第八話 影に生きる理由
戦が終わっても、本当の意味で戦は終わらない。
桶狭間から二日。
勝利の余韻など、とっくに消えていた。
焼け落ちた村。
腐臭を帯び始めた死体。
泣き声を上げる女と子ども。
呻きながら地面に横たわる負傷兵。
「……地獄だな」
芋粥秀政は、小さく呟いた。
――勝ったのだ。
織田は勝った。
歴史に残る大勝利だ。
だが、目の前に広がる光景は、何一つ綺麗じゃない。
(ゲームと違うな……)
勝利演出も、経験値も、祝勝ムービーもない。
あるのは、壊れた人と土地だけだ。
数字だけの世界とは違う。
足軽たちは黙々と死体を運び、穴を掘る。
血と泥にまみれながら、無言で埋めていく。
その中心で――
一人、やたらとうるさい男がいた。
「そっちはまだ終わっとらん!
死体は後回しや、まず負傷兵じゃ!」
「荷駄を先に動かせ!
殿の物資と混ぜるな言うとるやろ!」
「泣いとる暇があったら手を動かせ!
泣くのは生き残ってからじゃ!」
木下藤吉郎。
――いや、秀吉。
誰もが嫌な顔をしながらも、結局は彼の指示に従っていた。
判断が速い。
迷いがない。
誰もやりたがらない仕事を、当然のように引き受ける。
(……こういうところだ)
芋粥は思う。
首を取った者が英雄になる世界だ。
だが、こういう場所で動ける人間は、そう多くない。
「おい、芋」
呼ばれて振り返ると、汗まみれの猿がいた。
「こっち来い。負傷者の名簿や」
帳面を投げ渡される。
「字が書けるやろ。
お前、顔が賢そうやし」
「顔は関係ないだろ……」
だが、帳面を開いた瞬間、芋粥は理解した。
字が汚い。
名前が曖昧。
生死すら判然としない。
(……これじゃ、誰が生きて誰が死んだか分からない)
芋粥は無言で膝をついた。
一人ずつ名前を確認する。
傷の具合を見る。
顔を覚える。
(この時代、“名前がない奴”は簡単に消える)
だからこそ、記録が必要だ。
誰かが「ここにいた」と残さなければならない。
遠くで、家臣の怒声が響く。
「でしゃばるな、猿!」
「武功もないくせに指図しおって!」
秀吉は、笑って頭を下げる。
「へいへい。
殿のためですから」
その背中は卑屈だ。
だが――目は、前しか見ていない。
(嫌われながら、上に行く男……)
普通の百姓足軽なら耐えられない。
だが、芋粥は違った。
(知ってるからな)
未来を。
史実を。
そして、ゲームの画面を。
豊臣政権は、ちゃんと子飼いを大名にしている。
仲間を切らない男だ。
(なら、ここでいい)
(裏方でいてやる)
腹は、もう決まっていた。
名簿を書き終えた頃、秀吉がふらりと近づいてくる。
「なぁ、芋」
「ん?」
「お前、どこの国が欲しい?」
「……は?」
手が止まる。
「国じゃ。領地。
ほれ、欲を言え。
お前はそういう顔しとる」
「偉そうに……天下人にでもなったつもりか?」
「なるんじゃ」
即答だった。
一瞬、言葉を失う。
(……ああ、そうだ)
こいつは、そこまで行く男だ。
「じゃあな」
芋粥は、笑いながら本気で答えた。
「東海道のええ所をくれ。
二十万石は欲しい」
周囲の足軽が吹き出す。
「芋、寝言は寝て言え!」
「首が飛ぶぞ!」
だが、秀吉は笑わなかった。
むしろ、少しだけ楽しそうだった。
「ええのう」
ぽつりと呟く。
「そのくらい言えん奴は、家臣にいらん」
声を潜めて続ける。
「約束したる。
わしが、そこまで行けたらや」
「……なら」
芋粥は帳面を閉じた。
「俺もそこまで付き合ってやるよ」
二人は、握手もしない。
誓いの言葉も交わさない。
ただ、同じ方向を見る。
(影でいい)
(表に立つのは、こいつだ)
(その代わり――結果は全部、頂く)
秀吉はまた怒鳴り始める。
芋粥は、新しい帳面を開く。
桶狭間は終わった。
だが、物語は――
静かに、確かに、動き出していた。




