脇巻の二 金ヶ崎の退き口
越前国敦賀郡・金ヶ崎。
海と山に挟まれた狭隘地で、
織田信長は、完全に包囲されていた。
前には朝倉。
背後には、裏切った浅井。
退路は、ただ一つ――
来た道を、命を捨てて戻るしかない。
「……殿が要るな」
信長の呟きに、
陣中の空気が凍りついた。
殿とは、
退却する本隊を逃がすため、
最後まで踏みとどまり、敵を引き受ける役。
つまり――
死に役だ。
沈黙を破って、
前に進み出た男がいる。
「――わしにやらせてくだせぇ」
木下藤吉郎。
「殿は、わしが引き受けますでな」
信長は、じっとその顔を見た。
「兵は?」
「三百。
わしの兵です」
一拍置いて、秀吉は続けた。
「それと……
芋から借りた百」
信長の眉が、わずかに動いた。
(芋か)
「あの男が、
こんな場面を想定していたとはな……
やれるか?」
「無論、任せてくだせぇ」
即答だった。
「逃げるための戦です。
勝つ必要はねぇ」
信長は、短く頷いた。
「――生きて戻れ」
金ヶ崎・退路
秀吉の殿軍、四百。
別の道には同じく名乗り出た、
明智光秀が兵を構える。
隣の秀吉の布陣を横目で見て、
光秀は眉を上げた。
(……異質な兵がいる)
剣豪五十、鉄砲五十。
まるで退き戦のために誂えたような編成。
(芋粥の兵か)
光秀は、短く息を吐いた。
(あの男……まさか読んでいたのか)
秀吉勢四百うち三百は、
秀吉が寄せ集め、鍛え上げた精鋭足軽。
百は――
伊勢から来た異物。
剣豪五十、鉄砲五十。
芋粥秀政の兵である。
秀吉は、布陣を見て即断した。
「芋の剣豪隊と鉄砲隊。
まるで退き戦を予知しておったようじゃの。
よーし、
伊勢の兵は後列だ」
一瞬、剣豪隊が眉を動かす。
だが、秀吉は構わず続けた。
「基本はわしの兵で受ける。
伊勢勢は――
要所だけ頼む」
剣豪隊の頭が、静かに頷いた。
「心得た」
第一波
朝倉軍、突撃。
数は、殿軍の倍以上。
「来るぞぉぉ!!」
秀吉の兵が前に出る。
槍が交わり、
怒号と悲鳴が混じる。
踏みとどまる。
だが、じわじわと押される。
「……重いな」
秀吉が歯を食いしばった、その瞬間。
「――今だ」
村瀬の弟子の師範代、山吹典膳が叫ぶ。
すると槍同士が突き合う中、
軽装の剣士隊が、
疾風の如く突撃し、
槍の隙間を通って一気に間合いを詰める。
驚く敵が慌てて反撃するが、
それを受けながらも、
各々が一刀のもとに振りぬく。
村瀬新陰流の奥義の一つ、
"一拍子の太刀"だ。
これは相手の先を取り、拍子を奪うことから、
命名された技だ。
上泉信綱が最も重視した技法でもある。
相手が構えた瞬間、
その拍子ごと断ち切る。
不意を突かれた敵兵は、一刀のもとに
槍、腕、首などを斬り飛ばされる。
それと同時に後ろに飛び下がり、再び槍隊の後ろに下がった。
秀吉の槍兵が、まだ立っている敵兵を刺し貫いて止めを刺した。
再び敵兵が押し寄せる。
またも激戦の最中に敵を"一拍子の太刀"で斬り裂く。
「なんじゃ、この戦い方は!?」
秀吉が感嘆の声を上げる。
大規模な野戦では剣豪も囲まれる。
だが、今は狭い道の退き戦だ。
小規模部隊同士の小競り合い。
それに割り込んで剣技で押さえつける。
局所戦だからこそ通用する小手先の戦法。
そんな中、業を煮やした敵の騎馬隊が一気に突撃してくる。
槍隊が槍衾をしかける。
伊勢の鉄砲隊が、一斉に前へ。
「撃てぇ!!」
轟音。
迫りくる騎馬隊が、まとめて崩れ落ちる。
一瞬の隙。
「よし、間が出来た。下がれ!」
秀吉の兵が前に出て、警戒しながら引き下がる。
(これだ)
秀吉は確信する。
(伊勢の兵は、
流れを“切る”ための刃だ)
第二波
浅井勢が、横合いから迫る。
狭い山道。木々の間から敵が押し寄せる。
退路が、詰まりかける。
「……まずい」
秀吉が呻いた瞬間、
またしても山吹典膳が叫ぶ。
「剣豪隊、前へ」
静かな声。
伊勢の剣豪が、
何も言わず踏み出す。
五十。
だが、動きは揃い、
山道を“塞ぐ壁”となった。
木々が邪魔をして槍を振り回せない。
自然と斬り合いになる。
しかも基本は一対一だ。
斬る。
突く。
押し返す。
強さが違う。
あっという間に敵兵が打ち倒され、
退路は守られた。
「……助かった」
秀吉は、唇を噛む。
(芋……
お前、本当に余計なことをする男だな。
わしの立場がないわぁ。
いや、助かったでぇ!)
数え切れないほどの波状攻撃。
前衛を張る秀吉の兵も百以上は討ち取られた。
剣豪隊も既に十人ほどを失った。
鉄砲隊も弾を討ち尽くし、
鉄砲を背に槍を振り回している。
だが……秀吉はまだ生きている。
黄昏
日が傾き、
退却完了の報が届く。
「殿!
本隊、撤退完了!!」
「よし!」
秀吉は、声を張り上げる。
「伊勢勢、下がれ!
わしの兵は、最後まで付き合え!」
最後の押し合い。
夜が、戦場を包む。
追撃は止まり――
殿は、成立した。
そして、信長の本陣。
光秀も血みどろになりながらも、
無事生還し、報告を終えていた。
そして入れ違うように、
血と泥にまみれた秀吉が、
膝をついた。
「……生きて戻ったか」
「へい」
秀吉は、深く息を吐く。
「殿」
「何だ」
「わしの兵が、
踏ん張れたのは――」
言葉を選び、続けた。
「伊勢の百が、
ここぞって時に効いたからです」
「……芋か」
「はい」
秀吉は、顔を上げる。
「芋め、伊勢に居て功を立てるなど、
癪でごぜぇますな!」
信長は、鼻で笑った。
「……一生の恩だな。
だが、この功は、猿、お前の物だ。
おそらく、芋ならそういうだろう」
「へい、わしに立派な褒美を下され。
芋にはわしから安物の脇差を褒美にやっときますでな」
「はっはっは」
信長と秀吉は大きく声を出して笑った。
*
退出した後の光秀の耳に、秀吉の声が届く。
「伊勢の百が、ここぞって時に効いたからです」
光秀は、足を止めた。
(……芋粥の百か)
伊勢にいながら。
金ヶ崎の敗戦を想定して。
(あの男は……
何処まで先を見ている)
信長と秀吉の笑い声が聞こえた。
光秀は静かに歩き去った。
その胸の内に、
芋粥秀政という名が、
くっきりと刻まれていた。
*
その頃。
那古野で、
松丸を抱いて微睡む男がいる。
自分の送った百が、
しかし確実に――
歴史の歯車を噛み合わせたことを、
まだ知らぬまま。
だが、この金ヶ崎以後。
木下秀吉にとって――
芋粥秀政への友情はまた強くなる。




