第三十四話 火薬の匂い
那古野城。
朝の空気は、まだ冷えを残していた。
秀政は、政成と向かい合い、茶を口に運んでいた。
帳面も、書状も、今は置いていない。
こういう話は、数字の前にするものではない。
「……義父殿」
秀政が、静かに切り出した。
「どうしても、
やり切らねばならぬことがある」
政成は、すぐには答えなかった。
この言い方の時は、
だいたい碌でもない――
だが、聞かねばならぬ話だ。
「……何でしょうか」
秀政は、迷いなく言った。
「鉄砲だ」
政成の目が、わずかに細くなる。
「鉄砲、でございますか」
「あぁ」
秀政は、湯呑を置いた。
間を置きながら、
立て続けに言葉を繋げた。
「これから先、
戦の形は変わる」
「槍の数でも、
剣の腕でもない」
「火薬と鉛が、
戦場を支配する時代になる」
政成は、黙って頷いた。
商人として、
火薬の価値は理解している。
「欲しいのは二つだ」
秀政は指を立てる。
「鉄砲を作れる者、
そして、撃てる者」
「芋粥の――
鉄砲隊を作る」
政成は、少し考え込んだ。
「……国友、ですな」
「そうだ」
秀政は頷く。
「近江・国友。
鉄砲鍛冶の集まる地だ」
「だが――」
一拍。
「俺が直接行くわけにはいかん」
城代という立場。
加えて、今は余計な動きを
信長に見せる時でもない。
「そこでだ」
秀政は、政成を見た。
「松之助の様子は、どうだ」
政成の表情が、少し和らいだ。
「……ずいぶん慣れてきました」
「帳面も、商談も、
自分の判断で回せるようになっております」
「大旦那である私の手から、
少しずつですが――
巣立ちつつありますな」
秀政は、短く息を吐いた。
「ならば――
試練を与える」
政成の背筋が、わずかに伸びる。
「国友へ行かせろ」
「……鉄砲の件、ですな」
「あぁ」
秀政は、淡々と続けた。
「鉄砲製造の契約を結ばせる」
「面白い仕事ですな」
「値切るな」
政成が、眉を上げる。
「……と、申しますと?」
「今回は――
金に糸目をつけるな」
秀政は、はっきり言った。
「使うべきところで使えぬ商いは、
いずれ詰む。
貯めるだけでは、国は回らん。
使ってこそ、また貯まる」
「確かに……」
「それと――」
秀政は続ける。
「鉄砲鍛冶と、狙撃手の“候補”を
それぞれ五名」
一拍置いて、政成の目を見つめた。
「国友へ連れて行き、
弟子入りさせろ」
政成が、低く唸った。
「……十人を、
外に預ける、と」
「期限は二年半だ。
技術を持ち帰れ」
秀政は、即答した。
「短いな、と思うだろう」
「……はい」
「だが、
間に合わせねばならん」
政成は、それ以上は聞かなかった。
この男が、理由を語らぬ時は、
語れぬ理由がある。
「銭は、潤沢に持たせろ」
秀政は、念を押した。
「損しても良い」
「見くびられてもよい」
「だが――
技術と、繋がりだけは持ち帰らせろ」
政成は、深く頷いた。
「承知いたしました」
「松之助には、
この国友行きを“独り立ち”と伝えましょう」
「そうだ。
あいつは金の使い方を覚えねばならん」
秀政は、立ち上がる。
「鉄砲は、武器ではない」
「“仕組み”だ」
「それを作れる家だけが、
次の時代に残る」
那古野の城下に、
冷たい風が吹き抜けた。
やがて――
火薬と鉛の匂いが、
この城にも満ちることになる。
(……二年半だ)
秀政は、胸の内でだけ呟いた。
(秀吉のためにも――
金ヶ崎の退き口までに
間に合わせねばならん)
秀政は、深く息を吐いた。
