第六十五話 若き才
伊勢の山間に、ひっそりと人の営みがあった。
街道から外れ、獣道をいくつも越えた先――
戦に敗れ、行き場を失った者たちが身を寄せる、いわば“落ち武者の隠れ里”である。
かつては六角家に仕え、今は名を捨てた浪人たちが、百姓同然の暮らしを送っていた。
*
その里の外れ。
粗末な小屋の前で、一人の若者が鍬を握っていた。
年の頃は、十五、六。
背はまだ伸び切っておらず、身体も細い。
だがその所作は、どこか洗練されていた。
鍬を振るう動きに、無駄がない。
泥にまみれながらも、背筋は崩れず、視線は遠くを見据えている。
(……つまらぬ)
若者――神崎友清は、心の中で吐き捨てた。
(俺は、六角の血を引く者だ)
実父は、六角義賢。
観音寺城が落ちた時、友清は元服を終えたばかりだった。
十四歳。
家中が混乱する中で“庶子”である彼の立場はあまりにも脆かった。
守る価値があるのか。
守る余裕があるのか。
答えは、否だった。
旧臣の一人が、せめてもの情けとして彼を匿い、伊勢へと逃した。
それ以来二年近く経つが、友清は“六角”を名乗っていない。
神崎友清――
生まれ故郷の近江神崎郡の名を借りた、仮の名だ。
(六角の名を出せば、命が危うい)
織田の追及は、今も続いている。
没落したとはいえ、六角は“反織田の象徴”だ。
北畠は自分たちで手一杯。
滝川一益は、即戦力を重んじるため、興味を示さない。
政治的に扱いづらく、武に優れる訳でもなければ、六角の血筋に今やそこまでの価値はない。
――中途半端。
それが、友清自身の評価だった。
(文なら……多少は扱える)
書状の文言、記録の整理、政務の手順。
幼い頃から、母方の申次衆に仕込まれてきた。
だが、それを活かす場がない。
(六角の血を引いていながら畑を耕している)
歯噛みする。
誇りと劣等感が、胸の内で絡み合っていた。
*
「――神崎友清殿で間違いないですか?」
不意にかけられた声に、友清は鍬を止めた。
振り向くと、里には似つかわしくない若武者が立っている。
穏やかな顔立ち、商人と言われても通じる落ち着いた男。
しかし只者ではないのは明白だった。
「……何用だ」
警戒を隠さず、友清は答えた。
その男は一歩前に出る。
「安心してください。
捕りに来たわけではありません」
そう言って、にこりと笑った。
「私は千種松親。
芋粥秀政の義弟です」
その名を聞いた瞬間、友清の目がわずかに見開かれた。
(鬼備前……芋粥秀政?)
この辺境でも噂は届いている。
織田の中で異彩を放つ、策と胆力の男。
武名は十分すぎるほどだ。
「……何の用だ?」
再び問い返すと、松親は率直に言った。
「あなたを迎えに来ました」
「……は?」
友清は思わず聞き返した。
「冗談はよせ。
俺はただの百姓だ」
「いいえ」
松親は首を振る。
「六角義賢の庶子。
母方は申次衆。
文書、記録、調略を学んだ――
何より、かの名君定頼公の血を引くお方」
そこまで言われて、友清の背筋に、冷たいものが走った。
(……どこまで知っている)
「安心してください。
六角の名を名乗れとは言いません」
松親は静かに続けた。
「芋粥家は“神崎友清”を迎えたいのです」
その言葉に、友清の胸が強く脈打った。
「……俺を使ってどうする」
松親は少しだけ表情を引き締めた。
「伊勢を治めるには、刀だけでは足りません。
帳簿を読み、文を操り、人の心を読む者が必要です」
「だが……俺は若い。
実績もない」
「若いからこそです」
即答だった。
「これから積み上げられる。
殿はそういう人です」
一瞬の沈黙。
友清は空を仰いだ。
(……俺にそんな場所があるのか)
誇りが疼く。
同時に怖さも込み上げる。
だが松親の目は真剣だった。
商人の顔をしながら、その奥に確かな“賭け師”の光がある。
「……少し、話をさせてくれ」
「喜んで。土産に良い酒を持参しました」
松親はそう言って微笑んだ。
二人の若者は、里の外れの切り株に腰を下ろし、いつの間にか、夢中で語り合い始めていた。
政治の話。
商いの話。
伊勢の未来。
気づけば日が傾いていた。
「愉快愉快!
