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「冷たい女」と婚約破棄されましたが、実は王家の戴冠式は私の白磁なしでは成立しませんの

作者: uta
掲載日:2026/06/26

「今日この場をもって、エリアーナ・フォン・ローゼンハイムとの婚約を破棄する」


王太子殿下の声が、煌びやかな大広間に響き渡った。


シャンデリアの灯りが数百の宝石を煌めかせ、楽団の演奏が不自然に途切れる。私の婚約披露パーティーだったはずの場は、一瞬にして断罪の舞台へと変貌した。


(ああ、やっと。やっとこの日が来ましたのね)


私は手にした白磁のティーカップ——亡き母から受け継いだ、月華窯の至宝——をそっと傾けた。琥珀色の紅茶が、淡い月光のような釉薬の上で揺れる。


「殿下、突然何を仰るのですか!」


父が青ざめた顔で前に出ようとするのを、私は目線で制した。大丈夫ですわ、お父様。これは私が三年間待ち望んでいた瞬間なのですから。


「君のような冷たい女より、心優しいリリアーナの方が王妃にふさわしい」


殿下の腕には、涙に濡れた露草色の瞳を伏せる義妹が寄り添っていた。蜂蜜色の巻き毛が震え、桃色の頬には一筋の涙が伝う。完璧な被害者の構図。


(まあ、リリアーナ。その涙、今朝方から練習なさっていたものですわね。侍女のベルタから聞きましたわ)


「お姉様、ごめんなさい……! でも、殿下が可哀想で……私、殿下のお傍にいたくて……」


義妹の震える声に、会場の貴婦人たちがハンカチを目元に当てる。なんと健気な、なんと純粋な恋心でしょう——そんな囁きが聞こえた。


(可哀想なのは殿下ではなく、私の三年間ですわ。四十九回。殿下が私との約束を破り、義妹を優先なさった回数です。数えておりましたの)


「エリアーナ嬢は常に冷たく、私の言葉に耳を傾けなかった」


殿下が正義感に燃える碧眼で私を見据える。ああ、その表情。弱者を守る騎士を演じる時の、自己陶酔に満ちた顔。何度見せられたことか。


「しかし殿下」と、義母カロリーネが扇で口元を隠しながら進み出た。「エリアーナは確かに陰気な子ですけれど、ローゼンハイム家の正嫡。このような場で婚約破棄など、王家のお名前に傷が」


「黙れ! 私は真実の愛を選んだのだ!」


殿下の一喝に、義母は見事に怯んでみせた。けれど私には見えていた。義母の目の奥に走った、隠しきれない歓喜の光を。


(お義母様、演技がお下手ですわね。鏡の前で練習なさった方がよろしくてよ)


