第十八話 川の主
清洲城。
評定の間。
地図が広げられている。
示されているのは、ただ一箇所。
墨俣。
説明は、もう要らなかった。
誰もが知っている。
だから――
誰も、口を開かない。
信長は、黙って座していた。
視線だけが、広間をなぞる。
その沈黙を破ったのは、
重い足音だった。
一歩。
「……殿」
秀吉が、前に出た。
「木下藤吉郎、申し上げます」
一斉に、視線が集まる。
「墨俣の件……
この藤吉郎に、お任せいただきとう存じます」
一瞬。
空気が止まり――
次の瞬間、ざわめきが爆ぜた。
「なに?」
「猿が?」
柴田勝家が、信じられぬという顔で秀吉を睨む。
「お前が出ると言ったか」
佐久間信盛が、鼻で笑った。
「足軽組頭が、
譜代でも果たせなかった役目に?」
佐々成政は、はっきりと不快感を隠さない。
「百姓出が、
どの面下げて名を挙げる」
秀吉は、動じなかった。
「譜代のやり方では、無理だった」
静かな声だった。
「だから――
違うやり方で、やります」
「違う、だと?」
柴田の声が低くなる。
「今は申せませぬ」
秀吉は、地図を見た。
「この猿と――」
隣で目立たないようにしていた
秀政を横目に見る。
「芋でしかできぬ方法でやり遂げます」
「……戯言を」
秀政が迷惑そうに秀吉を見た。
(俺をあまり表で巻き込まないで欲しい。
柴田も佐久間も俺からしたら
アイドル級のゲーム登場キャラだ。
……あまり嫌われたくないんだが)
「戯言かどうかは、
やらせてみて、ご判断ください」
一瞬、広間が静まり返る。
信長が、ゆっくりと口を開いた。
「猿」
「はっ」
「お前達が行けば――
必ず成る、と申すか」
秀吉は、一拍置いた。
「必ず、とは申しませぬ」
正直な言葉だった。
「だが――
今までと同じやり方では、やりませぬ」
信長は、しばらく秀吉を見ていた。
怒りも、笑みもない。
あるのは――値踏み。
「……よい」
短い一言。
譜代たちが、息を呑む。
「任せる、とは言わん」
信長は、はっきり言った。
「だが――
その“違うやり方”
形にしてみせよ」
秀吉の背筋に、熱が走る。
「出来ねば、そこで終いだ」
それだけだった。
「下がれ」
「ははっ!」
秀吉は、深く頭を下げた。
広間を出る背に、
冷たい視線が突き刺さる。
だが――
足取りは、軽かった。
(試される……
それで十分じゃ)
次に必要なのは、
言葉ではない。
川を支配する男。
蜂須賀小六だった。
*
蜂須賀小六は、癖の強い男だ。
川を知り、川を支配し、
川の機嫌ひとつで生き延びてきた男。
理屈で動く者を、何より嫌う。
だからこそ――
秀政は、自分が行かない方がよいと判断した。
秀政のような、
出自も能力もはっきりしすぎた男は、
小六にとって第一印象が悪すぎる。
それよりも。
純粋に上を目指し、
感情で懐に入り込める男――
秀吉を、一人で行かせる方が得策だった。
「秀吉」
出立の前、秀政は言った。
「人たらしは、お前以外に持たん。
それは、お前の最も優れた才能だ」
秀吉が怪訝そうに秀政を見つめる。
「お前のその才に任せるぞ。
俺は千種屋とお悠とで、
商家の力を完璧に仕上げる」
秀吉は、鼻で笑った。
「やけにわしを立てるな。
芋、お前、単に小六が怖いだけじゃろ?」
「まぁ、それもある」
秀政はあっさり認める。
「だから、任せた」
「……こういう所だけは素直じゃのう。
無理強い出来んくなるだろうが」
「いいから、はよ行け」
「何を偉っそうに」
秀吉は笑いながら、川へ向かった。
*
川沿いの、薄暗い小屋。
焚き火の前で、
蜂須賀小六は魚を焼いていた。
煙が立ち上り、
川並衆が無言で秀吉を囲む。
小六は、顔も上げずに言った。
「……で、何の用じゃ」
秀吉は、一礼する。
「木下藤吉郎。
命を賭ける役目を請けた」
川並衆を一通り見渡してから、
小六を見据える。
「そのために――
お前の力が要る」
小六は、鼻で笑った。
「命を賭ける、か」
魚をひっくり返しながら言う。
「軽い言葉だ。
川魚でも毎日、命を賭けて
釣り針に食らいついとる」
秀吉は即座に返す。
「馬鹿を言え。
わしと川魚では、命の重さが
川と海ほど違うわ」
秀吉は不敵に笑った。
「わしの命も、言葉も、全く軽くないぞ」
小六は、秀吉を値踏みするように見た。
「お前のことは、最近、よう聞く。
百姓上がりの猿だとな」
小六は秀吉を睨みつけた。
並みの胆力では耐えきれない圧だ。
「俺からしたら、
お前の命なんぞ川魚と変わらん」
挑発。
だが、秀吉は怒らない。
むしろ、にやりと笑った。
「確かに百姓上がりじゃ」
一歩、踏み出す。
「だが小六、よう目を凝らして見てみぃ。
わしは川魚でも、
いずれ龍になる神鯉ぞ」
その瞬間。
小六の目が、変わった。
「……龍か」
口の端が歪む。
「大きく出たな。
口では何とでも言える」
秀吉は、間を置かず言った。
「墨俣に、城を立てる」
小六は、鼻を鳴らす。
「あぁ。
織田が最近、執着しとる場所だな」
小六が一拍おいて続けた。
「無理じゃ。
あそこは川を知る俺らでも
諦めろとしか言えん」
「無理なもんか」
秀吉は、胸を張った。
「言うたろう。
わしは龍ぞ」
真顔で小六を睨みつけた。
「小六。
七日だけ従え!
わしは七日で、城を完成させる」
川並衆がざわつく。
「七日?」
「馬鹿か」
秀吉は、動じない。
「神術を使えば七日で建つ。
お前たちは七日働けばよい。
七日なら、斎藤の手勢に追われる前に退ける」
持ってきた手付金を、小六の目の間に置いた。
「金も、七日分は先に払う」
小六の表情が、完全に変わった。
秀吉は、畳みかける。
「何より――
その七日で、
わしの“神術”を拝めるぞ」
沈黙。
川の音だけが、流れる。
やがて――
「はーっはっは!」
小六が、大声で笑った。
「よかろう!
わしも一度、
この川の神鯉が
龍に化けるところを見たいと思っておった」
一歩、秀吉に近づく。
「それで、猿。
俺達は何をすればいい?」
秀吉は、はっきり答えた。
「川上に、材料を置いてある」
「それを七日の内に、
全て墨俣へ運んでほしい」
「運び終えたら――
お前たちは退け」
「それだけか?」
「あぁ。それだけじゃ。
川並衆に血は流させん」
小六は、しばらく秀吉を見つめ――
頷いた。
「よかろう。
引き受けた」
焚き火が、ぱちりと弾けた。
川は、まだ静かだ。
だが――
流れは、確実に動き始めていた。




