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ヤクザもの【氷雨】<前編>

降りしきる雨がつれてくる過去の記憶。

「すいません」

ベッドの中で、ぼーっと働かない頭を抱えたまま、亮は一緒に暮らす克利へと詫びの言葉を述べた。

本来なら、克利を護らねばならない立場の自分が、風邪で動けないなどとは、たるんでいると云われても仕方が無い。

「気にするな。俺はもう行くが、大人しく寝てるんだ。誰か訪ねてきても出る必要は無い」

克利はサイドボードへと、小さなクーラーバッグを置いて、そっと克利の額を拭う。

その手がひんやりしていて気持ちが良かった。

「腹が減ったら、ゼリー飲料があるから、それを食え。食ったら薬は飲めよ」

まるで子供にするような細かな注意を並べる克利に、亮はクスリと笑う。

「それから、」

「うん、もう判ったから。とし兄ちゃん」

普段ならば決して口にしない懐かしい呼び名が、つい口を吐いた。それに、克利はいとおしげな視線を送る。

「早めに帰る」

伸ばした手が、優しく亮の髪を梳いた。



ふと目を覚ました。

喉の渇きを覚えて、クーラーバッグへと手を伸ばす。

中に入っていたスポーツドリンクを一気に飲み干し、汗で濡れたTシャツを脱いだ。着替えは枕元に置いてある。

それに着替えて、ゼリー飲料を口にした。バナナの味のそれは甘かったが、妙に腹にたまる。不味い水薬を飲み干した亮は、尿意を覚えて立ち上がった。

多少のふらつきはあるものの、歩いてトイレへは行けそうだ。

トイレの窓が少しだけ開いていた。おそらく、克利が開けたのだろう。

高級マンションだ。トイレも広く閉塞感は無い筈だが、克利は何故か、少し開ける癖がある。

危険だからと亮が幾度云っても改めてくれる様子は無かった。

いくら、高層階だとは云え、何か仕掛けられないとは限らないのだ。

「あの人は、自分がヤクザの主治医だって自覚がねーのかよ」

亮は、誰にとも無く呟いて、窓に手を伸ばす。

激しいとはいえない雨なのに、妙に音が耳につくのは、きっと亮の熱が高い所為だろう。

窓を閉めて鍵をしっかりと掛ける。

用を足した後、冷えた身体をベッドへと潜り込ませた。

頭が痛い。

早鐘が鳴っているようだと、亮は思った。

いや、鳴っているのは鐘ではない。雨の音が耳について離れないのだ。

今まで、自分には無縁だった筈の、上等のベッドと毛布。寒いはずは無いのに、心の芯から冷えていくような心地に、亮は、自分の身体をかき抱いた。



階段の下はこのボロなアパートで唯一、雨の振り込まない場所だった。

明日になれば、母親の機嫌も直って、家に入れる。

亮は、じっと自分を抱き締めて、うずくまっていた。

「お腹減った」

ぽつりとつぶやく。今日も夕飯は食べさせて貰えなかった。給食だけは腹一杯食べたものの、それだけで育ち盛りの小学生が持つわけが無い。

実際、亮の身体は、同学年の男の子たちにくらべても明らかに小さく、がりがりにやせ細っていた。

「そんなところで風邪をひくぞ」

階段の上から声が降ってくる。聞き覚えのある声に、亮は顔を上げた。

「かっちゃんのお兄ちゃん」

隣に住んでいる、幼馴染の克高の兄だ。冷たい目をしたこの大学生を、近所の子供たちは一様に怖がっていた。

「ああ、また追い出されたんだな。来い」

「え?」

何を云われたのか判らず、亮が目を見開く。

「いいから、来い。そこは寒いだろう?」

階段の上から、差し伸べられた手に、亮はたたっと走って階段の下へと回り込む。

まだ、半信半疑なのだ。

だが、男の手はまっすぐに亮へと伸ばされた。

「ほら、来い」

手を取ると、力強い腕が亮を引き上げる。その手は暖かかった。


「ただいま」

「おかえりなさい。あら?」

物言いだけな克高の母親の様子に、亮は身を竦ませる。

「遊びに来ただけだよ。飯、部屋で食うから」

「ええ。でも…」

友達の家に遊びに行ったときに、こんな風に迎えられることは少なくない。

そして、次からは友達は自分を家に呼んでくれなくなる。

泣きそうになった亮の手を、克高の兄は握り締めた。

「俺のところに遊びに来たんだ。な? そうだろ?」

強い口調で云われて、コクリとうなずく。

「俺の部屋、行こう」

手をつないだまま、男が襖を開いた。3畳ほどの小さな部屋は、窓際に机が置いてあるだけだ。本棚には漫画じゃない、難しそうな本がたくさん詰っている。

「その辺、座ってろ」

そういうと、男は立ち上がり、やがて食事の入ったトレイを持って、部屋へと入ってきた。

「ほら、腹減ってんだろ?」

確かにこれ以上ないくらいに、亮は空腹だったが、どう見ても一人分しか無い、男のものらしい夕飯に手をつけるのはためらわれた。

「俺はこれ食うから」

カバンの中から、男が大きなパンを出して笑う。つっけんどんな云い方だが、優しく微笑まれたのに安心して、亮はがつがつと食べ始めた。


その日は、男と同じ布団にくるまって眠った。

親にさえ、抱き締められたことのない亮は、その日、はじめて抱き締めてくれる温もりに包まれたのだ。

抱き締めてくれた人は、隣に住む幼馴染克高の兄・克利と名乗った。

「克高と紛らわしいから、俺のことはとしって呼べ」

「うん! とし兄ちゃん!」

母親がうるさいと眉をひそめる元気のいい返事をすると、克利は優しく頭を撫でてくれた。


時折、男に振られた母親がヒステリックに喚くときも、殴られて追い出されるときも、『とし兄ちゃん』のところに行けば良かった。

温かな腕が自分を抱き寄せてくれる。

克利の両親の迷惑そうな視線からも、克利は亮を庇ってくれた。冷たい瞳が、亮を見るときだけは、温かな色彩を浮かべる。

『とし兄ちゃん』さえ自分のそばに居てくれればいいと、その時の亮は思っていた。

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