第百三十話 絶対を信じず
岐阜城。
冬の空気は澄み、
城下の喧騒もどこか遠くに感じられる。
その静けさの中、秀政は信長の前に座していた。
「北畠、滅びました」
短く告げる。
信長は、ただ一度だけ頷いた。
「……うむ」
それだけだった。
興味は、すでに先へ移っている。
秀政は続ける。
「一つ、ご報告がございます」
信長の視線が向く。
「申せ」
「我が義弟、千種政親が北畠の姫を娶ります」
わずかに間を置く。
「北畠の名跡を継がせ、
伊勢の安定に用いる所存」
信長は眉一つ動かさない。
「……よかろう」
あっさりとしたものだった。
どこか上の空で、それどころではないという雰囲気も見える。
あるいは単純に北畠に興味を失っただけか。
北畠という家そのものには、もはや価値はない。
だが、名は使える。
それだけの話だ。
(北畠そのものには、もはや興味はない……か)
秀政は内心でそう見た。
「次に、伊賀の件にございます」
「ん?」
わずかに声が変わる。
伊賀。
織田にとって将来邪魔になる。
扱いの困る土地だった。
秀政は淡々と語る。
「伊賀は従属させます。
だが、織田・芋粥の代官は置きませぬ」
信長の目が、わずかに細くなる。
「ほう?」
「完全自治といたします」
一拍も置かず続けた。
「年貢も取りませぬ」
空気がわずかに張る。
信長が、何か言いかける。
だが秀政は止まらない。
「そして、伊賀の安全は芋粥が保証いたします。
外敵があれば、芋粥が兵を出して守る――
織田の保護国とします」
信長の目を見つめた。
「その代わり――」
少し声に力を込めた。
「伊賀の忍び働きは、
織田家やその友好国が独占いたします」
信長の指が、わずかに膝を叩いた。
「……続けよ」
「さらに、
伊賀道、甲賀道は芋粥が管理いたします。
これにより、織田・芋粥は――
軍の通行、情報の流れ、すべて掌握可能」
秀政は言い切る。
「形は従属。
実は同盟にございます」
沈黙が落ちた。
信長は何も言わない。
ただ考えている。
伊賀は痩せた地だ。
米も少ない。
だが――
忍びと道。
そこに価値がある。
(年貢を取らぬ、だと?)
一瞬、引っかかる。
だがすぐに思考を切り替える。
(……いや)
忍び働きを押さえる。
道を押さえる。
それで十分だ。
それ以上は不要。
信長はゆっくりと口を開いた。
「よかろう」
短く。
「伊賀の価値は――」
一拍。
「忍びと道に過ぎん。それでよい」
視線が秀政に刺さる。
「任せる」
「は」
「伊賀調略に当たります」
少し沈黙が流れる。
(そういえば……来月は長篠のはずだ。
だが、武田がまるで動かぬ。
静かすぎる……)
秀政は口を開いた。
「殿、武田の様子はいかがでしょうか。
そろそろ、再び徳川殿のご領地へ出ては参りませぬか?」
信長は書付から目を離さず答えた。
「武田か。
お前が赤備えを討ち取り、
しばらく奴らは静かなものだった。
だが、今は左近と対峙しておる。
その余裕はあるまい」
「左様ですか。
滝川殿に負けておられませんな」
「励め」
「は!」
信長はそれ以上語らない。
(……おいおい。
長篠の合戦が起きないのか?
武田は力を保ったまま、織田と当たるか?
