第百話 武田の敗北
本丸。
火は、走った。
一瞬で。
櫓が燃え、
梁が爆ぜ、
油が滴り、
兵の足元を舐める。
「退け!退却だ!」
甘利は即断する。
だが、すでに遅い。
表門――橋は落とされている。
炎が道を塞ぐ。
残るは、搦め手のみ。
「搦め手へ向かえ!」
赤備えが一斉に動く。
だが狭い。
押し合い、
ぶつかり、
転び、
踏みつける。
後ろから火が迫る。
熱風が吹き込む。
「押すな!押すな!」
叫び声が悲鳴に変わる。
倒れた兵の上を、
さらに兵が踏み越える。
鎧が熱を帯びる。
兜の中に煙が入る。
酸素が薄い。
一人が崩れ落ちる。
その上に二人。
さらに三人。
火が、包む。
焼ける。
焼ける。
焼ける。
三百近い赤備えが、
本丸と二の丸の間で焼死した。
甘利は振り返らない。
振り返れば、
足が止まる。
「進め!」
炎を背に、
搦め手へ雪崩れ込む。
林。
夜のように暗い。
そこへ、赤備えが飛び出した。
その瞬間。
弦が鳴った。
ビィン。
左右の林から、
矢が降る。
一斉。
逃げ場がない。
「伏せろ!」
伏せられぬ。
後ろから押される。
前からも出てくる。
矢が喉を射抜く。
脇を貫く。
腿を裂く。
呻き声。
さらに前。
今度は槍。
林の中から、
無数の穂先。
三方向。
一人の赤備えに、
三本の槍が突き立つ。
倒れる。
別の兵が踏み越えようとする。
その背中に矢。
倒れる。
「敵は二千以上だ!」
遅い。
出てくるたびに、射抜かれる。
林は狭い。
隊列が組めない。
赤備えは強い。
だが、戦場ではない。
これは、処刑場だ。
死体が積み上がる。
警戒しようとする兵。
だが後ろから押される。
止まれない。
進むしかない。
「抜けろ!突き破れ!」
甘利が前へ出る。
残り三百。
顔も鎧も煤だらけ。
「我に続け!」
甘利が槍を振るう。
一人、二人、
伏兵を薙ぐ。
林を切り裂くように、
三百が突撃する。
矢が飛ぶ。
甘利の肩に刺さる。
抜く。
進む。
腹に一本。
それでも進む。
背後で仲間が倒れる。
振り返らぬ。
抜けた。
林を突破した。
残り、百余。
そこに。
浅野率いる芋粥精鋭足軽。
整然。
息を整えた三百。
「構え!」
一斉射。
百の矢が飛ぶ。
疲れ切った赤備えに、
防ぐ力は残っていない。
次々と倒れる。
甘利が吠える。
「まだ終わらぬ!」
走る。
二十歩。
十歩。
さらに矢。
胸を射抜かれる。
足が止まる。
さらに三本。
甘利兵部少輔信房は、
矢に貫かれ、
膝をついた。
最後の赤備えが倒れる。
林は静まり返った。
同刻。
山県本陣。
報が入る。
「搦め手に伏兵!
甘利隊、状況不明!」
山県は動かない。
「横手三百を物見として出せ」
横手隊が急行し、林へ入る。
だが、伏兵を見つけた瞬間。
さらに横から。
村瀬率いる剣士百。
音もなく、
切り崩す。
搦め手の伏兵五百も動く。
横手隊三百が包囲される。
「退け!」
横手隊は崩れた。
林での乱戦。
冷静な剣。
劣勢の中、逃げ帰れたのは七十ほど。
報が届く。
「横手隊壊滅!」
山県は、目を閉じた。
救えない。
今から突入すれば、
さらに千を失う。
赤備えは武田の刃だ。
感情で折ってはならぬ。
目を開く。
「搦め手救援は……断念する」
冷たい声。
「表門の赤備えを本陣へ引き戻せ。
騎馬赤備えは前田警戒に固定せよ。
後詰千で本陣固めよ。
全軍、秩序撤退!」
迷いはない。
怒りもない。
ただ判断。
赤備えの損耗を、
最小限に抑える。
それが将の務め。
林。
秀政が燃え上がる豊川一夜城を見上げる。
武田の軍旗は消えた。
甘利隊は全滅。
横手隊壊滅。
赤備えは、壊滅的損耗。
「……勝った」
だが歓声は上がらない。
死体の山。
焦げた匂い。
煙。
秀政は呟く。
「これが、鬼謀だ。
勝って冷静になれば……
高くついたな」
遠く。
山県軍が整然と退いていく。
崩れぬ。
乱れぬ。
敗北してもなお、虎は虎。
だが。
赤備えは、討った。
武田は敗れた。
豊川の風が、
灰を運んでいく。
戦は終わった。
武田は――退いた。
この戦い。
織田軍、討死 七百三十二。
武田軍、討死 千三百八十一。(内、赤備え千百四十九)
織田軍は二千の赤備えを討ち取り、
被害は四百余、
山県を逃したものの、
信玄入道に致命傷を与えたと誇張して公表した。
織田の勝利である。
一方、武田軍は千余り討ち取り、
被害は五百余、
堅城、豊川城を攻略し、焼き払った上で、
織田軍を撤退させたと誇張して公表した。
武田の勝利である。
山県は帰還後、信玄には実情を隠さず報告した。
信玄は被害に驚くと共に、織田の芋粥を強敵と認識した。
だがそれと同時に、
その精神的な落胆から病状が急激に悪化した。
武田軍は療養目的で甲斐に退却する。
元亀四年三月十三日、その帰路にて武田信玄入道晴信、
歴史より前倒しで病没する。
織田の誇張した戦果を否定するため、
武田家の動揺を防ぐため、
織田・徳川の侵攻を防ぐため、
織田包囲網の崩壊を防ぐため、
信玄の死はそれから三年隠されることになる。
だが、織田包囲網は織田の戦果を信じた。
武田敗北の報は一時の間、織田包囲網の勢いを大きく削いだ。
結果として――
織田信長は、第二次長島一向一揆へ向け、大軍を動かす。