会場に嘲笑が広がり始める。「やはり氷の令嬢は」「愛されなかったのね」「可哀想に」——同情とも侮蔑ともつかない声。


その全てを、私は白磁のカップ越しに眺めていた。


「承知いたしました、殿下」


私の静かな声が、ざわめきを切り裂く。


「……は?」


殿下が呆けた顔をした。予想していた反応ではなかったのだろう。泣き崩れるか、怒り狂うか、命乞いをするか——そのどれかを期待していたに違いない。


「三年間のご厚情、感謝いたします」


私は最後の一口を優雅に飲み干した。月華窯の白磁は、紅茶を最も美しい温度で保つ。母が生涯をかけて完成させた技術。その価値を、この場の誰一人として理解していない。


「リリアーナ様、殿下をどうぞよろしくお願いいたします」


義妹の目が僅かに見開かれた。勝ち誇った笑みを浮かべる準備をしていたのに、肩透かしを食らったのだろう。


「お、お姉様……怒っていらっしゃらないの……?」


「怒る?」


私は小さく首を傾げた。


「何故でしょう。私は殿下の五十回目の無礼を、こうして区切りよくお受けできましたもの」


「五十……回?」


殿下の声が裏返った。


「ええ。数えておりましたの。記録は全て残してございます。日付、場所、内容——詳細に」


「き、記録……? 何の話だ」


「ご存知ありませんでしたか? 婚約期間中の不誠実な行為は、王家への報告義務がございますの。形式的なものですけれど」


殿下の顔が強張った。何を記録されているのか、心当たりがありすぎるのだろう。


「エリアーナ、貴女まさか——」


義母の声が震えている。


「ご安心くださいませ、お義母様。提出はまだしておりませんわ。……まだ、は」


私は完璧な角度で一礼した。三年間、毎朝鏡の前で練習した所作。最後に披露する機会が訪れたことに、心の中で苦笑する。


「では、これにて失礼いたします」


「待て、エリアーナ! まだ話は終わっていない!」


殿下の声を背に、私は振り返った。


「いいえ、殿下。終わりましたわ。——三年前から、とうに」


「お姉様、待って!」


リリアーナが叫んだ。その声には、勝利の余韻ではなく、奇妙な焦りが混じっていた。


「月華窯は……あの工房はどうなるの!?」


(あら。それを気にするの。少しは頭が回るようになったのかしら)


「貴女が気にすることではございませんわ、リリアーナ様。だって——ただの食器でしょう?」


義妹の顔が引きつった。自分が以前言った言葉を、そのまま返されたことに気付いたのだろう。


「どうぞお幸せに、殿下、リリアーナ様。お二人にはきっと、お似合いの未来が待っておりますわ」


広間の扉が閉まる直前、控えていた侍女マリアンヌの姿が見えた。彼女は僅かに頷き、そして——初めて見せる、満足げな微笑みを浮かべた。


(ええ、マリアンヌ。準備は整っておりますわね)


月華窯の全て。職人たち。そして私の本当の財産。


殿下が気付く頃には、全てが遅いのですわ。


扉が閉まる音が、三年間の終わりを告げた。




        * * *




「お嬢様、御髪が乱れておりますわ」


マリアンヌの声は、いつもと変わらず穏やかだった。まるで先程の婚約破棄劇が、午後の茶会程度の出来事であるかのように。


「ありがとう、マリアンヌ。でも今は髪より先に、確認したいことがあるの」


私は馬車の揺れに身を任せながら、窓の外を流れる王都の夜景を見つめた。


「テオドール爺やからの連絡は?」


「一刻前に届いております。『月が満ちました』と」


(それは——全ての準備が整ったという暗号)


私は知らず、唇の端を持ち上げていた。


「マリアンヌ。貴女、私のこと、薄情だと思う?」


「いいえ、お嬢様」


侍女は迷いなく答えた。


「お嬢様は三年間、あの方々に四十九回もの機会をお与えになりました。悔い改める機会を。それを無駄にしたのは、あちら様方でございます」


「……そうね」


私は膝の上に置いた白磁のカップを見下ろした。母の形見。月華窯最後の継承者の証。


母は七年前、私が十歳の時に病で逝った。


『エリアーナ。この窯だけは、貴女の手で守りなさい。これは貴女の翼になるから』


母の言葉の意味を、幼い私は理解できなかった。けれど今なら分かる。


月華窯の白磁は、王家の秘宝とされている。一客で城が買えるほどの価値を持つ——それは、王家が流した噂だ。本当の価値は、そんな金銭で測れるものではない。


「お嬢様」


馬車が屋敷の前で止まった。けれどマリアンヌは、正門ではなく裏手の小路へ私を導いた。


「こちらへ」


月明かりの下、見慣れた工房の煙突が見えた。職人たちの住居と一体になった、小さな王国。私の母が、そして私が、人生を捧げてきた場所。


「お嬢様!」


工房の扉が開き、白髪の老人が姿を現した。テオドール・ヴァイス。月華窯の筆頭職人であり、母の代から仕える忠臣。


「爺や。皆は?」


「全員、準備完了しております。荷は三日前から少しずつ運び出しておりました。今宵中に国境を越えられます」


(三日前から。私が指示を出すより早く)


