第三十二話 天下布武
五日後、稲葉山城で評定が行われた。
尾張の重臣たちも呼び寄せられて、
その末席に、
秀吉や秀政、半兵衛が座る。
「壮観じゃな」
秀吉が小声で呟くが、秀政はそれどころではない。
隣に竹中半兵衛が座っている。
席次は自分よりも下位扱いだ。
半兵衛自身は全く気にしていないが、
知力で勝ったかのような錯覚に陥る。
(お、俺、やっぱり政治力だけじゃなくて
知力も高い、隠れ有能武将なのか?!)
そんな中、評定が始まる。
「――お館様、ご入場!」
信長が姿を現すと、
広間の空気が一瞬で張り詰めた。
その後ろには、黒衣の僧――
沢彦宗恩が控えていた。
信長は上座に進むと、ゆっくりと腰を下ろした。
「皆、よう集まった。
まずは此度の美濃平定、見事であった」
重臣たちが一斉に頭を下げる。
信長は一拍置き、広間を見渡した。
「――今日の評定は、ただの戦後処理ではない。
これより、織田家は新たな段階へ入る」
ざわり、と空気が揺れた。
信長は、背後の沢彦に目を向ける。
「沢彦。例の話、皆にも聞かせよ」
沢彦宗恩は静かに前へ進み、深く一礼した。
「殿は、この井口の地を改め、
天下を治める根本の地とされるおつもりです」
重臣たちの視線が信長へ集まる。
沢彦は続けた。
「周の文王は“岐山”に起こり、天下を平らげました。
殿もまた、この地より天下を治められましょう。
ゆえに――」
信長が言葉を継いだ。
「“岐”の字を用いる」
沢彦が頷く。
「そして、この高き丘を表す“阜”。
合わせて――」
信長の声が、広間に響き渡った。
「――岐阜と改める」
重臣たちは息を呑んだ。
信長は立ち上がり、広間を見下ろした。
「今日より、井口は岐阜と名乗る。
そして――」
信長は懐から一つの朱印を取り出した。
そこには、力強い四文字が刻まれている。
天下布武
「この印を、織田家の旗印とする。
武をもって天下を治めるのではない。
武を布き、乱世を終わらせるのだ」
広間が静まり返る。
柴田勝家が拳を握り、
丹羽長秀が深く頭を垂れ、
秀吉は目を輝かせ、
秀政は息を呑んだ。
信長は堂々と宣言する。
「――天下布武。
ここ岐阜より、天下を掴む!」
その瞬間、
評定の場は、ただの軍議ではなく、
新しい時代の開幕を告げる舞台へと変わった。
沢彦宗恩は静かに目を閉じ、
信長の背に立つ“天下人の影”を確かに感じていた。
信長が続ける。
「この岐阜城を本拠とする。
清州城は番城として、
譜代の佐久間右衛門、林佐渡、佐久間久六が
交代で守れ。」
「「は!」」
佐久間たちが力強く応じた。
「各々、この美濃、岐阜にも屋敷を構えよ。
そして、これより告げる者は岐阜に常駐せよ」
新体制を小姓が読み上げていく。
柴田や丹羽、そして秀吉、半兵衛などは岐阜常駐組で
名を読み上げられていった。
いわゆる天下布武の、
中枢を担う者達だ。
そして、秀政の名は呼ばれなかった。
佐久間や林と言った、
尾張常駐組、
織田の地盤を守る者達だ。
「芋、気にするな。おみゃーにはそっちが
似合っとるわ。功はわしらが稼いでやるでな」
「そ、そうだな。
愛知郡の郡代だから、当たり前だ」
そう強がってはみたものの、疎外感は半端なく、
やはり地味武将であるという実感を強く認識させられた。
そして、その後は論功行賞が続いた。
美濃攻めで功があったものが賞されていく。
秀吉も皆の前で感状をもらって、ご満悦だ。
俺には関係ない。
ただ、自身の地盤を作ることに奔走していただけだ。
戦の一つもしていない。
地味な働きだった。
論功行賞は空しく進む。
半分は聞いていなかった。
「おい、芋」
「ん?」
「おみゃー、呼ばれとるがな!」
「は!ここにおりまする」
信長は少し呆れながらに続けた。
「芋粥弥八郎秀政、この一年、
愛知郡郡代としての働き、
真にあっぱれである!」
(は?)
秀吉も驚きの顔で秀政を見つめている。
「ははぁ!勿体ないお言葉!」
「愛知郡の収入がこの一年で劇的に改善し、
それが今回の美濃攻めをよく支えた」
(収支はお悠がしっかり見直してくれたからな……)
お悠の笑顔がふと頭に浮かんだ。
(それに、あの代官どもが増やす努力もせずに、
ただ私腹を肥やしていただけだ。
譜代に回っていた分が俺に巡り、
それを義父殿が増やして、小遣いの余剰を
国庫に回したにすぎん)
「また、秀政の提案による街道整備により、
これも美濃攻めの兵站に大きく貢献した」
(あぁ、木曾が人の流れを分析して、
街道の重要性と最適なルートを見出した。
それを丹羽様に伝えたに過ぎない)
「そして、愛知郡の代官どもが他の郡の
代官へ、その手法を伝授したことにより、
美濃攻めの裏で、尾張全体が豊かになった」
(あぁ、丹羽様を手伝えと命じたことで
代官達が良く動いてくれたんだ……)
「これは、美濃攻めの功にも、劣らぬ」
秀吉は口を開いたまま、呆けている。
そして半兵衛は目を瞑ったまま、頷いていた。
「は、ははぁ!」
「よって、秀政を那古野城代に任命する」
(は?!)
「は!謹んでお受けいたします」
「秀政には従来の愛知郡に加え、
中島郡、海東郡の内政権を与える」
「お任せください!」
秀吉が悲しそうな顔で見つめてくる。
(じ、城代とはいえ、城持ちか!?)
そう言いたげな顔だ。
それを察してか信長が笑いながら続けた。
「猿、安心せぇ。
秀政はまだ足軽大将だ」
(え?)
「内政権は与えるが、
那古野城代の軍権は足軽大将格とする。
三郡の常備兵、徴収兵の軍権は
清州の番城代、佐久間らに任せる」
(なるほど……、信長典型の軍政分離か……)
「しかしだ……」
(ん?)
「愛知郡の常備兵一千だけは、
那古野城付属として、例外的に秀政に与える。
兵を扱ってみせよ」
「……は!ありがたき幸せ!」
「これにて論功は終わる」
今回は大きな反対は起きなかった。
柴田には戦勝の度に家臣にばらまくための
脇差を何十貫分も送り届けていた。
「鬼柴田から授けられた脇差であれば
家宝と思わぬ者など居りませぬ!
それこそが柴田軍を強くし、
しいては織田を強くします!」
この資金的援助と、露骨な持ち上げは、
柴田を気持ちよくさせていた。
懐柔され尽くした柴田、信頼を勝ち得た丹羽が
後ろ盾として、秀政の昇進を保証した点が大きい。
やることは今までと変わらないはずだ……。
那古野城代……まさかの城を預けられた。
しかも千兵の軍権。
信長の試験はまだ続く。
第二章 郡代編 終幕