(……これでいい)
松之助を国友へ放った。
金は持たせた。
時間も区切った。
あとは――
動きながら整えるだけだ。
「次だな」
秀政は、声を上げた。
「清隆を呼べ」
*
ほどなくして、
浅野清隆が姿を現した。
「お呼びでしょうか、殿」
「うむ」
秀政は、簡素な地図を机に広げる。
「那古野城の常備兵、一千だ」
清隆の目が、地図へ落ちる。
「この兵を、どう動かすかを決める」
清隆は、即座に答えなかった。
これは“確認”ではない。
“命令”を形にする場だ。
「まず――」
秀政が言った。
「五百は、俺が直に握る」
「城の守りと、即応用だ」
清隆は頷く。
「殿の近衛と、城番を兼ねますな」
「次だ」
秀政は軽く頷き、続けた。
「強き者たちを四百五十集め、
清隆が率いろ」
「普段の訓練、隊の編成、
動かし方――
すべて任せる。
芋粥の最精鋭に仕立てろ」
清隆は、わずかに口角を上げた。
「承知しました」
「最後に――」
秀政は、視線を上げた。
「残り五十」
清隆が、村瀬を見る。
村瀬は腕を組んだまま、
黙っている。
「この五十は、村瀬に預ける。
千人の中で最も剣筋の良い五十名を選べ!」
「は!」
「新陰流の――
剣豪隊だ」
村瀬が、ゆっくりと頷いた。
「……五十なら、
鍛え上げられる」
秀政は、きっぱり言った。
「時間はあまりないぞ?」
(――間に合わせる)
口には出さない。
「清隆、
全体の練兵は、
すべてお前に任せる」
「はっ!」
「槍、鉄砲、刀――
混ぜるな。
それぞれを、
“使いどころ”で使えるようにしろ」
清隆の目が、鋭くなる。
「戦場で、
迷わせないということですな」
「そうだ」
秀政は、短く頷いた。
「こいつらは百姓兵ではない。
動ける兵を作れ」
清隆は、深く一礼した。
「この浅野清隆、
芋粥の兵を
“使える兵”に仕立ててみせます」
「頼んだぞ」
秀政は、地図を畳んだ。
(……これで、
城は守れる。いずれは外へ……)
その時だった。
座敷の外が、
にわかに騒がしくなる。
足音。
荒い息。
「――殿!」
襖が勢いよく開かれた。
飛び込んできたのは、
城番の若侍だった。
「大変です!」
秀政は、即座に立ち上がる。
「何事だ」
「佐久間様より――
出陣のご指示が!」
空気が、一変した。
清隆が、目を細める。
「……どこへ」
若侍は、息を整えながら答えた。
「伊勢――
北勢四十八家の平定にございます!」
一瞬。
秀政の脳裏に、
地図が浮かぶ。
伊勢。
北勢。
(……来たか)
まだ、整えきってはいない。
だが――
待ってはくれない。
秀政は、静かに言った。
「出陣準備だ」
「清隆、
いつでも出せるよう、
兵を編成せよ」
「は!」
「村瀬、
剣豪隊は――
今回は見せるな」
村瀬が、にやりと笑う。
「……切り札は、最後ですな」
「そうだ。
その代わり、お前が五十人分の働きをしろ」
「承知!」
秀政は、拳を握った。
(鉄砲も、剣も、
まだ“途中”だ)
(だが――
戦は、待ってはくれん)
那古野城の空気が、
一気に戦時へと傾いた。
火薬の匂いは、
まだ遠い。
だが――
血と土の匂いは、
もうすぐそこまで来ていた。
嵐は、
静かに――
だが確実に、近づいていた。
あとがき
覚書です。
本話時点、1567年(永禄十年)
芋粥秀政 30歳
お悠 24歳
お明 4歳
お蘭 3歳
千種政成 44歳
浅野清隆 40歳
村瀬兼良 34歳
耀 16歳
市助 24歳
弥平 23歳
霧隼 27歳




