第四十四話 完全勝利
戦は既に決していた。
芋粥隊が討ち取った敵兵は――
確認できただけでも、六百。
討ち取り首を捨て置いた戦いである以上、実数はさらに多いだろう。
それに対して、芋粥隊の被害は――
負傷者、百五十余。
死者、わずかに三。
戦場の常識からすれば、あり得ぬ数字だった。
秀政がとった策の一つでも欠ければ、実現はしなかったであろう。
奇跡の戦果だ。
伊勢大手勢の被害は、もはや数えようがない。
逃げ散った者。
屍を晒す者。
降伏した者。
負傷者と行方不明の総数は不明だが、「壊滅」と見て差し支えなかった。
芋粥本隊は、逃げ惑う敵陣を貫き、斬り、崩し、そして――
止まった。
「よし、ここまでで良い!」
馬上の秀政が、はっきりと叫ぶ。
「深追いするな!」
芋粥隊の動きが、ぴたりと止まる。
「そろそろ清隆の方も限界のはずだ。
助けに行くぞ!」
その言葉は勝利に酔う兵を抑えるためでもあり、そして現実を正確に見据えた判断だった。
*
川岸で戦う左翼。
清隆の隊は、まだ持ちこたえてはいた。
だが明らかに様相が変わりつつあった。
敵は五倍。
渡河点は限られているとはいえ、間断なく、敵兵が押し寄せてくる。
一波。
二波。
三波。
波状攻撃は確実に味方の体力を削っていった。
敵将たちは、矢を恐れてもはや前に出てこない。
代わりに後方から叫ぶ。
「進め!」
「踏み越えろ!」
「止まるな!」
足元には、味方の屍。
それを踏み越えて進んでくる敵兵も、もはや正気ではなかった。
(生きるためには行くしかない)
そんな目をしている。
味方にも変化が出始めていた。
怪我を負い、後列に引き下がる兵。
槍を握る手が震え、一瞬、間が空く。
そこに――
槍衾の“穴”が生まれる。
「……やはり、きついな」
清隆は、短く息を吐いた。
腕を上げ、突き、引き、そして自分の矢筒を見る。
すでに、ほとんどが空だった。
清隆は、放った矢を敵兵から抜き取りながら、静かに思う。
(殿……。
そろそろ限界だ。
いや、もうひと踏ん張りで――殿が必ず来てくださる)
川の向こうでは、なおも敵兵が叫び、押し寄せていた。
長槍隊は、まだ踏みとどまっている。
だが、それが永遠でないことは、清隆自身が誰よりもよく分かっていた。
*
ついに――槍衾の一角が、崩れた。
疲労。
怪我。
そして、休みなく押し寄せる敵。
そのわずかな隙間を、伊勢衆は見逃さなかった。
「渡れぇ!!」
叫びと共に、敵兵が川を越えてくる。
浅瀬を踏み越え、滑り、転び、それでも――前へ。
もはや波状攻撃ではない。
乱戦だ。
前列と後列の区別は消え、長槍の間に、刀を抜いた敵が割り込む。
槍を折られる者が出る。
槍を捨て、刀に持ち替える者も現れた。
「……来たか」
清隆は、短く呟いた。
そして――
自らも、槍を取り直す。
「押し返せ!」
清隆は一歩踏み出し、そのまま敵陣へ突っ込んだ。
長槍を横に振るう。
鈍い衝撃。
数人の敵兵が、人形のように弾き飛ばされる。
不眠の敵は、明らかに鈍っていた。
動きが遅い。
判断が遅い。
反応が半拍ずつ遅れる。
(……これでなければ、とっくに崩れている)
そう思えるほど、ぎりぎりの均衡だった。
清隆の顔に、一瞬焦りが浮かぶ。
複数個所で押され始めた。
(殿は――間に合わなかったか)
槍を突き、敵を貫く。
(殿も、倍の敵と戦っている。是非もない)
隣にいた味方の兵が、石突を肩に受けてうめきながら、片膝をついた。
止めを刺そうとした敵を、清隆が槍で一突きにする。
(かくなる上は――殿だけでも勝利を)
その時だった。
敵の後方から地鳴りのような声が響いた。
「――――――――ッ!!」
清隆は、はっと顔を上げる。
(……来た!?
この方角は……滝川勢か!?
到着が早い!)
脳裏に、一つの像が浮かぶ。
(滝川殿は、佐久間とは違う。
当初の予定通り、早い刻から――近場の渡河場を渡ったのだ!)
清隆は、その場で腹の底から叫んだ。
「援軍じゃあ!!」
声は戦場を裂いた。
「滝川本体が来たぞ!!
滝川本隊……三千が来たぁ!!」
かなりの誇張だった。
だが――それで十分だった。
敵兵の動きが止まる。
ざわめきが恐怖へと変わる。
清隆は畳みかける。
「刀を捨てよ!!」
叫びは刃よりも鋭かった。
「愚かな主君に、殉ずるな!!
刃向かわぬ者の命はとらん!!」
――決まった。
一人。
また一人。
伊勢衆が刀を捨てる。
膝をつき、地に座り込む。
圧倒的な戦力差は、戦を――即座に終わらせた。
川向の川手勢は、滝川隊に蹂躙されてこちらも壊滅しようとしていた。
*
清隆隊は立っていた。
怪我のない者は一人もいない。
だが――死者はなし。
通常であれば奇跡としか言えない結果だ。
敵が不眠で弱り切っていたこともある。
これは功を争わぬ皆の協力と、判断の積み重ねによって成し遂げた必然だ。
ちょうどその頃――本隊側から勝鬨が上がる。
遠く。
だが確かに。
清隆はその声を聞いて、深く息を吐いた。
「……殿も、勝利を得られたか」
槍を地に突き、静かに言う。
「芋粥の――大勝利じゃ」
「おぉぉ!!」
清隆隊も勝鬨を上げた。
清隆はその場にどさりと座り込む。
兵たちも次々と腰を下ろした。
血に塗れ、泥にまみれ、それでも誰もが生きていた。
「生き残れば功……
皆が大手柄よ!」
秀政が提唱した「生存=功」という仕組みが、最も過酷な現場で「死者なし」を実現した。
清隆は高揚が収まらなかった。
朝明川の流れは、ゆっくりと……血の赤を洗い流していく。
戦は完全に――終わった。




