第十五話 名を残すも、功足らず
坂祝砦。
安藤弥三郎が討たれてから、数日が過ぎた。
秀吉は代理卒長として砦の中央に立ち、
秀政はその傍らで陣を支えていた。
夜襲の後――
敵は、静かになった。
だが、それは引いたのではない。
昼に来ると分かっていた。
*
初日の昼。
川向こうの林が、ざわついた。
「来るぞ!」
声が上がる。
敵兵は、百に満たない。
だが、まとまって動いている。
「矢、三列!
引き付けてから撃て!」
秀吉の声が飛ぶ。
矢が放たれ、
敵の先頭が崩れる。
それでも、敵は引かない。
「槍、出すな!
土塁から落とせ!」
秀政が叫ぶ。
石。
槍尻。
盾ごと突き落とされる敵。
昼攻めは、二刻ほどで終わった。
*
二日目。
今度は、場所を変えてきた。
「南だ!」
「いや、陽動だ!
本命は東だ!」
秀政が即断する。
伍長が迷わず動く。
敵は突破できず、引いた。
*
三日目。
また来た。
数は少ない。
だが、執拗だ。
「……しつこいの」
年配の伍長が、唾を吐く。
「敵も焦っておる。
まともに考えれば、
この砦は疲弊しきっているはずだ」
秀吉が言った。
「だが、力攻めで落とせん。
安藤の頃よりもまとまっておるからな。
焦りもする」
この日も、砦は持ちこたえた。
*
四日目。
敵は来なかった。
「……今日は来んか」
「来んのではない。
様子を見とる」
秀政は、そう答えた。
砦の中では、
兵が自然と自分の持ち場に就いていた。
命じなくても、だ。
(……これが“守れる陣”か)
秀政は、そう思った。
*
五日目の朝。
土煙が、遠くに立った。
「……味方だ」
猿啄城からの援軍だった。
新たに差し向けられた足軽大将が、
正式な卒長として砦に入る。
兵の数は、十分。
兵糧もある。
明らかに、体制の立て直しだった。
秀吉は、前に出る。
「坂祝砦、これより引き継ぐ」
敵の動き。
攻めてきた時刻。
攻め口。
すべて、簡潔に伝えた。
新たな卒長は、何度も頷いた。
「よく、持たせたな」
その一言に、
秀吉は小さく頭を下げた。
*
そして――
信長の命が届く。
「木下藤吉郎、芋粥弥八郎。
清洲へ戻れ」
二人は、撤収の準備を始めた。
伍長たちが、集まってくる。
「……もう行かれるのですか」
若い伍長が、名残惜しそうに言った。
「殿の命じゃ」
秀吉は答える。
「ここは、もう任せられる」
年配の伍長が、深く頭を下げた。
「……あんた達がおる間、
敵は一度も土塁を越えられんかった」
秀政は、静かに言う。
「それは、お前達が踏ん張ったからだ」
*
砦を背にする。
秀吉が、ぽつりと漏らした。
「……この後、どうなると思う?」
秀政は、少し間を置いて答えた。
「落ちるやもしれん」
即答だった。
「あの状態で持ちこたえたのは上々よ。
それは、秀吉、
お前がよぉ動いたからだ。
新しい大将も聞いたことがない。
小者かもしれん」
秀吉は、苦笑した。
「やけにわしを買っておるの、芋」
――数日後。
坂祝砦は、落ちた。
後任の卒長では、
敵の昼攻めを、三度耐えられなかったという。
だがそれを、
今の二人は、まだ知らない。
*
清洲城。
戻った二人は、そのまま登城を命じられた。
広間には、すでに信長がいた。
「……猿、芋」
低く、よく通る声。
二人は、揃って平伏する。
「坂祝砦の件、子細は聞いている」
秀吉の喉が鳴った。
「猿と芋は――」
信長は、はっきりと言った。
「足軽大将の器は、すでに備えておるな」
一瞬。
秀吉の顔が、ぱっと明るくなる。