滝川殿も気の毒に……)
*
鈴鹿。
戻った秀政は、すぐに政成を呼んだ。
「桑名と長島はどうだ?」
政成が書付を差し出す。
「復興はほぼ完了しております。
治水も完了し、新しい肥料、
二毛作も広まり、収穫は安定」
政成はわずかに笑みを浮かべた。
「二万石ほどの上乗せにございます」
秀政は小さく頷いた。
「……順調だな」
(やはり、回り始めると早い)
「政親は優秀な奴だな。
鈴鹿も負けておれん。
引き続き頼むぞ」
政成は静かに頭を下げる。
*
「浅野を呼べ」
やがて浅野が入る。
「お呼びですか?」
「あぁ清隆、一つお前に相談がある」
浅野の目がわずかに動く。
「お前の次女、綾芽――
鷺山にやれぬか」
意外な名に、
浅野は一瞬だけ言葉を失った。
だがすぐに整える。
「……鷺山殿、にございますか」
秀政は頷く。
「今回の北畠攻め、見事であった。
あいつのことは買っている。
身を固めてやりたい」
浅野は短く考えた。
(武功は十分。将としても申し分ない。
……そして殿が言う以上、裏がある)
「……よろしいかと」
「娘も、鷺山殿であれば納得いたしましょう」
秀政が頷く。
(これで良い。
鷺山は優秀だが、政親に近づけすぎると危うい。
浅野派に組み入れれば、清隆によって暴走は抑えられる)
「お前の娘と夫婦になれば、
あいつの格も上がる」
秀政が続ける。
「鷺山を桑名城主にする」
浅野の眉がわずかに動く。
「……桑名に」
娘が城主の妻となる。
それ自体は良い。
だが――
「一つ、お伺いしてもよろしいか」
「何だ?」
「政親殿は、いかがなさいますか?」
核心だった。
秀政は即答する。
「あいつは次の場所だ」
南を向き、落ち着いて伝える。
「大河内へ」
浅野は理解した。
(北畠旧領。
……なるほど)
秀政は続ける。
「北畠の血を取り込んだ以上、
あいつがまさに適任。
南伊勢の再開発も必要だ」
そして、内心。
(それに――
政親と鷺山は近づけない。
また桑名に長く置けば、
政親が根を張る)
「問題はあるか?」
「……ございませぬ」
浅野は深く頭を下げた。
「清隆、俺はお前を信頼している」
「恐れ入ります」
「ゆえにもう一歩踏み込んだ話をする。
政親には軍権は与えぬ。
あいつは大河内城代だが、
兵五百は政親ではなく、
加治田を軍奉行として送り込もうと考えている」
「婿殿を?」
「そうだ。
そこで改めて聞く。
もし仮にだ。政親が芋粥の家督問題で、
松丸のために強硬して兵を挙げた場合はどうだ?
北畠の血と大河内という土地柄で……」
「兵、二千から三千は集まりまする」
「やはりそうか。
その場合、加治田は問題あるか?」
「問題ありませぬ。
あの者は実直。戦はやりますが、
政治は引いております。
決して寝返らず、大河内に籠り、
ひと月は耐えましょう」
「では政親の三千を、
お前は鎮められるか?」
「はい、容易に。
北畠の国人衆の三千など所詮烏合の衆。
……恐れるにたりませぬ」
秀政が少し気を抜いて続けた。
「そうか、それを聞いて安心した。
政親を大河内に入れる。
あいつに南伊勢の復興を任せる」
「……殿は政親殿をそこまで疑っておいでか?」
少しだけ眉を上げ、答えを返す。
「いや、まったく疑っておらん。
あいつは芋粥に弓は引かん。
ただの仮の想定だ」
(そう願っている……)
「左様ですか」
「だが、大名たる者、“絶対”を信じず、
警戒すべきものだ。
清隆、引き続き警戒を続けよ」
「承知いたしました」
*
「鷺山を呼べ」
やがて、鷺山が現れる。
「殿、お呼びで?」
秀政はまっすぐ見た。
「あぁ、此度の北畠征伐、見事であった」
「ありがとうございます。
さらに武功を挙げてみせますぞ!」
「おう、期待している」
一拍おいて、真面目な顔で告げる。
「鷺山軍団を桑名に入れる。
お前を桑名城主に任ずる」
鷺山の目が鋭くなる。
「……は」
「それと」
ゆっくりと鷺山を見つめる。
「浅野の娘を娶れ」
一瞬の驚きと沈黙。
だが、鷺山はすぐに頭を下げた。
「承知いたしました。
浅野殿のご息女との縁組であれば、
願ってもありませぬ」
迷いはない。
秀政は満足げに頷く。
「清隆、良いな?」
「は」
「こいつを婿として鍛えてやれ」
短く言う。
「次代の芋粥を支える男にしろ」
浅野が静かに応じる。
「承知いたしました」
鷺山は何も言わない。
ただ、わずかに口元が上がっていた。
*
秀政は一人、地図を見る。
志摩は落ちた。
北畠も終わった。
次は――
伊賀。
「さて」
小さく呟く。
「どう料理するか」
静かに、戦は次へ移っていった。




