ヤクザもの【氷雨】<後編>
「草野さんとこに入り浸りだっていうじゃないの」
「いやよねぇ。あの年で、もう媚びることを知ってるなんて」
「あら、やっぱりそうなの?」
「だって、草野さんとこの上の子って、あの子でしょ?」
「そうそう。感じの悪い、ちょっと怖い子」
「何か無ければ、あんな子の面倒見るようなタイプじゃ無いわよ」
近所の主婦たちの話題は、よく判らない言葉が多い。その時も亮が足を止めたのは、幾度も出てくる『草野さんの、ちょっと怖い上の子』というのが、克利のことらしいと思いついたからだ。
「シっ、」
だが、数人の近所の主婦は、亮を見てしゃべることを止める。
それ自体は珍しいことでは無かった。いつでも亮の母親と、よく変る相手の男が、ご近所さんの一番の話題なのだ。
視線に居たたまれなくなって、亮はそこを走りぬける。
じっとこちらを見ている視線が、まるで追いかけて来ているかのようだ。
家に駆け戻って、ばたんと扉を閉めて、ほっと息を吐く。
言葉の意味は判らなくても、克利が悪く云われていることだけは解った。
「何だ? 帰って来たのか?」
「た、ただいま。おとうさん」
家にいる男は皆、おとうさんと呼べと母親には云われている。本心は嫌悪感で一杯だが、逆らえば殴られるのは目に見えていた。
どうやら、今日は仕事は休みらしい。亮は、目線を合わせないようにして、机にカバンを置いた。学校指定のそれも、克利のお下がりだ。
克利の母親が、克高とおそろいがいいよね?と気を使って持ってきてくれたものだ。
余所の家のことまでは深く関わりたくないだろうに、それでも、善良な優しさを示してくれる。
きっと、あの人たちも、亮に関わることで悪く云われているだろう。
「亮。勉強はどうだ? 進んでるか?」
猫なで声で男が聞く。今日は機嫌がいいらしい。酒臭い息を吐きながら、亮の肩を抱いてきた。
「うん、ちゃんとやってる」
「そうか」
大きな手が、亮の股を撫でている。ぞっとしたが、亮は逆らわなかった。教科書を広げ、ひたすら勉強しているフリをする。
Tシャツの中に、男の手が潜り込んできた。
「おとうさん、な、何?」
「今更、ぶるのは止せよ。どうせ、あの隣の野郎にやらせてんだろ? ガキの癖に、さすがは淫乱女の息子だぜ」
「やらせてる?」
友人の少ない亮に、そんな猥談をするような相手はいない。ススんだ子ならば、小学生でも理解しただろうが、亮には云われている意味すら解らなかった。
解ったのは、『とし兄ちゃん』が悪く云われていることと、この男の手が、気持ち悪いことだけだ。
かっとなって、突き飛ばす。
そのまま、男の怒号を背に、走り出した。
素早く、階段下に隠れる。
「あの、くそガキ、何処だ! 出て来い!」
遅れて階段を下りた男が、怒鳴りながら亮を探しているのが判って、ますます身を縮こまらせた。
散々喚いて、悔しげに拳を上げるその姿に、通行人が眉をひそめるが、さすがに警察に通報するようなおせっかいはいない。
やがて、男は飽きたのか、渋々と部屋へ引き上げた。
震えていた亮がほっと息を吐く。だが、同時にどうしようと途方に暮れた。
『とし兄ちゃん』の家には行けない。行けば、またあんな風にとし兄ちゃんが悪く云われる。
ぽつりと亮の頬に雨粒が落ちた。
あっという間に雲は厚みを増し、降る雨は激しくなっていく。
それでも、亮には行き場が無い。
階段の下に身を置いて、じっと自分を抱き締めた。
「また、こんなところにいたのか?」
亮の上に優しい声が降って来る。
だが、突然の雨に冷え切った身体は、返事をしようとしても歯の根が合わなかった。
「来い」
克利の差し伸べた手に、亮はひたすらかぶりを振る。
「いいから、来い」
腕を捕まれて立たされた。そのまま、克利の腕の中へ抱き込まれる。
「ほら、冷えきってるじゃないか」
抱き締められた腕から、体温が伝わって、亮の冷えた身体を温めてくれる。
「怖かっただろう? どうしてウチに来ない?」
「とし兄ちゃん」
呼びかけると、涙が溢れてきた。
どうやら、克利はあの騒ぎを知っているらしい。
やさしく宥めるように頭を撫でられて、ほっとするあまりに、亮は声を上げて泣き出した。
泣き止んだ亮を連れ、克利は隣の部屋のドアを開く。
台所のテーブルから、克利の母親が立ち上がった。
「大丈夫だった?」
心配そうに覗き込む。亮はこくりとうなずいた。
「かあさん、飯ある?」
「ええ。すぐに支度するわ。亮ちゃん、お風呂に入れてあげて」
くるりと身軽に克利の母親が台所へと立つ。
母親の言葉に従うように、克利は亮を伴って、風呂場へと向かった。
風呂から上がると、既に克利の部屋に夕飯の仕度がされている。
今日は一人分には明らかに多い食事が盆の上に乗っていた。
「ほら、亮。食べてもいいぞ」
「こんなに一杯? いいの?」
「ああ。食べきれないなら俺と一緒に食べるか?」
「うん!」
とし兄ちゃんと一緒の食事。考えるだけで亮は楽しかった。
一緒にお風呂に入って、ご飯を食べて、眠る。
まるで、本当に兄弟になったみたいだと亮は考えて、わくわくする。
もちろん、今だけの限られた関係だということは、幼い身でも、亮には判りきっていた。
もぞもぞと何かが自分の上で動いているのに、亮はくすぐったくて目を覚ました。
隣で寝ているはずの克利が、何故か亮の上に圧し掛かっている。
何が起こっているのか判らずに、亮はひたすらじっとしていた。
胸をまさぐっていた克利の大きな手が、そっと胸の突起に触れる。思わず身じろぎした亮を克利は押さえつけた。
克利の舌が亮の首筋や胸に触れる。
荒い息を吐く克利を、亮ははじめて怖いと思った。
だが、逆らおうとは思わない。この腕が無ければ、どうかなってしまいそうな自分がいることを亮は知っていた。
雨音が激しく叩きつけるように、窓を叩いていた。
「亮。大丈夫か」
うっすらと目を開ける。覗き込んでくる克利に、亮は微笑んだ。
痛みは大分ひいている。
「大丈夫っす…」
「飯は食ったか。薬は?」
云いながらも克利は、枕元に置かれたクーラーボックスの中身を確認した。
きちんと減っているのを見て、ほっと息を吐く。
「ちゃんと飲んだみたいだな。腹は減ってないか?」
「少し、空きました」
そっと克利の手が亮へ伸ばされる。その手の冷たさにゆだねるように目を閉じた。
「おかゆ買ってきたぞ。一緒に食べよう」
「うん、とし兄ちゃん」
一緒に。それが嬉しかったあの日を思い出し、亮は素直にうなずく。
キツイ克利の瞳が、やさしい色彩を浮かべた。
<おわり>