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新武将・芋粥秀政  作者: 得生
第九章 伊勢太守編(伊賀・大和攻略編)

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第百三十一話 松丸

天正三年四月末。


春とはいえ、

鈴鹿の山から吹き下ろす風はまだ冷たく、

屋敷の畳にもひやりとした気が満ちていた。


その日、秀政は珍しく寝所に伏せっていた。


昨夜から熱が下がらず、

薬を飲んで横になっている。

額には汗が滲み、息もどこか荒い。


「弥八様……本当に大丈夫ですか?」


お悠が心配そうに覗き込む。


「大丈夫だ。少し休めば治る」


そう答えはしたものの、

声は掠れていた。


お悠はなおも気にかける様子だったが、

やがて帳簿を抱えて立ち上がった。


「申し訳ありませぬ。

 ……では、勘定場へ行って参ります。


 何かあれば明か耀を使いにしてお知らせください」


「うむ……頼む」


お悠が去ると、

屋敷は一気に静かになった。


秀政は天井を見上げ、

ぼんやりと息を吐く。


(久しぶりに昼間に家にいるな……。

 皆が働いているのに、申し訳ないものだ)


しばらくそうしていたが、ふと気づいた。


(……松丸の声が聞こえん)


いつもなら、庭で木刀を振る音か、

どこかではしゃぐ声が聞こえてくるはずだった。


(顔でも見れば、

 少しは元気が出るかもしれんな。


 風邪をうつすわけにはいかんが……

 子の笑顔は、案外よく効く薬だ)


そう思うと、秀政は布団から這い出した。


足元はふらついていたが、

壁に手をつきながら、

ゆっくり奥の間へ向かう。



奥の間の前で、秀政は足を止めた。


襖の隙間から、中の様子が見えたからだ。


「ん……?」


そこにいたのは、

見知らぬ僧と向かい合って座る松丸だった。


松丸は小さな背筋をぴんと伸ばし、

筆を手にしている。


僧――安濃院玄道和尚が、

静かな声で語っていた。


「“仁”とは、人を思いやる心。

 “義”とは、正しき道を行うこと。

 松丸様、申してごらんなされ」


「じん……ぎ、でございまする」


幼い声ではあったが、

顔つきは真剣そのものだった。


机の上には、ひらがな、初歩の漢字、

武家の家訓、書状の文例が整然と並べられている。


秀政は、襖の陰からそっと覗き込んだ。


(……集中力が途切れん。

 六つでこれか……)


その時、玄道和尚がふと気づいたように顔を上げ、

秀政の方へ視線を向けた。


秀政は手で「続けてくれ」と合図する。

和尚は一つ頷き、再び松丸に向き直った。

松丸は一度も姿勢を崩さない。


授業はそのまま一刻ほど続いた。


松丸は疲れを見せず、

声を出し、筆を走らせ、

言われたことをその場で覚えていく。


やがて休憩の時刻となり、

松丸はぺこりと頭を下げて退出していった。


それを見届けてから、

秀政はようやく姿を現した。


「……おぬしが、松丸の師か」


玄道和尚は深く頭を下げた。


「安濃院玄道にございます。


 比叡山にて学問と兵法を学び、

 のち南都でも修行を積みました。


 千種政成殿よりお声をかけていただきまして」


秀政は思わず息を呑んだ。


(比叡山に南都……。


 雪斎和尚ほどとは言わずとも、

 相当の識者だぞ)


玄道和尚は穏やかに続けた。


「松丸様は聡明にございます。


 学ぶことを苦とせず、覚えも早い。

 将来、必ずや名君となられましょう」


秀政は深く頷いた。


「……松丸の教育だけでなく、

 芋粥家の軍師としても力を貸してくれぬか。

 末永く、この家に仕えてほしい」


玄道和尚は静かに微笑んだ。


「秀政様の治世と志は、

 政成殿よりかねがね聞き及んでおります。


 この玄道、喜んでお仕えいたします」


秀政は胸の奥が熱くなるのを感じた。


(松丸……良い師を得たな)


そこで、ぐらりと視界が揺れた。


熱のせいだと分かる。


「……いかがなされました」


「いや、少し熱がな。

 だが、気にするな」


そう言って部屋を出る。



寝所へ戻ろうとしたその時、

別の部屋から松丸の声が聞こえてきた。


「はい、こうでございまするか?」


「そう、扇は胸の前で開きすぎませぬように」


秀政が覗くと、

今度は京風の女房が松丸に礼法を教えていた。


名は藤波。


三条家の分家筋にあたる礼法師範で、

これもまた政成が京から呼び寄せた人物らしい。


教えているのは、

公家と武家の礼法の違いから始まり、

座り方、立ち方、食事作法、言葉遣い、

使者の迎え方、贈答の作法にまで及んでいた。


松丸は真剣な顔で扇を持ち、

藤波がその手元にそっと手を添える。


「松丸様。

 将来は国を背負われるお方。

 礼は、武より先に人の心を動かします」


「はい!」


元気な返事が返る。


秀政は遠くからそれを見守った。


(……芋粥家が名門になるには、礼法も要る。

 政成に守役を任せたのは、やはり正解だったな)


