第六十二話 伊勢の寒風
長島の僧兵に追われて、
慌てて逃げ出した秀政たちは、
無事川岸へと到着した。
着岸を確認すると、
僧兵はなおも睨みながら、
引き返していく。
「何とかなったな。
おっかない奴らだ。
近づいただけでこれか」
愚痴をいう秀政に、すました顔で村瀬が呟く。
「わざと追い付かれて、全員そっ首を
切り落としておけばよかったか?
良い牽制になろう」
「おい、村瀬、さっきの船上の話を聞いてなかったのか?
無意味に火種に着火するなよ」
「面倒くさい。
うるさい奴は力で黙らせたらいい」
「こら、お前、随分と鬼備前が身に染みてきたな」
「鬼備前は殿の事だぞ」
「もういい。桑名に向かうぞ」
*
桑名。
秀政は、城下に足を踏み入れた瞬間、眉をひそめた。
道はぬかるみ、
荷車は立ち往生し、
商人たちが口々に不満を叫んでいる。
政成が整えた街道から、
少し外れるだけでこれか。
そこにいる者達も荒んでいる。
「年貢が重すぎる」
「長島の連中がまた舟を止めおった」
「役人は何もしてくれぬ!」
荒木が低く呟く。
「……酷い有様ですな」
秀政は無言で周囲を見渡した。
荒れた道、疲れ切った農民、
そして、どこか怯えたような空気。
(伊勢は……ここまで乱れていたのか)
南條が小声で話しかけた。
「殿、北勢は、長島の影響で、
荒れに荒れておりますな。
先ほどの策を実行しようにも
まずは伊勢の現状回復からでしょう」
「これも長島の影響?」
(これは長島だけの問題ではない。
織田の“締め付け”そのものが、
伊勢を疲弊させている。
あの南條ですら、
締め付けが正解と考えるんだ。
滝川殿とて締め付けが最良と考えても、
不思議はない。
先ほどの策が机上の空論にならねば良いが……)
*
願証寺・大広間
黒い煙が天井に溜まり、
煤で黒ずんだ梁が重く軋んでいた。
門徒衆が集まり、
使者として、石山本願寺から指示を伝えに来た、
下間頼照を取り囲んだ。
僧兵頭が頼照に向けて、苛立ちを隠さずに言い放つ。
「……また滝川の奴が、村を焼きました」
ざわり、と空気が揺れた。
「今度はどこだ」
「北勢の外れです。
“長島に味方した疑いがある”と、
勝手に決めつけて焼き払ったらしいです」
怒号が飛ぶ。
「滝川め!
あいつは戦もせずに、民を痛めつけるだけだ!」
頼照は拳を握りしめた。
「滝川一益……
あれは“恐怖”で伊勢を治めようとしている。
長島を攻める度胸はないくせにな」
若い僧兵が震える声で言う。
「頼照様……
滝川は、我らを攻める気なのでしょうか」
下間頼照は鼻で笑った。
「攻める度胸はない。
この長島は願証寺の証恵と証意によって、
よくまとまっておる。
だが、奴は“挑発”してくる。
我らが怒りで暴発するのを待っておるのだ」
門徒の一人が吐き捨てる。
「村を焼き、女を脅し、
商人には“長島と取引するな”と刀を突きつけ……
織田は信用ならん!」
下間頼照は静かに頷いた。
「滝川は情に薄い男だ。
粗暴にして冷酷、ゆえに厄介だ。
奴によって、伊勢が荒れる」
沈黙が落ちた。
「心配致すな。
法主様はお前達のことを、
常に心配しておられる」
*
願証寺 奥の間。
下間頼旦が、
薄暗い部屋で下間頼照に問う。
「頼照。
滝川は、いつ攻めてくる?」
下間頼照は静かに答えた。
「攻めては来ぬだろう。
だが、奴は伊勢を荒らし、
長島を挑発し続ける。
このままでは、民が持たぬ」
下間頼旦は眉をひそめた。
「滝川一益……
あの男は、織田の中でも最も冷静にして
冷酷な奴の一人だ。
力で押さえつけることも辞さぬと考えておる」
下間頼照は頷く。
「そうだ。
あれは“恐怖”で治める男だ。
だが、恐怖は長く続かぬ。
いずれ伊勢は爆ぜる」
下間頼旦は拳を握った。
「恨めしい……
滝川め……
お前のせいで、伊勢は乱れ、
長島は追い詰められていく」
下間頼照は静かに語った。
「いずれ、仏罰の時が来るだろう。
滝川が動かずとも、
このままでは民が暴発する」
下間頼旦は目を閉じた。
(滝川……
お前の粗暴な支配が、
伊勢を地獄に変えている)
「頼旦、わしは石山に戻るが、
伊勢を任せても良いな?
証恵と証意を支えてやってくれ」
下間頼旦がしっかりと頷く。
「あぁ、任せてくれ。
この伊勢を、これ以上好きにはさせぬ」
黒い煙が、
願証寺の屋根から空へと昇っていった。
*
桑名の城下を抜け、
ようやく人心地ついたところで、
秀政は南條と荒木を呼び寄せた。
「……見ただろう。
伊勢が荒れているのは、長島のせいだけじゃない」
南條が眉をひそめる。
「滝川殿の締め付け、ですか」
秀政は静かに頷いた。
「そうだ。
あれは“治める”ではなく“押さえつける”だ。
村を焼き、商人を脅し、
民を怯えさせているだけだ」
荒木が苦い顔をする。
「……あれでは、民が持ちませぬな」
「持たん。
だからこそ、俺たちがやるべきは一つだ」
秀政は二人を見据えた。
「治安を回復させろ。
そして、伊勢を富ませろ。
急ぎだ。」
南條が驚いたように目を見開く。
「殿、しかし……長島への策は……」
「松親の嫌がらせは“土台”ができてからだ。
今の伊勢に、そんな余裕はない」
秀政は淡々と続けた。
「まずは民を安心させる。
道を整え、商人を呼び戻し、
年貢を見直し、滝川の尻拭いをする。
それが先だ」
荒木が深く頷く。
「承知いたしました。
治安と富の回復、最優先で動きます」
秀政は松親の方へ視線を向けた。
松親は、ほんの少しだけ不満げに、
唇を尖らせていたが、
すぐに表情を引き締めた。
「……義兄上の言う通りですね。
長島を揺らすのは、伊勢が立ち直ってからで十分。
私の策は、その後に活きる」
(ふ、こいつはちゃんと分かっている策士だ。
自分に溺れていない。
良い傾向だ)
「その時は頼むぞ、松親」
「任せてください」
三人の返事を聞きながら、
秀政は静かに息を吐いた。
(……思った以上に難しいかじ取りになりそうだ)
伊勢の風は冷たく、
その先に待つ長島の影は、なお深かった。