友清殿の博識、想像以上だ」
「いや、松親殿の方こそ、どこぞの名軍師かと思うた」
「友清殿にそこまで言われると誇らしくなります。
義兄上には勿体ない。
この私に仕えませぬか?
年三十貫出します」
「さ、三十貫!?」
思わず声が裏返った。
「はい、私も少々お小遣いをもらう当てがありましてな。
友清殿の才ならば五十貫払っても、惜しくはない」
「いやいやいや、そんなにいただけませぬ。
三十貫でもいきなり旗本並みの俸禄です」
「そうだ、この際、ここで義兄弟の契りを結びましょう。
私のような者が六角家の出自の友清殿と義兄弟などと、おこがましいのですが」
「いや……。松親殿。
そこまで俺を買っていただけるのであれば俺は松親殿を義兄と敬いましょう」
「決まりですな、友清殿は我が千種家の重臣としてお仕えください。
ここにいる者たちも希望があれば世話します。
重要な人物は30貫の内で友清殿が召し抱えればよいです。」
「何から何までありがとうございます。
よろしくお願いいたします」
*
この出会いが芋粥家の屋台骨を形作る――
その第一歩になることを。
そして、やがて千種家の柱となることを。
まだ誰も知らない。
*
一方、秀政は村瀬兼良を伴い、鈴鹿山麓へと足を踏み入れていた。
この地には、近頃奇妙な噂が広まっている。
伝説に聞く「鈴鹿の鬼」が実際に現れたという。
その噂の真相は、数年前に一人の若武者が現れ、山賊、夜盗、地侍を次々と斬り伏せ、配下へと組み込んでいるというのだ。
だがその正体こそ、清隆の一覧にあったあの人物。
斎藤義龍の庶子。
“蝮の道三”の血を引く男――斎藤玄蕃利玄。
六角友清と同じく、彼もまた、十五で元服を終えた直後に稲葉山城落城によって全てを失った。
主家は滅び、残ったのはわずかな郎党のみ。
彷徨う末に辿り着いたのが、盗賊と無法者が跋扈する鈴鹿の山だった。
しかし利玄はその魔境を制圧した。
持ち前の槍の腕。
そして、生まれながらの統率力。
気づけば、山賊たちは彼に従い、鈴鹿の山は“彼の縄張り”となっていた。
「……蝮の血か」
秀政は、山道を進みながら口元を歪めた。
「ぜひ、欲しいな」
心が躍っていた。
*
やがて茂みが揺れ、道を塞ぐように人影が現れた。
「止まれ」
山賊たちがいつの間にか周囲を取り囲んでいる。
秀政はちらりと村瀬を見る。
「……やれ」
軽く命じると、村瀬は面倒くさそうに刀を抜き、一歩踏み出した。
次の瞬間――山賊たちは、雪崩を打って崩れた。
「……待て」
だが、そこで声がかかる。
斬り伏せられた仲間を見て、頭領格が撤退を命じたのだ。
そして――その背後から一人の若者が姿を現した。
立派な槍を携え、まだ若いが鋭い眼光を持つ男。
「おい、爺ども!」
高らかに、そう言い放った。
「この鈴鹿の山に、何をしに来た?
命は助けてやる。
金目の物を置いて、さっさと立ち去れ」
「……爺?」
(俺はまだ三十三だぞ!?)
秀政が内心で叫ぶより早く、村瀬の額に青筋が浮かんだ。
「小童!
このお方を誰と心得る!
芋粥鬼備前様ぞ!
口を慎め!」
(こら、村瀬!
こういう血の気の多い若造に鬼備前と名乗るな!)
案の定――
「鬼備前……?」
若者の目が、爛々と輝いた。
「面白い!