その時、鼻水が垂れそうになり、袖で拭う。


(まずい。寒気が増してきた……)



よろよろと寝所へ戻ろうとしたが、

また別の部屋へ向かう松丸の姿が見えた。


秀政は半ば呆れ、

半ば感心しながら、

その後を追う。


次の部屋では、

政成が松丸の前に座っていた。


「松丸様。

 家臣とは、“使う者”ではございませぬ。

 “支える者”にございます」


「はい」


「民政とは、民の声を聞くこと。

 領地とは、地図ではなく、

 人の暮らしを見ることにございます」


松丸は真剣に頷いた。


政成はさらに続ける。


「家を守るとは、力ではなく“信”にございます。

 武士の責務とは、民を飢えさせぬこと。


 商人の利を見る目もまた、

 武家には要るのです」


秀政は壁に手をつきながら、

その声を聞いていた。


(松丸は努力家だな……。

 文句一つ言わず、よく学んでおる)


少し笑う。


(これは……お悠の血か?

 俺では無理だ)


だが、その直後に強い寒気が走った。



(……まずい。今度こそ寝ねば)


政成の授業が終わり、

秀政はようやく寝所へ戻ろうとした。


だが、また別の声が飛び込んでくる。


「松丸! ここはこう計算するのです!」


明の声だった。


部屋を覗くと、

今度は明が算盤を弾き、

その前で松丸が真剣な顔をしていた。


「一石の年貢がこれだけで……

 はい、松丸。暗算で申してみなさい」


「姉様。えっと……三百と五十!」


「正解です!」


明が満足げに頷き、

松丸も嬉しそうに笑う。


(……これもお悠の血か)


秀政はふらつきながらも、

思わず微笑んだ。



(だめだ。寒気が止まらん。

 熱がかなり上がってきたな)


寝所へ向かう廊下で、

ふと庭先が目に入った。


いつの間にか松丸が木刀を握り、

素振りをしている。


その傍には村瀬新九郎がいた。


木刀の音が庭に響く。


「そこだ、松丸様!

足の運びを忘れるな!」


村瀬が木刀を構え、

松丸が汗だくで向かっていく。


「はぁ……はぁ……!」


「よし、その気迫だ!」


松丸は幼いながらも、

真剣そのものだった。


秀政は柱に寄りかかりながら、

その様子を見つめた。


(文も、礼も、政も、算も、武もか……)


熱に浮かされた頭で、

それでも誇らしく思う。


(松丸……将来が楽しみだ)


「ほれほれ、明日はやっとの休養日だぞ!


 わしから一本取れたら、

 釣りに連れて行ってやるぞ。


 行きたがっておったであろう?


 わしはな、

 入れ食いの穴場を発見済みじゃ」


「はぁ!」


鋭い突き、村瀬は軽く避けるが敢えて尻に当てる。


「おわ!

 お見事、一本取られたわ!」


松丸がムッとする。


「村瀬、わざとらしい」


「……折角釣りに連れて行ってやろうと思うて、

 気を利かせてやったのに可愛げがないのう」


「気を利かさずとも一本とる!」


「ふははは、良い良い!

 その意気に免じて、明日は穴場を教えてやるぞ!」


「え!村瀬、約束じゃぞ!」


「武士に二言はない、ふははは。

 たくさん釣って、奥方を驚かせてやろうぞ!」


「おう!」


(どうやら土日のような日も決めているようだな。

 定休日の先取りか。


 さすが義父殿)


秀政は微笑む。


(そうだな……松丸はまだ六つだ。


 学ぶことも大切だが、

 子供らしく遊ぶことも同じくらい大切だ。


 義父殿はそれを分かっている。


 これらの学問は、全ては"生きる力"を育てるため。


 だが、その前にまず"生きる喜び"を知らねばならん。


 釣りも、遊びも、笑うことも。

 それがあって初めて、学びが活きる


 あ、あぁ、休まねばならんのは俺のほうだ。

 ね、寝よう)


視界がまた揺れた。


膝が笑う。


(……もうだめだ)


ようやく寝所へ戻った秀政は、

そのまま布団へ倒れ込んだ。


そして1日の無理が祟り、

二日ほど寝込むことになるのだった。


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― 新着の感想 ―
「将来、必ずや名君となられましょう」 スペアの教育にしては… 親織田の養子嫡男派閥、親宗教(反織田)の芋粥長男派閥、北畠公家と結び付いた甲賀千種屋派閥。 本人たちの望みや、結果として家が割れるかもとも…
いや、戦国に寝込んでこじらせたらまずいやろ。うちの親父、釣りじゃないが、厳冬期に漁師から魚が大漁、分け前やるから手伝ってに深夜2時出航。風邪治りかけで冷たい海水浴びながら、汗だく作業。はい、悪化!肺炎…
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