「……爺やには敵わないわね」


「何を仰いますか。先代様——貴女様のお母上から仕えて四十年。このくらいは読めませんと」


老職人の目尻に皺が刻まれた。笑っているのだ、この寡黙な男が。


「あの王太子とやらがお嬢様の価値を分からぬのは、最初から分かっておりました。問題は、いつお嬢様が見切りをつけるかだけで」


「辛辣ね、爺や」


「事実を申したまでで」


工房の中は、既に空だった。轆轤も、窯も、釉薬の壺も——母から受け継いだ全てが、丁寧に梱包されて運び出されている。


残されているのは、壁に掛かった一枚の絵だけ。


「これは……」


「先代様の肖像画でございます。お嬢様に直接お渡しするよう、遺言を承っておりました」


絵の中の母は、微笑んでいた。銀灰色の髪と淡い紫水晶の瞳——私と同じ色。けれど母の目には、私には無い温かさがあった。


「お母様……」


『この窯は貴女の翼になる』


今なら、その意味が分かる。


月華窯の技術。職人たち。王家との取引権。そして——戴冠式の祭器を作れるのは、この世で月華窯だけという事実。


それら全てが、今夜、この国を去る。


「お嬢様」


マリアンヌが、一通の封書を差し出した。


「こちらは?」


「ヴェルディア王国より、お嬢様宛に届いたものでございます。一月前に」


封蝋には、見覚えのない紋章。けれど中の文面を読んだ瞬間、私は息を呑んだ。


『貴女の白磁には、魂が宿っている。もし貴女が新天地を求めるならば、我が国の門は常に開いている——L』


「L……?」


「ルシアン・ヴェルディア陛下でございます」


マリアンヌは涼しい顔で言った。


「隣国の国王陛下が、匿名で貴女様の作品を買い集めていらしたこと、お気付きではありませんでしたか?」


(……気付いていなかった)


「過去五年間で、二十三点。全て正規の市場価格の三倍でお求めになっています」


「何故……」


「さあ。ですが、お嬢様の作品の価値を正しく理解していらっしゃる方は、この大陸にお一人だけということでございましょう」


私は手紙を握りしめた。


三年間、殿下の隣で氷の仮面を被り続けた。価値を理解されない苦しみを、誰にも見せずに耐えてきた。


けれど、どこかに——私を見ていた人がいた。


「マリアンヌ。行き先を変更するわ」


「承知しております。馬車の手配は済んでおります」


「……本当に敵わないわね、貴女たちには」


「恐れ入ります、お嬢様」


私は最後に工房を振り返った。この場所で、母は生涯を捧げた。この場所で、私は職人としての自分を育てた。


けれど、ここに留まる理由はもう無い。


「さようなら、王都」


月明かりの下、馬車は国境へと走り出した。




        * * *




翌朝——王城に悲鳴が響いた。


「何だと!? 月華窯が……消えた……!?」


殿下の絶叫を、私が直接聞いたわけではない。後に宰相の副官から詳細な報告を受けたのだ。彼もまた、月華窯の白磁を愛する一人だった。


「戴冠式を延期せよ、だと!?」


王城の謁見の間に、国王陛下の怒号が響いたという。


「父上、落ち着いてください。たかが食器の一件で——」


「たかが食器だと!?」


国王の拳が玉座の肘掛けを打った。七十年の治世で初めて見せる激昂に、居並ぶ重臣たちが息を呑んだそうだ。


「アルベルト。お前は自分が何をしたか、分かっているのか」


「リリアーナを選んだだけです。あの冷たい女より、心優しい彼女の方が——」


「月華窯の後継者を、追い出したのだ!」


沈黙が落ちた。


「……月華窯? あの、エリアーナの母親の工房ですか? それが何か」


「何か、だと」


国王は深く息を吐いた。その目には、怒りを通り越した絶望が浮かんでいたという。


「我が王家の戴冠式に使う祭器は、三百年前から月華窯の白磁と定められている。王冠を載せる台座。聖油を注ぐ器。誓いの杯。その全てだ」


「それなら、他の工房に——」


「できぬ」


宰相が進み出た。


「月華窯の技術は門外不出。あの白磁を再現できる職人は、この大陸に存在しません。私どもも過去に代替品を作らせようとしましたが——全て失敗しました。贋作は、本物の隣に置いた瞬間に判別されます。そして祭器の贋作を使った戴冠式は、神への冒涜として無効とされる。それが、この国の法です」