鬼の噂が本当か、確かめてやる!」
槍を構え、一歩踏み出す。
(ほら見ろ……こういう若造は得てして無謀なんだ)
「小童、ふざけるな」
村瀬が静かに前へ出た。
「鬼備前様が、お前ごとき小者の相手をなさるわけがなかろう。
まずは――このわしの相手をしてみよ」
(いいぞ、村瀬!
ちゃんと自分で尻ぬぐいしろ)
「よかろう!」
若者が名乗る。
「我が名は、鷺山利玄!」
(……鷺山?)
秀政の背筋が、ぴくりと震えた。
(間違いない。
斎藤玄蕃利玄だ。
確か生地は“鷺山”。
今はその名を名乗っているのか)
「まずは金魚の糞から成敗してやろう!」
金魚の糞……その言葉に、村瀬の表情が一気に“鬼”へと変わった。
「――待て、村瀬!
殺すな!
そいつが斎藤利玄だ!」
名を呼ばれた瞬間、利玄の全身が強張った。
「……爺ども。
俺を斎藤と知って、歯向かうか。
織田の手の者だな?」
槍を構える。
「なら――容赦せん」
「容赦せんのは、わしの方だ!」
「村瀬、冷静に――」
その声を掻き消すように、利玄の槍が疾風の如く突き出された。
――速い。
秀政なら、即死だっただろう。
だが村瀬は、最小の動きで全てを躱した。
次第に利玄の呼吸が乱れる。
「村瀬、いかん! やめろ!」
だが遅かった。
――ガンッ!
槍が真っ二つに叩き折られる。
続けざまに、村瀬の刀が大きく袈裟に走った。
(……あぁ、やりやがった)
斬れたのは――着物だけ。
利玄の衣は裂け、褌が露わになる。
利玄は、口を開けたまま、呆然と立ち尽くしていた。
「……な、何者だ……」
「わしは鬼備前様の家来じゃ」
村瀬が鼻で笑う。
「このわしにすら勝てん小童が、粋がるでない」
利玄は膝を落とした。
*
「……まぁ、待て」
秀政が前に出た。
「利玄殿。
俺は、お前に話があって来た」
「……話だと?」
「単刀直入に言う」
秀政は真っ直ぐに告げる。
「俺の家臣になれ」
「……は?」
利玄は顔を歪めた。
「ふざけるな。
なぜ俺が織田の鬼備前に従わねばならん」
「俺はな」
秀政は首を振る。
「織田の将として、お前を登用しに来たのではない」
「……どういう意味だ」
「お前の祖父、美濃守・道三公に惚れた一人の男として来た」
利玄の目が見開かれる。
「祖父上に惚れた、だと?
どうせ蝮の異名を珍しがっただけだろう!」
「違う」
秀政は即答した。
「道三公ほど、痺れる男はおらん。
あれほどの梟雄、あれほどの切れ者、戦国に二人とおらぬ」
そこから――止まらぬ“道三語り”が始まった。
策略。胆力。裏切り。決断。
一向に話が止まず、一刻が経とうとしていた。
「……も、もう良い。
やめてくれ。長いわ!」
利玄が頭を抱える。
「なぜ……
なぜ俺よりも祖父上のことを詳しく知っている」
「だから言っただろう。
惚れているのだと」
秀政は笑う。
「だから若輩のお前を、こうまで育ててみたいと思うた」
沈黙。
やがて、利玄が息を吐いた。
「……分かった。
どうせ、食いっぱぐれていた」
顔を上げる。
「仕官する。
鬼備前なら――俺も仕え甲斐がある」
「そうか!」
秀政は破顔した。
「ただし、斎藤は名乗れぬぞ。
鷺山利玄として召し抱える」
「構わん」
利玄は頷く。
「こいつらも連れて行く。
いいな?」
「構わん。
お前は芋粥家の足軽大将だ。
配下ごと預かれ」
利玄は頭を掻き、小さく呟いた。
「……じゃあ、よろしく頼むわ。
殿」
こうして――芋粥家に、もう一人の若き将が加わった。
後にこの男は“蝮の後継”と呼ばれるに相応しい
兵法家へと成長していくことになる。