「と、殿……!」
胸を張りかけた、その瞬間だった。
「だが」
信長の声が、冷える。
「今、足軽大将にしてやることはできん」
秀吉の表情が、固まった。
「……なぜ、でございましょうか」
信長は、淡々と続ける。
「お前達から引き継いだ三日後、
坂祝砦は落ちた」
二人の肩が、わずかに揺れた。
「後の卒長では、
こらえきれんかったようだ」
「……」
「お前達の働きは認める。
あの夜、砦が持ったのは、
お前達が“将として立った”からだ」
秀政は、歯を食いしばった。
「だがな」
信長は、二人を見下ろす。
「砦は落ちた」
一呼吸おいて続ける。
「守り切れなかった砦の手柄話で、
お前達を昇進させれば、角が立つ」
秀吉は、拳を握り締めた。
「功が足りぬ、ということですか」
「そうだ」
即答だった。
「今一つ、大功を立てよ」
秀吉は真剣な眼差しで畳を見つめている。
「それも――
誰の目にも分かる功をだ」
信長は、背を向けた。
「下がれ」
「……はっ」
広間を出る。
秀吉は、しばらく無言だった。
*
城下。
歩きながら、秀吉がぽつりと漏らした。
「……悔しいの」
秀政は、静かに答える。
「当然だ」
「わしらなら、もっと持たせられた」
「だが、それは“結果”になっておらん。
俺らが足軽組頭だからだ」
秀政が秀吉の目を見た。
「もし足軽大将であれば、あの場で功を為せた」
秀吉は、唇を噛んだ。
「結果か……」
秀政が悟り切った表情で秀吉に告げる。
「成り上がるためには、結果しか見られん。
仮にも殿が俺達の過程と将器を
見出してくださったとしてもだ。
頭の固い連中は結果がなければ反対する」
「柴田様や佐々殿か?」
秀吉が呟いた。
「うーむ、功を立てるしかないのう!」
*
その夜。
秀吉は、自分の家へ戻った。
おねが、すぐに気づく。
「……何かあったの?」
「少しな」
秀吉は、座り込んだ。
「褒められたが、昇進はお預けじゃ」
おねは、何も言わずに茶を置いた。
「悔しい?」
「当たり前じゃ」
「なら、ええ」
おねは、にっこりと笑った。
「悔しいってことは、
まだ上を見とる証拠じゃ」
秀吉は、顔を上げた。
「悔しくなくなったら、
それで終いよ」
その言葉に、秀吉は小さく笑った。
「……おね、お前は恐ろしい女じゃ」
「今さら?」
*
一方。
秀政の家。
お悠は、玄関で待っていた。
「……お帰りなさいませ」
「ただいま」
秀政は、鎧を下ろした。
「昇進は?」
「見送りだ」
お悠は、一瞬だけ目を伏せ――
そして、穏やかに言った。
「当然だと思います」
秀政が、目を瞬かせる。
「理由を聞いても?」
「“守れた”ではなく、
“名を残した”だけに見えるからです」
秀政は、息を吐いた。
「厳しいな」
「ですが」
お悠は、はっきり言った。
「弥八様が将として立ったから、
あの五日があった――それは、事実です」
秀政は、黙って頷いた。
「次は?」
「次は――」
秀政は、遠くを見る。
「誰が見ても、
守り切ったと言わせる」
お悠は、微笑んだ。
「では、その時は」
「?」
「昇進祝いを考えておきます」
秀政は、思わず笑った。
*
「何はともあれ、
無事にご帰還いただけただけでも
嬉しゅうございます」
おねとお悠が、別の場所、同じ時に、
口を揃えて言った。
その夜。
二人は、それぞれの家で思った。
まだ足りない。
だが――
確実に、将へ近づいている。
次に必要なのは、
言い訳の効かない“勝ち”だけだった。




