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漢受け【武士の背中】<番外>

ムーンライトノベルズ掲載「武士の背中」の番外です。

元・大店の旦那と店の用心棒であった男の、その後の話です。

幾度か打ちかかる木刀を、すべてするりと交わされる。

大柄な身体は、その見た目に反して、非常にしなやかだ。

手元に打ち込まれ、思わず木刀を取り落とした。振り下ろされた木刀はぎりぎりのところでぴたりと止まる。

「まいり、ました」

声が自然と震えた。

すっと木刀を引かれて、安堵の息を吐く。

「これまで!」

老道場主の声が響いて、その日の稽古は終了した。


皆がざわざわと井戸端に寄る。

古い道場は、風呂があるような造りでは、当然ない。

稽古の汗を流すのは、井戸の水で身体を拭くのが精々だ。

台所で沸かした湯を使わせてもらえるのは、老道場主と最近雇われた師範代の男だけだ。


「しかし、お主も懲りんな」

「師範代になど勝てる訳がなかろう」

身体を拭いている門弟たちが、師範代の男と手合わせをしていた相手を口々に揶揄する。

だが、男は反抗的な目付きで口を引き結んだ。

そういう表情が、男の態度を不遜に見せているのだが、男は気付かず、却って他のものの志の低さを憂えた。

男・苅野匡元には野望がある。その為にも、こんな場末の道場でくすぶっている訳にはいかないのだ。元々、この道場に来たのも、ここの道場主が古谷野道場の師範の師匠だと聞き及んだからだ。

古谷野道場は、武家の中でも、将軍お目見え以上の者たちが通う、由緒ある道場だ。伝も無い貧乏御家人の苅野が、おいそれと通えるような場所ではない。

ここで強くなれば、古谷野の道場へ推挙してもらえるかもしれない。御家人でも、下層に位置する苅野が、剣をもって栄達するには、どんな小さな可能性にもすがりたいのは人情と云うものだろう。



「もし、道場主さまにお会いしたいのですが?」

呼びかけに門弟たちが振り向く。そこにいるのは、多少、年は行っているものの、綺麗な男だった。たおやかとでもいうのだろうか、まるで人気女形のような風情だ。

「先生ならば、奥だ」

「出入りの商人なら、勝手口へ廻るがいい。ほら、そこだ」

「ありがとうございます」

指を指す男たちに、品良く腰を折った商人は、意外としっかりとした足捌きで勝手口へと向かう。

その時、道場の奥から、顔を出したらしい道場主が声を上げた。

「伊衛門どの。どうなされた?」

「日本橋より、どじょうが届きまして。葉山先生がお好きだと伺いましたので、お持ちしました」

どうやら、老道場主と商人の男は旧知の間柄らしい。

「これは、お気遣いかたじけない。今宵はよい夕餉になりそうだ」

「それはようございました」

「陣三郎ならば、すぐに参る。茶でも入れさせる故、あがって行くがよろしかろう」

「いえ、そのようなお手間を掛けさせる訳には参りません。すぐに失礼します」

陣三郎と云うのが、新しい師範代の名だ。この男は、師範代とも知り合いかと、苅野はつい聞き耳を立ててしまった。

「そう云わず、古谷野道場での話など、聞かせてくれぬか? お主はかなりの手練だったそうではないか」

「昔の話でございます」

古谷野道場の話と聞いて、苅野はますます立ち去りがたい。とっくに拭き終わっている身体を、ひたすらこすり続ける。

「ますます、聞きたくなるの。それが無理ならば、陣三郎との馴れ初めでも構わんぞ」

声を上げて笑う葉山に、伊衛門と呼ばれた商人が苦笑いを浮かべた。

「それは、陣三郎が嫌がりましょう。平に御容赦くださいませ」

頭を下げる伊衛門を、葉山が笑い飛ばす。

「話が嫌ならば、立ち合うていってはどうだ? それもいかんか?」

「もう、身体が動きませぬ。陣三郎や、先生をお相手になど、とんでもない」

立会いと聞いて、もう我慢がならなくなったのは、苅野だ。

「せ、先生! 私を立ち合わせてください!」

思わず、声がうわずる。古谷野の道場の手練だったというのならば、ぜひ立ち会ってみたい。

井戸端に僅かに残っていた門弟たちが眉をひそめた。

古谷野道場の門弟であったらしい男は、どう見ても今現在は商人として暮らしているのだろう。

お目見え以上とは云っても、やはり次男三男の冷や飯食いに、身を立てる術は限られている。凝った着物からも、裕福な家のものであることを伺わせる伊衛門は、どう見ても、武士としての資質には欠けるようにしか見受けられぬ。しかも、話から察するに、師範代の念友であるらしい。

そんな男と立ち合いたいなどと、功を焦るあまりの浅ましい行為にしか見えない。

「ぜひ、私を!」

だが、少なくとも苅野は本気であった。おそらくは、門弟たちの誰も気付いていないだろうが、伊衛門には隙が無い。たおやかそうな外見に、苅野だけは騙されていない自信があった。