「そんな……馬鹿な……」


殿下の顔から血の気が引いていったという。


「つまり、私は……」


「エリアーナ嬢が戻らぬ限り、貴方様は永遠に王太子のままでございます」


(ざまあ、ですわね)


——その報告を聞いた時、私は国境を越えた先で紅茶を飲んでいた。




        * * *




私がヴェルディア王国の国境を越えたのは、夜明け前のことだった。


「お嬢様、あちらに」


マリアンヌの声に顔を上げると、朝霧の中に人影が見えた。


黒衣の騎士に囲まれた、一人の男性。漆黒の髪と深い琥珀色の瞳。口元に浮かぶ、どこか皮肉げな微笑み。


「ようこそ、ヴェルディアへ」


馬車の扉が開かれた。差し出された手は、意外にも文人のそれだった。剣を握るより、ペンを握る方が似合いそうな、繊細な指先。


「貴方様は——」


「ルシアン・ヴェルディアと申します。手紙の差出人ですよ、エリアーナ嬢」


国王、陛下。


私は反射的に膝を折ろうとした。けれど彼は、それを制するように首を横に振った。


「礼は不要です。貴女は客人であり、何より——私が五年間追い求めてきた芸術家だ」


「……追い求めて?」


「ええ」


彼は懐から、一枚の薄い白磁の皿を取り出した。


私が三年前に焼いた、椿文様の銘々皿。月明かりのような釉薬に、紅い椿が一輪。母の技法を継ぎながら、私なりの解釈を加えた作品。


「この皿を手に取った時、私は確信しました。この作り手は、魂で土と対話している、と」


「……」


「貴女の作品を見る度に思っていたのです。なぜこれほどの才能が、あの愚かな王太子の傍に繋がれているのか、と」


愚かな王太子。


隣国の国王が、躊躇いなくそう言い放った。


「あの男は、貴女の価値を理解していなかった。この皿一枚で、城が買える——そんな下品な測り方しかできなかった」


琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を見据える。


「けれど私は違う。エリアーナ嬢。貴女の白磁は、金では買えない。貴女が込めた魂こそが、至宝なのだから」


私は、三年ぶりに——いや、もしかしたら生まれて初めて——言葉を失った。


私の作品を、そんな風に語る人に出会ったことがなかった。母以外には。


「陛下……」


「ルシアン、と呼んでいただきたい。せめて、二人きりの時には」


「それは……」


「無理強いはしません。ただ、一つだけお願いが」


彼は私の手を取り——そっと、壊れ物を扱うように。


「貴女の新しい工房を、この国に。そして、いつか——私のために、一客だけ焼いてはいただけませんか」


私は、彼の手の温かさを感じていた。


三年間、氷の仮面を被り続けた私を、溶かすような温かさを。


「……善処いたしますわ」


「それは、前向きなお返事と受け取ってよろしいですか?」


「どうでしょう。貴方様の誠意次第ですわ」


私は知らず、微笑んでいた。社交辞令ではなく。計算でもなく。心からの、微笑みを。




その頃、国境では大混乱が起きていた。


「エリアーナ嬢を引き渡せ! 彼女は我が国の貴族だ!」


追跡してきた近衛騎士団長が、ヴェルディアの国境警備隊に詰め寄っていた。


「お探しの令嬢なら、私の客人ですが」


騎士団長の前に、悠然と現れたのはルシアン国王その人だった。


「彼女はローゼンハイム家を自らの意思で去った。そして我が国への亡命を希望している。これは、内政干渉ですかな?」


「し、しかし! 王太子殿下の婚約者を——」


「婚約者?」


ルシアンは冷笑した。


「貴国の王太子は、大勢の貴族の前で婚約を破棄したと聞いていますが。それとも、あれは冗談だったのですか?」


騎士団長は絶句した。


「帰って、貴国の王太子に伝えなさい。『自分で捨てた宝を取り戻したければ、それ相応の代価を持って来い』と」


国境の門が、重い音を立てて閉ざされた。




        * * *




「これはなんですの!? 色が違いますわ! もっと白く! もっと透明感を!」


リリアーナの甲高い声が、王城の工房に響いた。


婚約破棄から三週間。王都では、月華窯の代替品を作る試みが続いていた。そして、その全てが失敗に終わっていた。


「お、お嬢様。これ以上は私どもの技術では……」


「言い訳しないで! ただの白い器でしょう!? どうしてこんな簡単なことができないの!?」


(ただの白い器)


