第九十五話 鬼備前出陣
一ケ月の準備が整った。
二月十四日、遂に遠江に出陣する。
この間、長島は井口が上手くやっている。
新たに見いだした河村や大野達は、
井口の指揮で大いに活躍し、
次の世代として育ちつつある。
もはや、後顧の憂いはない。
秀政は座敷の中央に正座していた。
外はまだ夜が明けきらず、
障子越しの光が淡く揺れている。
その静けさの中で、
お悠がそっと鎧櫃の蓋を開けた。
黒漆の胴丸が、灯火を吸い込んで鈍く光る。
胸には控えめに金で描かれた抱き沢瀉の家紋。
派手さはない。
だが、どこか“鬼”の気配がある。
お悠はその胴丸を両手で抱え、
秀政の背後に回った。
「弥八様……こちらを。」
秀政は振り返り、思わず息を呑む。
「……いつの間に、こんなものを」
「武田攻めと聞いた日から、
千種屋にお願いしておりました。」
お悠の声は静かだが、
指先はわずかに震えている。
彼女は秀政の肩に胴丸をそっと乗せ、
紐を通しながら続けた。
「謀玄では……戻ってこられぬ気がいたしました。
けれど強き“鬼備前”なら、
赤備えを退け、きっと生きて帰る。
そんな気がしたのです。」
秀政は苦笑しながらも、
胸の奥が熱くなるのを感じた。
「鬼、か……俺に似合うか?」
「似合いますとも。
弥八様は、
誰よりも強く、
誰よりも優しい鬼でございます。」
お悠は袖を整え、
籠手をはめ、兜を差し出す。
鉄錆地の兜に、控えめな角の前立て。
威圧ではなく、
“生き残るための鬼”を象徴する形。
「この陣羽織も……」
深紅に黒の縁取り。
背には大きく金糸で縫われた鬼備前 の文字。
裏地には豊川を思わせる波文様。
「……弥八様が、必ず戻られますように。」
秀政は陣羽織を羽織り、静かに息を吐いた。
(鬼備前の文字って…… 変な方向に主張しすぎでは。
まるで特攻服……。不良か、俺は……。
いや、これはお悠が俺のことを想って、
用意したものだ。
ありがたい……と思うことにしよう)
「まぁ、なんだ。少しは強い鬼に見えるな。
生きて帰ってこれそうだ」
「ええ。
生きて帰ってきてくだされば、
それで十分でございます。」
秀政は立ち上がり、兜を手に取る。
鉄錆地の鬼面の半頬には、
口元にわずかに牙が彫り込まれている。
最後に兜をかぶる。
その角は、左右に一本ずつ、根元は太く、先端は鋭く細い。
黒漆に銀の縁取りが施され、
“鬼の角”
と分かるが、実戦で邪魔にならない。
その姿は、もはや“鬼備前”そのものだった。
武田という虎を討つためには――
鬼にでも、ならねば果たせぬ。
お悠の想いは確かに伝わった。
*
鬼備前の鎧を着込んだ秀政が歩み出ると、
那古野城の虎口へ続く広間には、
すでに三つの影が待っていた。
浅野五郎兵衛清孝。
村瀬新九郎兼良。
千種松兵衛政成。
三人とも鎧姿で、静かに秀政を迎える。
秀政の背後には、お悠が控えていた。
深紅の陣羽織を整えたばかりの手が、まだわずかに震えている。
広間には朝の光が差し込み、
四人の鎧が鈍く光った。
浅野は黒漆の胴丸に灰鼠の陣羽織。
忍び上がりらしい静かな気配をまとい、
「殿」と一言だけ、深く頭を下げた。
村瀬は白糸威しの胴丸に控えめな角前立て。
影武者としての役割を忘れぬよう、
秀政の兜と似せた形をしている。
「鬼備前の名、今日こそ本物に」と笑う。
政成は濃紺の陣羽織に金具の光る具足。
筆頭家老としての威厳を漂わせ、
「殿、千種家は常に後ろから支えまする」と静かに告げた。
三人の視線が、秀政の“鬼の角”に集まる。
秀政は一歩前に出た。
鉄錆地の半頬の牙が、朝日にわずかに光る。
「……行くぞ。」
その声に、三人が同時に頷いた。
お悠は秀政の背にそっと手を添え、
小さく、しかし確かに囁いた。
「弥八様……どうか、ご無事で。」
秀政は振り返らずに答えた。
「俺は死なん。必ず戻る。」
鬼備前を先頭に、そのまま四人は、
那古野城の虎口へと歩み出た。
*
那古野城の虎口を抜けると、
朝の光が一気に広がった。
三の丸の馬場には、
すでに四千の兵が整列している。
槍の穂先が朝日にきらめき、
馬の鼻息が白く立ちのぼる。
鬼備前の鎧をまとった秀政が姿を現すと、
兵たちの間にざわめきが走った。
秀政が馬場を見渡したその時――
遠くから土煙が上がった。
「前田殿……か」
馬場の端に、赤い陣羽織が翻る。
前田又左衛門利家の五百騎が、
槍を立て、馬を並べ、勢いよく駆け込んできた。
利家は馬上から笑い、声を張り上げた。
「芋粥殿!
