第百九話 勝ち戦の影
秀政は、急ぎ白子水軍の元へ向かった。
戦はすでに終わっている。
伊勢湾には九鬼水軍の大船が並び、
長島の舟は一隻も残っていなかった。
だが秀政の顔は暗い。
井口が死んだ。
その知らせだけが、
頭の中で何度も繰り返されていた。
*
浜辺に着くと、
白子潮勝が出迎えた。
顔色が悪い。
深く頭を下げる。
「殿……申し訳ございませぬ」
秀政は首を振った。
「まずは話を聞かせてくれ」
潮勝は唇を噛み、語り始める。
「井口様は……
ご子息、新右衛門様を救いに向かわれました」
秀政は黙って聞く。
「井口様は作戦を優先し、
他の船は伊勢湾へ退かせました」
潮勝の拳が震える。
「……その結果、
井口様を見殺しにする形になってしまいました」
声が掠れる。
「あの時、我らも残って護衛しておれば……。
あるいは、わしがもう少し早く駆けつけておれば」
秀政はゆっくり首を振る。
「いや、お前は最善を尽くした。
それに……」
短く言う。
「井口は、そうする男だ」
秀政は海を見た。
「だが……」
静かに続ける。
「井口が浅瀬にはまるとは思えん。
航路は熟知していたはずだ」
潮勝も頷く。
「私も……そう思います」
そこへ、松親が駆け付けた。
急ぎ足で近づく。
「義兄上!」
息を切らしている。
「井口殿が討たれたと聞きました」
顔を歪める。
「まさか……そんなことが」
秀政は低く言った。
「浅瀬にはまったそうだ」
松親が眉を寄せる。
「井口殿に限って、そのような失敗を……」
そう言いながらも、
声は不思議と落ち着いていた。
少し考えるように目を伏せる。
「もしや……
干潮と重なっていたのではありませんか?」
秀政が顔を上げる。
「干潮?」
松親は続けた。
「はい、新右衛門殿の兵も関船に乗せたと聞きました。
過重量で喫水が深くなり、そこへ干潮が重なれば……」
潮勝が頷く。
「……それならば、あり得るかもしれませぬ」
秀政は目を閉じた。
「そうか……」
ゆっくり息を吐く。
「そんな不運が重なったか」
(俺も戦場を駆け抜ける内に、
物事の違和感には気づけるようになった。
この……井口の死には違和感がある。
なんだ、一体)
松親が周囲を見回す。
「それに……弥九郎も見当たりませぬ」
秀政が振り向く。
「弥九郎も?」
「はい」
松親は言う。
「井口殿の傍で、水中からの援護を命じておりました」
一瞬、言葉を切る。
「もしや……関船が襲われた際、助けに入り、
巻き込まれたのかもしれませぬ」
秀政の顔が沈む。
「弥九郎までもか……」
小さく呟いた。
松親は、少し躊躇うように言った。
「……ところで、井口殿の御遺体は?」
秀政も白子の方を見た。
松親は続けた。
「私が井口殿に水軍を任せたことで、こんなことに……」
声を落とす。
「本来なら、私が死んでいたかもしれませぬ。
井口殿に押し付けてしまったようで……」
深く頭を下げた。
「せめて厚くご供養をしたいのですが」
潮勝が答えた。
「関船は激しく燃え、そのまま流されました」
一瞬、言葉を選ぶ。
「ご遺体も……おそらく、ご一緒に。
この辺りは敵味方の船の残骸が散乱しており、
探すのも困難です」
松親は静かに目を閉じた。
「……そうですか」
小さく息を吐く。
「それは残念でなりません」
松親は心の中で呟く。
(上々だ、鈎爪の証拠も炎と水の流れが、
全て隠しきってくれる……)
*
秀政は拳を握った。
「井口……」
声が震える。
「このような勝ち戦で…なぜだ」
潮風が吹く。
秀政の胸にある、
わずかな違和感が消えない。
(井口は――
あの男は、
こんな失敗をするような男ではない。
何かあったのではないか?
だが……分からん)
秀政は首を振った。
「……生き残りはおらんのか?」
潮勝が静かに答える。
「井口様は慕われておりました。
兵は皆、井口様と最後まで戦ったようです」
少し俯く。
「誰も……助かりませんでした」
秀政は目を閉じた。
「そうか」
やはり胸の奥で何かが引っかかる。
だが――
今、これ以上考えても、
どうしようもない。
秀政は海を見た。
(井口……。
安らかに眠れ。
この芋粥と万丸を、
極楽から守ってくれ)
波が静かに打ち寄せていた。
*
秀政は白子水軍の元から、
芋粥本陣に向かって歩いていた。
「結局長島の撫で斬りが起きてしまったか……」
火に焼かれる願証寺を見つめた。
そんな時、急に声がかかった。
「芋!」
振り向くと懐かしい顔がある。
秀吉だ。
「おぉ、秀吉、久しいな。
達者か?」
「達者も何もわしは昇り龍ぞ。
暴れまくっとるわい」
秀政の顔に笑みが浮かぶ。
「そのようだな」
秀吉もにやりと笑って続けた。
「芋、お前も昇っとるのぉ。
武田の赤備えを打ちのめしたとな?」
「あぁ、偶然のことだ。
次は勝てん」
「いや、例えそうだとしてもじゃ。
お前が武田を追い返したことで、
織田は一気に力を増したぞ。
いやいや、
わしら近江勢の活躍もあったからじゃな。
おみゃーの活躍だけじゃねぇ。
とにかく長島もけりが付いた」
「そうだな」
「おい、耳を貸せ」
言うが早いか、耳元に顔を寄せて囁いた。
「芋、殿から聞いたんだが。
この長島の論功行賞の場でな。
わしは家老格になるぞ」
驚いた秀政は秀吉を引き離して、肩を叩いて喜んだ。
「そうか!お前ならそうなるだろう。
目出度いな!」
「お、おぉ、喜んでくれるか」
そういうと再び顔を耳元に寄せ呟く。
「それだけじゃないぞ。
まずは若狭・丹後・但馬の押さえを任されるらしい。
その後は――
中国攻めの総大将よ。
切り取り次第でますます功を挙げるぞ」
(なに?!もう中国攻め?!
そういえばそうだった。
最近知った。
俺が長島で忙しく、
周りの状況の確認を怠っていたが、
いつの間にか浅井も朝倉も滅んでいた。
歴史が早まっている。
歴史改変が激しすぎる。
既に秀吉は次の敵に向かっている。
これじゃ、織田が強くなりすぎだ。
それにしても若狭・丹後・但馬か。
こいつなら二年から三年あれば、
成し遂げる。
そこから播磨へ入るか……。
ここでも前倒しが起きるな。
また歴史が変わった……)
「お前もか……」
秀政が呟いた。
「ん? お前“も”?
ということは、芋、お前もか?」
「あ、あぁ。
俺も似たようなことは殿より聞いた」
秀吉は笑いながら、少し残念そうな顔をした。
「そうかぁ。
お前をわしの参謀として、
殿から頂こうと思ったんだがな。
まぁ、わしが殿でもお前ほどの者を、
遊ばせておく気はないわな。
そうなるとわしと功争いか。
それはそれで面白いな」
「あ、あぁ。お前に貰わなくても、
俺は殿から百二十万石もらえるやもしれんぞ」
「やけに大きく出たな。
よし、勝負じゃ!
ふははは。
お互い、どこまでも昇りつめようぞ」
「あぁ」
そういうと忙しそうに、秀吉は去っていった。
井口のことで沈んでいた気持ちも、少しだけ上向いた。
(長島の論功行賞か。
数か月後だな)




