幼馴染【優しい雨が降るとき】
その男が、俺の目の前を横切ったとき、俺は自分の目を疑った。
見覚えのありすぎる背中。
スーツ姿を見るのは始めてだけど、それでも俺があの人を間違うなんて有り得ない。
幼馴染の従兄弟の晶彦。
俺の初恋の、そうして今も続く片恋の相手。
俺が、晶彦のことが好きだと気付いたのは、小学生の頃だ。
小さい頃から、晶彦は俺には甘かった。
ウチの親と晶彦の親は非常に仲の良い姉妹だった。兄弟のいなかった晶彦は俺のことを弟だと思っていたし、俺も本当の兄貴だと思っていた。
そのくらい晶彦は俺の面倒を見てくれたし、どんなに泣いていても、晶彦が宥めれば泣き止んだ。
晶彦が抱っこしてくれるのはあったかくて、母親に抱かれるのとは違う安心感があった。
だから、晶彦と俺が兄弟じゃないって知ったときには、母親たちに裏切られた気分になったし、それは晶彦も同じだったらしい。
半日二人して押入れに篭もってハンストした。
そこを宥められて出てきたのは、兄弟じゃなければ、ずっと一緒にいられない。とする俺たちの主張に、母親たちが一計を案じた結果だ。
「じゃあ、晶彦が龍樹ちゃんをお嫁さんにしちゃえばいいのよ」
「お嫁さんにしたら、一緒にいられる?」
「ええ、ずっと一緒よ」
それが嘘だと気付いたのは、俺より晶彦が先だった筈だ。
でも、晶彦は何も云わなかった。
俺の夢が破られたのは、小学校に上がる頃。
同じクラスのおませな女の子によってだ。
俺に告白してきた女の子に、俺は当然の如く
「俺は晶彦のお嫁さんだもん」
と答えると、一笑にふされてしまった。
「男の子はお嫁さんになんかなれないもん。だから、龍樹くんのお嫁さんはアタシね?」
女の子にしてみれば、当然の結論だったのかもしれない。
でも、俺にしてみればびっくり仰天。おろおろと泣き出してしまった。
学校から走って帰って、晶彦の部屋へと駆け上がり、問い詰める。
「晶彦、男の子はお嫁さんになれないの? 晶彦は俺をお嫁さんにしてくれるんだよね?」
めちゃくちゃなことを云って晶彦を困らせたと思う。でも、その時の俺には切実な問題だった。
言葉に詰って、俺から視線を外した晶彦に、俺は思いっきり枕をぶつけた。
「晶彦のうそつき!」
ずっと一緒にいるって云ったのに! お嫁さんにもなれなきゃ、どうしたら一緒にいられるの?
俺はワンワン泣いて晶彦を攻めた。
晶彦の手が俺を引き寄せて、膝の上に乗せてくれる。泣いている俺の涙を、晶彦がぺろりと舐めた。
「うそつきじゃないよ」
「うそつきだもん」
「うそじゃない。誰にも内緒の、お嫁さんには出来るよ」
晶彦は俺をじっと見ていた。
「内緒のお嫁さんなの?」
「うん、大人たちには内緒のお嫁さん」
誰にも云っちゃだめだよ。
「龍樹が18になったら、僕のお嫁さんになってね」
とそういって、晶彦は俺の涙をもう一度舐めて、それから唇にキスした。
今なら俺にも判る。
晶彦は、俺を宥めただけなのだ。でも、俺はそのときの約束をずっと忘れられずにいる。
晶彦はそれからも俺には甘かった。
どんなときでも俺優先。友達より、カノジョ(聞いたことは無いが、あれだけカッコいい晶彦がモテない筈はない)よりも、常に優先順位は俺にあった。
俺が遊園地へ行きたいとねだっても、何かが食べたいと云っても。
晶彦の父親がリストラに合い、高校を出てすぐに働かなければならなくなっても、休みの日は俺と遊ぶし、俺の誕生日だって、欠かさずに祝ってくれた。
でも、今年は違う。
晶彦は春から地方赴任なのだ。
いつも誕生日を友人と祝ったことの無い俺に、祝ってくれる友人は皆無だ。
只でさえ、晶彦と一緒にいた俺には、休みの日に遊ぶ友達なんかいない。
くさくさした気分が、降り出した雨で余計に重苦しい。
やけくそで止むのも待たずに走り出す。
晶彦が勉強を見てくれなくなってから、やる気も起こらずにいたら、補習を受けなきゃいけない羽目になっていた。
全部、晶彦の所為だ。腹立たしくて、恋しくて、泣きそうだ。
一つ先の信号を渡る若いサラリーマンの後姿が涙で霞む。
「え?」
呆然と立ち尽くす。
直感で晶彦だと気付いた。
何で? 晶彦は赴任先の遠いところにいるはず。
帰ってきているなら、俺にメールさえ寄越さない筈が無い。
「そっか」
唐突に俺は悟った。
晶彦にとって、俺は一番じゃなくなったんだと。
もう走る気力さえない。
俺はとぼとぼと雨に濡れながら、家路を辿った。
「龍樹、あなたずぶぬれじゃないの! 母さんの云う通りに傘持っていかないからよ」
家に帰ると同時に、母親の小言が降ってきた。
「うん。気をつける」
もう、甘やかしてくれた晶彦はいないんだ。しっかりしなきゃ。
「早くお風呂入って。晶彦ちゃん、来てるんだから」
「え?」
晶彦が来てる?
「今日はお休み貰ってきたんですって。って、龍樹?」
母親に投げるように身体を拭いていたタオルを返すと、自分の部屋へと駆け上がった。
戸を開けると、スール姿の晶彦がびっくりした顔で俺を見ている。
「晶彦!」
「馬鹿!」
駆け寄ると、晶彦に怒鳴りつけられた。
「こんなに濡れて! 風邪でもひいたらどうするんだ!」
怒鳴りながら、勝手知ったる俺の部屋のクローゼットから、バスタオルを取り出して俺の髪を拭いてくれる。
「服も脱げ。そのままじゃ、ホントに風邪ひくぞ」
「う、うん」
云われるまま、服を脱いだ。
裸になった俺を包み込むように、晶彦がタオルで水滴を拭う。
「冷え切ってるな。風呂入るか?」
「晶彦も一緒に?」
風呂に入ってる間に晶彦が消えそうな気がして、俺は晶彦のスーツの袖を掴んだ。
「何だ。いくつになっても、甘えん坊だな」
俺を甘やかしてくれる晶彦の声。
「だが、今日は駄目だ」
きっぱりと晶彦は云った。
「お前の裸なんか目にしたら、暴走しちまうよ」
「晶彦?」
見上げると晶彦が苦笑いをしている。
「覚えてるか? お前が18になったら、僕の内緒のお嫁さんになるって云ったこと」
真剣な目で、晶彦は俺を見ていた。
晶彦も覚えてたんだ。
「何で、内緒なのか、今のお前には解ってるよな? それでも僕のお嫁さんになる?」
俺は無言でうなずく。何か云ったら、目の前で消えてしまいそうな気がした。
「指輪の代わりだ」
バスタオルに身を包んだ俺の腕に、そっと腕時計がはめられた。
「給料三ヶ月分とは行かないけどな。それでも僕の精一杯だ」
「晶彦…」
ぎゅっと晶彦に抱きつく。
涙が溢れて止まらない。
「お前は大人になっても泣き虫だな」
晶彦が俺の涙を舐め取った。そのまま、キス。
「誓いのキスだよ」
<おわり>