第九十七話 野戦の決意
豊川一夜城・本丸。
土塁から遠くを望めば、
赤備えが整然と固まっているのが見える。
朱の鎧。
揺れぬ陣形。
静かな圧。
山県昌景はまだ動かない。
それが逆に、重い。
浅野が低く問う。
「……殿。これからどうなさいますか」
秀政は腕を組み、しばし黙した。
「この地、この“城”で決戦を行う」
静かな声。
「ゆえに、敵に諦めて後退されても困る」
村瀬が眉をひそめる。
「つまり……籠城し続けるわけではない、と?」
「そうだ」
秀政は赤備えを見据えたまま続ける。
「籠城していれば、武田は観察する。
時間をかけて、必ず弱点を見抜く」
豊川一夜城は“見せ城”だ。
勢いで攻めさせるための城。
見抜かれた瞬間、価値は半減する。
「我らの狙いは、勢いで籠城戦へ持ち込むことだ。
小細工を仕掛けられる前に、
“正面から城攻め”させる」
村瀬が食い下がる。
「……それが分からぬのです。
結局、何をなさるおつもりで?」
秀政は深く息を吐いた。
そして、はっきりと告げる。
「城攻めに導くために――
武田赤備えと、真っ向から野戦でぶつかる」
一瞬、空気が止まる。
前田利家の目が輝いた。
「それでこそよ!
拙者の騎馬の出番よ!」
だが、浅野と村瀬は凍りつく。
「あの赤備えと、正面から……?」
「そうだ」
秀政はあくまで冷静だった。
「野戦でぶつかり、すぐに敢えて負ける」
「……敢えて?」
「そう。籠城戦に導くためだ」
浅野が声を落とす。
「……退くまで、耐えられますかな」
利家が笑う。
「何を弱気な! 気持ちで負けてはそれまでぞ!」
だが、その檄はやや空回りする。
赤備えの名は、それほど重い。
秀政が口を開いた。
皆を励ますために、やや語気を強め、
自信を示す。
「又左殿の言う通りだ。
正攻法でぶつかる。
だが、防御に徹する」
「防御?」
「斜行陣だ」
地図の上に指を走らせる。
「左翼を前に、右翼を引く。
赤備えの突撃を正面で受けぬ。
斜めに滑らせる」
村瀬の目が細くなる。
「受け流す、と」
「壊滅は避けられる。
だが被害は出る」
その一言に、空気が沈む。
秀政は続けた。
「中央は薄くする」
浅野が息を呑む。
「……中央突破を、許すのですか」
「そうだ」
静かな断言。
「赤備えは中央突破を好む。
ならば、突破させる」
「!」
「途中で中央が崩れる。
我らは敗走する」
利家が不思議そうに首を傾げる。
「負けるのか?」
「戦って負ける」
秀政は言い切った。
「だが、無秩序ではない。
撤退は最初から想定する。
右翼を豊川沿いに配置し、
左翼を段丘側に配置する。
一本道の退路だ。
混乱せず城へ戻れる」
村瀬が低く唸る。
「……他でもない。
あの赤備えの突撃ですぞ。
そう上手くいきますか」
浅野もそれに同調した。
「正面から受ければ、半刻で壊滅です」
「まともに受ければ無理だ」
秀政は赤備えを指差す。
「だから“点”を使う」
「点?」
「馬防柵と落とし穴だ」
浅野が頷く。
「築城に注力しましたからな。
ご覧の通り、点在しております。
設置は不十分ですぞ」
「それがよい」
秀政の目が鋭くなる。
「線ではなく、点として置く。
あの点在では全く脅威には見えぬ。
奴らは避けるか、飛び越える」
「……」
「だがな。よく見ろ。
我らが布陣する場所と奴らの突撃の道。
必ず直線上のどこかで、点がある。
その避けや飛び越えが必ず発生し、
一瞬でも、隊列が乱れる。
その乱れが、地味に勢いを殺す。
普通は無いよりましと思う程度だろうが違う。
その点があるからこそ良いのだ!」
浅野と村瀬が、ようやく理解の色を見せた。
利家が腕を組む。
「拙者はどう動けばよい」
「又左殿の騎馬は、騎馬赤備えに当てぬ」
利家が眉を上げる。
「ぶつからぬのか?」
「それこそ敵の思う壺だ」
秀政は淡々と続ける。
「赤備えの脅威の本質は、
騎馬赤備えによる突撃の後、
混乱した歩兵を後続の徒歩赤備えが止めをさすことにある。
又左殿はその“隙間”に割り込め」
「隙間?」
「騎馬が通り過ぎ、徒歩赤備えが詰める前の一瞬だ。
そこへ突撃し、勢いを削ぐ。
その間に我らは立て直せる。
そして囲まれる前に離脱せよ」
利家はしばし黙る。
「……面白くはないが」
にやりと笑った。
「確かに重要だな」
秀政が頷く。
「首は、鬼謀が成立した後に取れ。
それまでは騎馬を温存してもらう」
「あい、承知した」
秀政は三人を見渡した。
「これで良いな」
誰も即答しない。
だが、皆の目に迷いは消えつつあった。
秀政は最後に、政成と佐治へ目を向けた。
「義父殿は表門の守備を頼む。
我らが退却できるかは、
義父殿の指揮にかかっている。
門の管理を頼むぞ。
そして、退き際の追撃に向けて、
弓と鉄砲で威嚇してくれ」
「分かり申した。
私は戦働きは向いておりませぬが、
全力を尽くします」
「佐治は搦め手の守備を頼む。
裏から攻められると、それで終いだ」
「はい……」
「武田に臆したか?
心配するな。
兵を配しておくだけだ。
物見が来たら全て射抜け。
それだけで良い。
裏は攻めにくいと思わせるのだ」
「承知!お、臆してなどおりませぬ!」
佐治が震えながらも声を上げる。
(ふ……、この戦、臆して当然よ。
俺とて震えが止まらん)
秀政は震えながらも、
再び赤備えを睨みつけた。
“受けて負ける”。
そのための戦。
豊川の風が、櫓を揺らす。
*
「敵、四千五百の内、
三千の足軽、五百の騎馬が、
豊川一夜城から出陣致しました!」
物見が山県に告げる。
「ほぉ、一夜城に籠るかと思ったが、討って出るか。
その勇気は認めてやるが、無謀なことよ。
赤備え三千で迎え討つ!」
芋粥軍と山県軍。
両者は点在する馬防柵を挟み、対峙した。
今、両者の決戦が始まろうとしていた。




