第八十話 井口の才
南伊勢にて秀政が北畠具房と向き合っている頃。
桑名城二の丸には、重い足音が響いた。
滝川一益である。
「備前殿は?」
開口一番、それだけを問う。
応じたのは、壮年の武将だった。
「現在、殿は南伊勢にて不穏の兆しありとのことで、
自ら赴かれております」
深く一礼する。
「拙者、井口甚右衛門長実にございます」
その背後に、もう一人。
まだ若いが、姿勢の整った武者が控えている。
「倅の、新右衛門長勝にございます」
「ほう、親子か」
滝川は二人を見比べた。
長実は無骨な槍侍。
長勝は若いが、落ち着いている。
派手さはない。
「南伊勢でも動きがあるとなれば、
さすがにたまらん。仕方あるまい」
「この間、桑名二の丸を殿よりお預かりしております。
滝川様の御要請あらば、
応ずるよう仰せつかっております」
「左様か。それは助かる」
滝川は地図を広げた。
「屋長島砦と中江砦を同時に攻める。
わしは中江を攻める。
井口殿芋粥軍千五百には屋長島砦を任せたい」
長実は地図を静かに見下ろす。
川筋。
堤。
湿地。
細い道。
一通り視線を走らせ、顔を上げた。
「承知」
短い。
「伊勢惣奉行の軍権は、この井口が預かっております。
ご下命あれば従います」
「策はあるか?」
滝川が問う。
長実は即答しない。
少しだけ間を置き、答えた。
「現地を見ねば、申し上げられませぬ」
滝川はわずかに鼻を鳴らす。
「備前殿とは違うな」
「拙者は策士ではございませぬ。ただの槍働きにございます」
その言葉に、飾りはない。
長勝が一歩進み出た。
「父上、舟の数と水深の確認は先に済ませておきます」
「うむ。渡し場の数も調べよ。退き道を先に知れ」
若者らしい勢いはあるが、浮つきはない。
滝川は二人を見ながら言った。
「三日後に動く。兵の損耗は避けたい」
「御意」
長実の声は変わらぬ。
滝川が去った後。
広間に残ったのは、井口親子と地図だけだった。
長勝が口を開く。
「父上、屋長島は湿地が深いと聞き及びます」
「聞き及ぶな。確かめよ」
「は」
「大河内殿は堤を切られて沈んだ。
忘れるな」
長勝の目がわずかに揺れた。
「あの轍は踏まぬ」
それだけ言うと、長実は地図を畳んだ。
「兵を集めよ。古参と新参を混ぜるな。
舟板と縄を多く持たせる」
「はい」
命令は簡潔。
華も、気負いもない。
ただ、無駄がない。
その姿は、秀政のような策士とは違う。
だが、地に足のついた重さがあった。
三日後――
屋長島砦へ向け、芋粥軍千五百が動き出す。
井口親子が率いる、静かな軍勢。
*
屋長島砦と中江砦。
二つの砦は川を挟んで睨み合うように建っていた。
濁った水。
湿地。
堤。
細く蛇行する道。
滝川軍が中江へ向けて進軍を開始すると、
ほぼ同時に、井口軍も動いた。
太鼓が鳴る。
「前へ」
井口長実の声は低い。
怒号も檄もない。
ただ、前へ。
湿地に足を取られぬよう、隊列は横に広がらない。
細く、深く、押す。
門徒側が銃を撃つ。
泥が跳ね、兵が崩れる。
だが井口は慌てない。
「下がるな。堤の影へ」
長勝が即座に右隊へ走る。
「父上、右から回り込みます!」
「行け。三十で足りる」
若さの俊敏さで、長勝は湿地を駆ける。
門徒の側面に食い込み、槍を振るう。
一撃。
二撃。
だが深追いしない。
「戻れ!前へ出るな!」
敵の誘いには乗らぬ。
正面では長実が自ら槍を構えていた。
「来い」
門徒の槍が突き出る。
長実はそれを払い、踏み込み、
喉元を正確に突く。
無駄がない。
豪胆でも荒々しくもない。
だが、確実に倒す。
湿地帯での正面衝突は、
次第に井口軍優勢へと傾いていった。
滝川軍の猛攻に劣らぬ速度で、
屋長島側も押している。
敵はじりじりと下がり、
やがて砦への道が開いた。
「退くぞ!」
門徒が後退する。
道が空く。
若い兵が叫ぶ。
「今です!砦へ!」
だが、井口は動かない。
長実の目は、砦ではなく――
堤の上を見ていた。
風。
水位。
流れ。
「……まだだ」
長勝が息を呑む。
「父上……」
「勝ったと思わせてから、切る」
堤を。
大河内盛恒が沈んだ戦を、
井口は忘れていなかった。
その時。
長実は、傍らに控えていた雑兵へ視線を送る。
煤けた衣。
地味な姿。
だが、その足の運びだけが異様に軽い。
「小太郎」
雑兵が一瞬だけ目を上げる。
伊勢入り時に秀政が雇い入れた、
伊賀忍び――
影走りの小太郎。
「走れ。
堤の決壊を止めてこい」
それだけ。
小太郎は頷いた。
次の瞬間、湿地へ飛び出す。
沼を踏み、
獣道を抜け、
堤の裏へ。
道なき道を、
まるで街道を走る早馬のような速さで、
小太郎は走り抜けていった。
門徒側では、すでに号令がかかろうとしていた。
「決壊の支度を――」
そこへ、小太郎が転がり込む。
息を荒げ、叫ぶ。
「待て!中止だ!」
門徒が振り向く。
「味方が乱戦になっておる!