「苅野の熱心さに免じて、立ち合うてはくれぬか」

そこへ帰り仕度を終えた陣三郎が顔を出す。

「伊衛門。何が?」

場の妙な雰囲気を察して、陣三郎が口ごもった。それを見やった伊衛門の目が剣呑な色を浮かべるのを、葉山は見逃さなかった。

「無様な真似になりましょうが、それでもよろしければ」

してやったりと両の手を合わせる。

「何、構わんよ。座興だと思うてくれれば良い」

からからと笑った葉山が、道場へ戻り、どっかとあぐらを掻く。

居合わせた門弟たちも、それに習った。陣三郎は訳が判らぬまま、葉山の隣へと腰を下ろす。

目の前で木刀を手にした苅野が座して、相手を待つ体勢となるのを目にして、陣三郎は葉山の上機嫌の訳を知った。

伊衛門が道場の家人へと、どじょうの入った手桶を渡し、道場へと足を踏み入れる。

ついと白い手が差し出された。

「陣三郎。お主の木刀、貸してもらおう」

普段のたおやかさをかなぐり捨てた男の声は、閨でしか耳にすることは無い。

ぞくりと背中が粟立った。



「はじめ!」

葉山の張りのある声に、苅野と伊衛門が同時にすっと立ち上がる。

双方とも睨みあったまま、動こうとはしない。

隙の無い伊衛門の構えに、門弟たちが目を見張った。

これは、ぜひにと立ち合いを願った苅野の気持ちも解る。

かなりの手練と云う話も、大げさなものでは無いらしい。いつしか、道場の中は、緊張感に満ちていた。

ついと伊衛門が踏み出した。

軽く木刀を合わせたかと思うと、上段から連続で打ち込む。その斬激はするどく、押されながらも、苅野は耐えてしのいでいた。

耐えながら、僅かな隙を探す。

上背は苅野の方が勝る。上からの斬激は威力があるが、それも限度があるだろう。

何より、体力が持たない筈だ。若い苅野は、まだ、自分には余力が残せると踏んでいた。

耐えて隙を待つ苅野に、鋭く重い打ち込みが振り下ろされる。

いい加減、焦れ始めたころ、さすがに疲れたのか、ふっと打ち込みが止んだ。

苅野がすかさず、上段から打ち込む。

次の瞬間、苅野の胸元に、重い突きが来た。

たたらを踏んで、踏みとどまるのが精一杯だ。一瞬、息が止まり、思わず咳き込んだ。

「ま、いり、ました」

苦しい息の下から、苅野が告げる。

「見事だ。のう、陣三郎」

「はい。相変わらず、見事な手際でございます、兄上」

控えた伊衛門に、葉山が手放しの褒め言葉を送る。それに同意した陣三郎は、二人で道場へと通っていた頃を思い出し、つい『兄上』と口に出していた。

「いえ、お目汚しでございました。やはり、思うようには動きませぬ」

頭を下げた姿は、未だ武家の所作だが、口調は柔らかいものに戻っている。それに気づいた陣三郎が、思わず口元を抑えたが、口から出た言葉は戻らない。

「よろしければ、これにて失礼を」

「すまぬ、爺の道楽につき合わせたの」

すっかりと町人のそれに戻った伊衛門が、深く頭を下げた。門弟にも腰を低く、挨拶を交わして出て行く。その後を、陣三郎が大股で追った。



「陣三郎」

呼びかける声は、男の其れだ。

「伊、衛門…」

常ならば、柔らかな態度で、陣三郎に否やを云わせぬ伊衛門が、今日はどうしたわけか男言葉と、強引な手管で陣三郎を翻弄していた。

それは、まだ伊衛門が隣家の裕福な武家であった頃を思い起こさせ、陣三郎を混乱させる。

只でさえ、立ち合いの姿に『兄上』と呼びかけてしまった、己が迂闊を悔いているのだ。

伊衛門と、念兄の契りを結んだのは、遥か昔。まだ、伊衛門が武家の子息であった頃だ。月日が経ち、既に伊衛門は武家では無く、再会した折の、大店の旦那でもない。小間物屋を営む己の連れあいだ。

「兄上、と呼んではくれぬのか」

「呼ばぬ!」

からかうような物言いに、陣三郎はかぶりを振った。

「強情なことだ。だが、何時までもつか」

徐々に激しさを増していく手管に、噛み締めていた唇から、殺しきれない喘ぎが漏れる。

「声を上げてくださいませ」

耳に囁かれた、いつも通りの柔らかな商売人の口調は、ますます陣三郎を混乱させた。

「は、…あぁ、…ッ」

漏れ出る声を抑えることなど出来ない。

「私の可愛いお方。離しませぬよ、もう」

「いえ、もん」

己が名を呼んだ陣三郎を掻き抱き、唇を重ねた。

庭からは強い花の果が香る。

陣三郎と通っていた道場の庭にも同じ香が香っていた。

再会して、幾度目の春が巡ってきたのだろうか。それを思いながら、伊衛門は陣三郎を抱く手に力を込めた。


<おわり>

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