私がその報告を聞いたのは、ヴェルディア王国で新しい工房の準備をしている時だった。


「流石でございますね、リリアーナ様は」


マリアンヌの言葉には、珍しく明確な毒が含まれていた。


「月華窯の白磁がどうして『月華』と呼ばれるのか。あの方は一度も考えたことがないのでしょう」


母が生涯をかけて完成させた技術。月光のように透ける白。絹のように滑らかな肌触り。最も美しい温度で飲み物を保つ、科学と芸術の結晶。


それを「ただの白い器」と呼ぶ。


(……ああ、そうですか)


私は不思議と、怒りを感じなかった。ただ、哀れだと思った。価値を理解できないものは、決して手に入らない。それは、この世の理だから。




「殿下! リリアーナ嬢の持参金の件ですが——」


「何だ、今忙しい」


王城の執務室で、殿下は苛立たしげに書類を睨んでいた。エリアーナ捜索の報告書。全て「発見できず」の文字が並んでいる。


「はい、その……リリアーナ嬢の持参金が、当初の見込みより大幅に少ないことが判明いたしまして」


「大幅に? どの程度だ」


「……ほぼ、皆無でございます」


「は?」


殿下は目を見開いた。


「ローゼンハイム公爵家は、この国有数の名門貴族だぞ。それが持参金なしだと?」


「お調べしたところ、公爵家の財産の大部分は——先代公爵夫人、つまりエリアーナ嬢のお母上から受け継いだものでした。月華窯の収益、白磁の売買権、そして職人たちの雇用契約。その全てが、相続によりエリアーナ嬢の個人資産となっております」