今、堤を切れば味方も流される!」
「何だと!?」
「中止!決壊中止にござる!」
混乱。
迷い。
一瞬の遅れ。
それで十分だった。
その間に、井口軍は一気に前へ出る。
「今だ、押せ!」
長勝が突撃。
長実も前へ出る。
砦門へ到達。
丸太で打つ。
槍で押す。
門が軋む。
門徒が慌てて応戦するが、
統制は崩れている。
川の決壊は、起きなかった。
門が破られる。
「突入!」
井口軍がなだれ込む。
長実は最前列。
槍を突き、
薙ぎ、
進む。
長勝が父の背を守る。
敵の奇襲にも即応し、
若い足で側面を抑える。
やがて砦内の旗が倒れた。
同時刻。
川向こうでは、
滝川軍が中江を制圧していた。
勝鬨が二つ、同時に上がる。
滝川が川向こうを見た。
屋長島砦の旗が落ちている。
「……ほう」
井口軍が整然と立っている。
損害は、思ったより少ない。
「このわしと競うとは……」
滝川は鼻で笑う。
「やるではないか、井口殿」
屋長島砦の上で、
井口長実は静かに槍を下ろした。
誇らぬ。
騒がぬ。
ただ、次を見ている。
そして誰にも気付かれぬまま、
小太郎が湿地から戻ってきた。
足は泥だらけ。
だが、生きている。
大河内盛恒が沈んだ水没戦は、
繰り返されなかった。
井口の“堅実”は、
ただの慎重さではなかった。
それは――
戦場で生き残るための、確かな才であった。
*
南伊勢。
田丸城の一室。
具房の前に広げられた帳面と、
松親が持ち込んだ試算表が並ぶ。
「復興帖は三十七村分、整いました」
松親が淡々と告げる。
「……三十七」
具房は息を呑んだ。
「これだけ荒れているのか」
「はい。ですが逆に申せば、
手を入れる順が明確になったということです」
秀政が頷く。
「まずは上田が残っている村から立て直す。
復興は“早く成果が出る所”からだ。
民に“できる”と見せるのが先だ」
具房は真剣な眼差しで帳面を見つめている。
その時。
廊下の向こうから、急ぎ足の音がした。
「備前守様。
桑名より急使にございます」
秀政の目が動く。
「少し失礼する」
秀政と松親が廊下まで出向き使者と顔を合わせた。
泥にまみれた使者が膝をつく。
「屋長島砦、陥落。
井口甚右衛門長実殿の軍、
滝川様と同時に制圧」
二人にだけ聞こえる程度の小声で淡々と
使者が戦の詳細を報告する。
「決壊攻撃を未然に防いだとのこと。
敵の策を先読みし、被害軽微に砦を奪ったと」
秀政は、はっと小さく息を吐いた。
(大河内が沈んだあの水没戦。
同じ轍は踏まぬか)
「……井口もやるな」
秀政の口元が緩む。
「さらにその後、
滝川様の要請により門徒との野戦を五度。
いずれも勝利。
損害は軽微に抑えられております」
「五戦? 全て損害軽微か」
「はい」
「……井口」
静かに笑う。
「思いのほか良い将だったな」
「そうですね」
冷静に松親も返した。
「強いだけではない。
難しい戦だ。
湿地、水、堤防。
あれは猛将では務まらぬ。
堅実でなければ勝てぬ戦よ」
そして、はっきりと言う。
「この戦果は、褒めるに値する」
そこまで言うと、使者を送り返して、
再び部屋に戻った。
秀政は視線を帳面へ戻す。
「南が安定すれば、北へ全力を向けられる。
井口が持ちこたえてくれている今のうちに、
南伊勢を固めるぞ」
「はい」
松親がそれに答えた。
再び秀政と具房が、政策の詰め作業に戻る。
松親だけは、無表情で秀政を見ていた。
喜ぶ秀政。
だが松親の瞳は、静かに計算している。
(井口、思ったよりやるな)
屋長島を落とし、
五戦五勝。
しかも損害軽微。
(この長島であっても、
そう簡単に死んでくれるような将ではないかもしれん)
大河内の時とは違う。
井口は慎重だ。
読みが深い。
そして――生き延びる。
(これは……扱いを誤ると厄介だ)
だが表情は変わらない。
「義兄上」
穏やかに口を開く。
「井口殿の戦果、早馬で尾張にも伝えましょう。
万丸様もお喜びになりましょう」
秀政が嬉しそうに頷く。
「あぁ、そうだな。
あやつも良い守役を持った」
松親は、静かに目を伏せた。
(良い守役、か)
その言葉を胸に刻みながら。
南伊勢では善政の準備が進み、
北伊勢では井口が戦を制す。
芋粥家は確かに強くなっている。
――だが。
強くなればなるほど、
継承の火種もまた、
静かに膨らんでいくのだった。




