第十六話 遠い川辺
永禄九年、清洲城下。
春と秋の区別が曖昧になるほど、秀吉と秀政は忙しく働いていた。
兵糧や馬の手配に、使者の護衛、前線への小規模な援兵などだ。
大軍を率いることはない。
だが――必ず必要とされる仕事ばかりだった。
「芋、これで五度目じゃな」
秀吉が帳面を閉じながら言う。
「兵糧を遅れず届けさせたのは」
「あぁ、俺らにとってはもはや簡単な仕事だ。
しかも十分に付加価値をつけている。
そこは認めてもらいたいものだがな」
秀政は淡々と返した。
「おみゃーが嫁の家に金を流しこんどるのが
いかんのじゃなきゃー?」
「ん?べ、別に私情でやってるわけではないわ。
商家を育てるのは悪いことじゃない。
いずれ役に立つ。
そこは殿も黙認しているはずだ」
「惚れたもんの弱みよな。まぁ、ええ。
殿のためにやっとるってことにしておいてやる」
「いちいち癇に障る言い方だな。
まぁ、俺達は小さくとも、こうやって功を積むしかない」
「誉れにはならんが、足りぬよりは遥かにましか。
おみゃーの言うとおりじゃな」
二人はいつの間にか
“後始末役”のような位置に収まっていた。
派手な功こそなかったが、二人が関わった戦では兵糧も援兵も滞らず、戦が破綻することはなかった。
そうした実績だけが少しずつ積み上がっていく。
*
ある日、広間に地図が広げられた。
木曽川。
美濃との境。
「墨俣に城を打つ」
信長が言った瞬間、空気が変わった。
秀吉は広間の端の末席から譜代達の顔を見る。
「……あそこか」
「知っとるか?」
「知らん者はおらん」
「川中の出島じゃ。
守るにも送るにも、骨が折れる。
だが為せば功は第一等じゃ」
譜代達は口々に呟きあっていた。
そんな中、荒武者の一人が声を上げる。
柴田勝家だ。
「儂しかやれる者はおるまい!
殿、この柴田権六にお任せあれ」
黙って信長が頷く。
柴田は黙々と段取りを説明し、信長は承認した。
秀政は黙ってそれを聞いていた。
結果は知っている。
(補給線が細すぎる。
敵地のど真ん中、城を“持つ”前提が破綻している)
結論は簡単だった。
(長くは保たん)
柴田の策は何一つそれを解決していなかった。
*
案の定だった。
身を小さくして失敗を恥じる柴田の隣で、別の譜代、佐久間信盛が名乗りを上げる。
「殿、次はこの佐久間右衛門にお任せいただけますか?」
秀政は佐久間の策すら聞いてない。
佐久間も失敗する。
知っている。
城を築き、夜に壊され、引き下がる。
その報せを二人は城下で聞いた。
「……また落ちたそうじゃ」
秀吉がどこか他人事のように言う。
「当然だ」
秀政は即答した。
「やり方の問題ではない。
前提が間違っている」
「わしらに話が来ると思うか?」
「来ない」
迷いはなかった。
「百姓出と他国者じゃ。
譜代の顔を潰してまで使う理由がない」
秀吉はふっと笑った。
「小汚い百姓と胡散臭い侍大将騙りは、譜代から見たら異物そのものじゃからなぁ」
*
墨俣は遠い話だった。
二人にとってはただの「厄介な場所」。
狙う理由もない。
希望もない。
「今はやれることをやるだけじゃ」
秀吉が言った。
「兵を減らさず、文句を言われず、仕事を落とさん」
「それが一番、昇進しない働き方だな」
秀政が皮肉る。
「分かっとる」
秀吉は笑った。
「だが生き残る働き方でもある」
*
夜。
秀政は家で寝息を立てる娘たちを見ていた。
この三年半、お悠は二人産んだ。
お悠自身は世継ぎが得られず申し訳なさそうにしているが、秀政自身は娘が可愛くて仕方がない。
明。
蘭。
小さな手が布団から覗いている。
(無茶はせん)
悠、明、蘭を得た今、成り上がるためだけに命を投げるつもりはない。
それでも、自分なら成功させられると分かっている役目まで見過ごす気はなかった。
*
墨俣はまだ遠い。
二人にとっては冷めた目で眺めるだけの川辺だった。
この時は――
まだ。
*
清洲城。
評定の場に疲れが溜まり始めていた。
「……また、か」
誰かが低く呟く。
「墨俣は三度目だぞ」
地図の上、木曽川の中洲が指で叩かれる。
「築いては壊され、壊されては退く。
兵と銭だけ減って何も残らん」
「誰が行っても同じだ。
あそこは――無理だ」
苛立ちが言葉の端々に滲んでいた。
柴田が腕を組んだまま吐き捨てる。
「城を築く前に補給が切れる。
守る前に囲まれる」
「それでも殿はお望みだ」
佐久間が苦々しく言った。
「美濃へ踏み込むための足場をな」
沈黙。
誰も名を出さない。
*
その日の昼。
城下の詰所で、秀吉と秀政はいつもの仕事をしていた。
兵糧の引き渡し。
次の前線への手配。
「……墨俣、また失敗したそうじゃ」
秀吉が帳面を閉じながら言った。
「聞いた」
秀政は短く返す。
「今度は誰が行った?」
「佐々殿の配下じゃな。
夜明け前に跡形もなくなったと」
秀政は少しだけ目を伏せた。
(無理をさせたな)
だが口には出さない。
「次は?」
秀吉が聞く。
「誰も行かんだろう」
秀政は即答した。
「行けば失敗。
失敗すれば名を汚す。
成功しても報われるかは分からん」
「譜代ほど手を出せん役目じゃな」
「だから誰も手を挙げん」
*
評定。
再び墨俣の名が出る。
だが――
「今は別の策を」
「兵を休ませるべきかと」
「時を見た方が……」
誰も「行く」とは言わない。
信長は黙ってそれを聞いていた。
何も言わない。
怒りもしない。
ただ――
視線だけが場をなぞる。
その視線が評定の隅に座る二人を一瞬掠めた。
秀政はそれに気づいた。
(……見ている)
だが何も言われない。
この日はそれで終わった。
*
夕刻。
城下の道。
「なぁ、芋」
秀吉が歩きながら言った。
「墨俣の話、どう思う?」
「……どう、とは」
「やれそうか、やれんか、じゃ」
秀政は少し考えた。
(やり方はある)
川。
中洲。
敵地。
無理に「城を築く」から破綻する。
“城として使えるものを短時間で置く”なら――
(段取り次第だ)
それを口にすれば、秀吉が次に何を言うかも分かっていた。
(命を賭けられるか)
秀政は口を閉じたまま、ただ前を見た。
秀吉はしばらく黙っていたが――
やがてぽつりと言った。
「わしは……
やってみたい」
秀政は足を止めた。そこへ目を輝かせた秀吉が問いかけた。
「芋、できるか?」
秀政は秀吉を見た。
この男はやり方を聞いてから動くのではない。
やると決めてから、やり方を作る男だ。
秀政は静かに頷いた。
「……できる」
それだけだった。
秀吉は少しだけ笑った。
「そうか」
(やり方は知っている)
秀政は心の中で思う。
(だが、それを“本当にうまく段取れるか”だ。
これはただ功を立てる役目ではない。
命を賭ける役目だ)
だが――
それを口にすることはなかった。
二人は何も言わずに歩き出す。
墨俣はまだ遠い。
だが――
川辺は確実に近づいていた。