「なっ——」


「リリアーナ嬢は後妻の子。公爵家の爵位継承権はございますが、先代夫人の遺産には一切の権利がございません」


沈黙が落ちた。殿下の顔が、みるみる青ざめていく。


「つまり、私は……」


「持参金も、戴冠式の祭器も、全てを捨てたことになりますな」


宰相の言葉は、慈悲のかけらもなかった。




「嘘よ! 嘘に決まってますわ!」


リリアーナは、自室で泣き叫んでいた。


「お姉様が——あの陰気な女が、私より多くの財産を持っているなんて、そんなこと——」


「落ち着きなさい、リリアーナ」


義母カロリーネが、青ざめた顔で娘を宥めていた。


「まだ手はあるわ。王太子殿下との婚約は続いているのだから——」


「それが、奥様」


控えていた侍女が、震える声で告げた。


「王城から使者が参りました。殿下が、リリアーナ様との婚約を再考なさりたいと……」


「なんですって!?」


「持参金が無いならば、この婚約に意味は無い——そう仰せだと」


母娘の悲鳴が重なった。




翌月の社交界。


「ねえ、聞いた? リリアーナ様」


「ええ、殿下に捨てられたんですって。あれだけ『真実の愛』とか言っていたのに」


「結局、お金目当てだったのよ。義姉様から奪った婚約者も、持参金が無いと分かったら見限るなんて」


「ふふ、因果応報ですわね」


扇の陰で囁かれる噂話。かつてエリアーナを嘲笑した貴婦人たちが、今度は義妹を嗤っていた。


「そういえば、ヴェルディア王国では、あのエリアーナ様が新しい工房を開かれたとか」


「ええ、国王陛下直々の後援で。白磁の新作は、発表前から予約で埋まっているそうよ」


「まあ。一つ融通していただけないかしら……」


「無理よ。向こう三年分は王室が買い上げるそうですもの」


「羨ましい……。どうしてあの時、もう少し彼女に優しくしなかったのかしら……」


遅すぎる後悔の声が、あちこちで囁かれていた。




        * * *




ヴェルディア王国、新月華窯。


窯の炎が、私の顔を橙色に染めていた。


「お嬢様、そろそろお休みになっては」


テオドール爺やの声に、私は首を横に振った。


「まだよ、爺や。この焼成だけは、見届けないと」


轆轤の上には、一客のティーカップ。母から受け継いだ技術の全てと、私自身の三年間を込めた、特別な一品。


「……誰かのために焼くのは、初めてですのよ」


爺やは黙って頷いた。その目には、四十年分の理解が宿っていた。




一週間後。


「ルシアン様、お時間よろしいかしら」


城の書斎を訪ねると、彼は山積みの書類から顔を上げた。


「エリアーナ嬢。珍しいですね、貴女から訪ねてくださるとは」


「今日だけは、特別ですわ」


私は、布に包んだ品を彼の前に置いた。


「これは……」


「お約束したでしょう? 貴方のために、一客だけ」


彼の手が、震えながら布を解いた。


現れたのは、月光の色をした白磁のティーカップ。縁には淡い金の線。取っ手には、ヴェルディア王家の紋章である琥珀の獅子が、繊細な筆致で描かれていた。


「エリアーナ嬢……これは……」


「貴方が私の作品を『魂が宿っている』と言ってくださった時、私は決めましたの」


私は、珍しく真っ直ぐ彼の目を見た。


「いつか、本当に魂を込めた一客を焼こう、と。私の全てを理解してくれた人のために」


ルシアンは、長い間、カップを見つめていた。そして——初めて見る、子供のような笑顔を浮かべた。


「では、今すぐ試させてください」


「え?」


「せっかくの器を、飾っておくだけなど勿体ない。これで、貴女と紅茶を飲みたい」


彼は立ち上がり、私の手を取った。


「付き合ってくださいますね? 午後の茶会に」


「……強引な方ですわね」


「貴女が相手だと、そうでもしないと逃げられそうですから」


私は小さく笑った。


「逃げませんわ、もう」


「ええ、知っています」




城のテラス。午後の陽光が、二人の前に置かれたティーカップを照らしていた。


白磁と、白磁。一客は、私の母が遺したもの。もう一客は、私がルシアンのために焼いたもの。


「不思議なものですね」


ルシアンは、紅茶を口に含みながら呟いた。


「この器で飲むと、同じ茶葉でも味が違う気がする」


「それは……きっと、気のせいではありませんわ」


「ほう?」


「白磁には、使う人の想いが宿るんですの。母がよく言っていました。『器は、人と人を繋ぐものだ』と」


私は、自分のカップを見つめた。母の形見。三年間の苦難を共に過ごした、唯一の友。


「私、ずっと一人で飲んでいましたの。このカップで」


「……そうでしたか」


「殿下との——いえ、あの方との婚約中も。義母や義妹に何を言われても。このカップで紅茶を飲む時だけが、私でいられる時間でした」


ルシアンは静かに頷いた。


「でも今は」


私は、彼のカップを——私が焼いた、琥珀の獅子のカップを見た。


「一人ではありませんわ」


「ええ」


彼の手が、そっと私の手に重なった。


「私は、この器に相応しい男になりましょう」


「……まあ。それは、大変なことを仰いますわね」


「そうですね。貴女の作品に見合う男など、この世に存在しないかもしれない」


「まあ」


「けれど」


彼は微笑んだ。知性と誠実さに満ちた、穏やかな笑み。


「一生かけて、努力する価値はある」


私は——生まれて初めて、顔が赤くなるのを感じた。


「……変な方」


「貴女に言われたくはありませんね、氷の令嬢」


「もう、氷ではありませんわ」


「ええ、知っています」




テラスの花が風に揺れる。


遠く、この国を去った国では、戴冠式の延期が発表されているころだろう。王太子は持参金のない婚約者に愛想を尽かし、義妹は社交界から姿を消し、かつて私を嘲笑した貴族たちは、今頃必死に伝手を探しているに違いない。


けれど、そんなことは——もう、どうでもよかった。


「エリアーナ」


初めて、名前を呼ばれた。


「ルシアン」


初めて、名前を呼んだ。


「これからも、こうして紅茶を飲んでいただけますか」


「ええ。喜んで」




白磁のティーカップが、午後の光を受けて輝く。月のように、穏やかに。


——これは、凍てついた令嬢が、本当の居場所を見つけるまでの物語。


そして、新しい始まりの、最初の一ページ。




【終】

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