前田又左衛門、ただいま参上!」
馬場の空気が一瞬で張り詰める。
「殿が笑って言っておられた!
『芋はどうせ騎兵がおるまい。
特別に五百騎与える。
又左、存分に暴れて芋を助けてやれ』
と……!」
兵たちがどよめいた。
秀政は思わず苦笑し、
兜の角を軽く揺らしながら利家を見上げた。
「……殿は相変わらずだな。
だが、これは嬉しい誤算だ。
五百騎の騎馬隊か……」
(しかも将が前田利家。
期待しかないぞ、これ!)
利家は馬上で槍を掲げた。
「芋粥殿! 武田の赤備えを討とうぞ!」
四千五百の兵が一斉に槍を掲げ、
馬場が揺れるほどの鬨の声が上がった。
秀政はお悠にだけ聞こえる声で呟いた。
「行ってくる。必ず戻る。」
お悠は静かに頷いた。
「弥八様……鬼は死にませぬ。」
秀政は馬に跨り、
角兜を朝日にきらめかせながら叫んだ。
「皆の者、よう聞け!
この俺は武田に勝ちに行く。
必勝の策在り!
俺を信じて、日本一の武名を挙げるぞ!」
「「おぉ!!」」
さらに上回る鬨の声が上がった。
「出陣!」
秀政を先頭に四千五百の軍勢が那古野を出陣した。
「清隆」
「は!」
ゆっくりと秀政に近寄る。
秀政は小声で問いかけた。
「抜かりなくやっておるな?」
「はい、事前に七千の兵で芋粥鬼備前が出陣して、
武田を討つとこの辺りに吹聴して回ってあります。
しかし、なぜそのようなことを?」
浅野は疑問を隠さずに問いかけた。
「ここには武田の間者が山ほど居ると思え。
そ奴らに正しく四千五百が出陣したことを伝えるのだ。
武田が警戒しすぎて五千以上出して来たら負ける。
油断してくれる方がよい」
「なるほど……」
秀政がにやりと笑って続ける。
「続きだ。現時点では七千は誇張だが、
途中で農兵を徴兵し、実際に七千まで兵を増やすと、
噂を流せ」
「それを流してもよろしいのですか?
これも武田の間者向けの情報操作ですか?」
「そうだ。構わぬ。
義父殿に命じて、
二千の兵を途中で合流させることになっておる。
兵と言っても武士でも農兵でもないがな」
「武田に徴発農兵だと思わせたいのですな?」
秀政が自信ありげに鼻を鳴らした。
「うむ。武田の間者は優秀だ。
隠した所ですぐに見抜かれる。
どうせなら全て包み隠さず教えてやるのだ。
農兵と思わせて油断させた方がよい。
我らが勝つには、その油断を突くしかない」
一瞬目を丸くした浅野だったが、すぐに真剣な顔になる。
「なるほど。
確かに、殿の鬼謀を実現するためには、
今、敵に悟らせるわけには参りませぬ。
抜かりなく、実施させます」
「うむ、頼むぞ」
そういうと浅野は忍びを一人呼び寄せて、
手早く指示を伝えた。
(さぁ、武田はどんな陣容で来る?
明智殿の読み通りか?
いずれにせよ、俺は――
負けない戦をする)




