顔に気づいた。


 これ、子どもの頃から一緒に育った一条朔也じゃない。


 いつ日本に戻ってきたのだろう。


 写真を最後まで見る前に、彼からメッセージが届いた。


「澪、日本に戻った」


「会えないかな」


 私たちは銀座のフレンチレストランで会うことにした。私は約束の時間より少し早く着き、席についてから、自分が少し楽しみにしていることに気づいた。朔也とは幼い頃からの知り合いで、神代家と一条家は昔から親しかった。


 子どもの頃、私たちは神社の夏祭りで走り回り、大人に叱られたこともある。中学生になった頃、私は急に男女の違いを意識するようになり、彼と距離を置き始めた。すると彼もなぜか私に素っ気なくなり、私たちはだんだんぎこちなくなった。


 その後、一条家の都合で朔也は海外へ出た。以来、会う機会はほとんどなかった。


 そんなことを思い出していると、目の前に影が落ちた。顔を上げると、朔也がすぐそばに立っていた。その目は、昔と同じように明るかった。けれど少年の頃のとがった雰囲気は消え、落ち着いた優しさが加わっている。


「久しぶり、澪」


 私は笑った。


「久しぶり」


 食事は想像していたより自然に進んだ。私たちは子どもの頃の話をし、離れていた間のことも話した。朔也の話し方は穏やかで、急かすようなところがない。それなのに、何度も私を笑わせた。


 長い空白があったはずなのに、気まずさはなかった。その空白の年月が、この夜、そっとつながったようだった。


 食事が終わる頃、彼は急に真剣な顔になった。


「澪、俺は神代家に入りたい」


「よければ、俺に機会をくれないか」


 私は一瞬、言葉を失った。


「朔也、あなたは一条家の長男でしょう」


「私が同意しても、家が納得するとは限らない」


「神代家に入るというのは、簡単な話じゃないの。あなたは神代姓を選ぶことになる。将来の子どもも神代姓になる」


「夫婦財産契約と婚前合意書も、正式な書面にする。一つでも重大な背信行為があれば、その時点で結婚は終わる」


 朔也は迷わなかった。


「家のことを心配しているだけなら、俺を甘く見すぎだよ」


「弟が一条家を継ぐことになっている。俺はもう、あそこに残らなくていい」


「神代姓になることも、子どもが神代姓になることも、何も問題ない」


「契約書だって、全部きちんと署名する」


 彼は私を見つめ、声を少しだけ柔らかくした。


「俺はずっと前から、澪が好きだった」


「ただ、君が気づかなかっただけだ」


「海外に出て、戻ってきたときには、もう君は結婚していた。だから、黙って幸せを願うしかなかった」


「でも、あいつは君を大事にしなかった」


「あいつには、澪はもったいなかった」


「今、ようやく待てた気がする。俺に機会をくれないか」


 私は彼を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。朔也が私を好きだったなんて、考えたこともなかった。


 けれど、緊張しながらも真剣な彼を見ていると、悪くないと思えてきた。


 だって、昔からよく知っている。


 それに、顔もかなり好みだった。


「……考えなくもないけど」


 私が言い終える前に、朔也は笑った。彼はテーブルを回り込み、私をそっと抱きしめた。動きは控えめだったが、喜びは隠しきれていなかった。


「よかった、澪」



 10



 私と朔也の結婚は、驚くほど順調に進んだ。彼は神代姓を選び、神代家に入った。夫婦財産契約と婚前合意書も正式に作成し、彼は最初から最後まで一言も不満を言わなかった。


 結婚後の生活は、思っていた以上に合っていた。外では私は変わらず、神代不動産の代表取締役社長であり続けた。家では、朔也が生活を穏やかに整えてくれた。彼は私の仕事に口を出すことはない。それでも私が疲れて帰ると、灯りと温かい汁物が用意されていた。


 結婚して一年目、私は妊娠した。朔也は栄養に関する資格の勉強を始め、妊娠中の食事や検査データを、取締役会の資料より細かく管理した。朝昼晩の食事も、すべて彼が考えてくれた。


 私が、昼は会社の食事でいいと言うと、彼はまるで重大な契約書を見るような真剣な顔で眉を寄せた。


「それはだめだよ」


「妊娠中の食事は、適当にしていいものじゃない」


 彼に支えられ、私は無事に子どもを産んだ。子どもの名は、神代楽。


 父との約束は、ようやくこの瞬間に報われた。



 11



 五年後、私は朔也とともに帝国ホテルのチャリティー晩餐会に出席した。宴会場で、出所後の蓮司を見かけた。彼は派遣スタッフの制服を着て、客にうつむき加減で酒を注いでいた。以前よりずっと痩せていた。


 首元には醜い傷跡があった。襟で隠しているつもりのようだったが、私にはすぐにわかった。私が彼に気づいたとき、彼もちょうど顔を上げた。


 彼の目には、苦痛、後悔、未練、そして私にはもう知る必要のない感情が混ざっていた。けれど、私にとって彼はもう重要ではなかった。私はそのまま背を向け、テラスで少し風に当たろうと宴会場の外へ向かった。


 背後から、慌ただしい足音が聞こえた。蓮司が追いかけてきた。声には、無理に押し殺した卑屈さがにじんでいた。


「澪」


「この五年、元気だったか」


「俺が悪かった」


「もう一度、やり直せないか」


 朔也が私の前に立ち、彼を押しのけた。


「澪に触るな」


 蓮司の表情が固まった。


「また結婚したのか?」


 私は思わず笑った。


「今がいつの時代だと思っているの?」


「あなたのために、一生一人でいるとでも?」


 朔也は会場責任者を呼んだ。駆けつけた責任者は私たちを見て、すぐに顔色を変えた。おそらく誰なのか気づいたのだろう。


「今後、こういう人間を会場に入れないでください」


「澪が不快になります」


 責任者はすぐに警備員を呼んだ。蓮司は連れていかれそうになると、急にその場にひざをつき、じゅうたんの端を必死につかんだ。


「澪、頼む」


「この仕事を失ったら、もう本当に行くところがない」


「何社も断られたんだ」


「やっと見つけた仕事なんだ」


「頼む。少しでいいから助けてくれ」


 私は彼を見た。心は何一つ動かなかった。


「気持ち悪い」


 朔也が責任者を見た。


「早く連れていってください」


 責任者は何度も私に頭を下げた。


「神代社長、このたびは誠に申し訳ございません。今後はスタッフの確認を徹底いたします」


 私は静かに言った。


「誰でも入れればいいというものではありません」


 その一言で、蓮司が同じ格の会場に入ることは二度となくなった。前科があり、神代家にまで目をつけられた人間のために、主催者や財界の客を敵に回す者などいない。


 晩餐会が終わったあと、朔也は私の手を取って帝国ホテルを出た。夜風が吹き、東京の明かりが私たちを照らしていた。私は一度だけ、灯りに満ちた宴会場を振り返り、すぐに視線を戻した。


 今の私には、そばにいてくれる優しい夫がいる。


 神代家の未来がある。


 そして、私自身の人生がある。


 今さら、腐った過去を振り返る理由なんて一つもない。







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