第九十八話 激突、赤備え
豊川一夜城を背に、芋粥軍三千が斜行陣を展開した。
左翼を前へ。
右翼を引き、
赤備えの正面突破を滑らせる構え。
その後方、やや距離を取った位置に、
五百の前田騎馬隊が控える。
さらに千は城内。
表門と裏門に配され、
退路と搦め手を固く守っていた。
決戦の形は整った。
*
対する武田。
赤備え三千が、朱の波となって広がる。
山県昌景は馬上から静かに問う。
「備前守は?」
「出陣部隊の総大将を務めております」
山県はわずかに顎を引いた。
「そうか」
赤い陣を見渡す。
「ならば、あれを踏み潰せば終わりだな」
声は低い。
だが揺るぎがない。
「信辰、景秀、信房に命じよ。
小細工など要らぬ。
駆逐せよ」
朱の陣がざわりと揺れた。
山県の麾下侍大将、
赤備えを束ねる三将が前へ出る。
騎馬赤備え大将――
市河左馬助信辰。
甲斐源氏の流れを汲む名門市河氏の出。
山県の騎馬戦術を最も色濃く継ぐ男。
千騎の騎馬赤備えを率いる。
その眼は、獲物を射抜く鷹の如し。
徒歩赤備え千人隊長――
小幡典膳景秀。
武田譜代、小幡氏の出。
山県隊の副将にして“理の将”。
騎馬で崩した隙を、
冷徹に抉る役目を担う。
そして――
甘利兵部少輔信房。
甘利虎泰の甥筋の猛将。
典膳とは対照的に、先陣を好む。
だがその突撃は、決して無謀ではない。
赤備え騎馬の後継者と、山県の両腕と称される、
常勝の赤備えを支える刃である。
市河が槍を掲げた。
「赤備え――進め!」
一瞬の静寂。
次の瞬間。
地が震えた。
千騎の騎馬が一斉に踏み出す。
朱の波が、
豊川沿いの台地を飲み込まんと迫る。
その後方では、
徒歩赤備え二千が整然と続く。
乱れぬ。
崩れぬ。
焦らぬ。
ただ、圧倒する。
芋粥軍三千の前に、
戦国最強と謳われる赤備えが、
牙を剥いた。
*
地鳴りがした。
最初は低く。
やがて胸を打つ振動に変わる。
騎馬赤備え千騎。
朱の鎧が揃い、
槍を水平に構え、
一糸乱れぬ陣形で迫る。
「来るぞ――槍衾!」
浅野の声が裂ける。
芋粥前衛三千。
一斉に槍を下げた。
穂先が林立する。
人の壁。
だが赤備えは直線では来ない。
点在する馬防柵。
浅い落とし穴。
先頭の騎馬がわずかに進路を変える。
次の騎馬がそれに倣う。
一騎が飛び越え、
後続が半歩だけ間を空ける。
完璧だった密集が、
ほんの一瞬、呼吸を乱す。
「効いている……!」
誰かが呟く。
だが次の瞬間。
圧が来た。
地を蹴る蹄。
鉄と鉄の軋み。
風圧。
赤備えが、突き刺さる。
衝突。
槍衾が弾けた。
数本の槍が馬腹を貫く。
騎手が投げ出される。
悲鳴が上がる。
だが止まらない。
突撃は死を織り込んでいる。
倒れた馬を飛び越え、
横へ流れ、
再び加速する。
騎馬の質量が、
槍衾を押し潰した。
「踏ん張れ!」
浅野が叫ぶ。
だが上から振り下ろされる槍は速い。
馬上からの一突きが、
兵の肩口を貫く。
別の槍が喉を裂く。
前衛が、
薄皮を剥がれるように、
削られていく。
斜行陣。
騎馬は真正面を破れず、
斜めに流される。
朱の奔流が、
陣を滑る。
だが滑りながらも、
次々と槍を繰り出す。
削る。
倒す。
踏み越える。
騎馬赤備えは、
壊滅はさせぬまま、
中央へ抜けて再び距離を取った。
地面に残るのは、
折れた槍と、
呻き声。
「……持ちこたえた」
誰かが息を吐いた。
だがそれは、
生き残った者の錯覚に過ぎない。
背後から、
徒歩赤備えが迫る。
整然と。
乱れず。
迷わず。
「蹴散らせぇ!!」
小幡典膳が叫ぶ。
「典膳に後れをとるなぁ!
織田を虫どもを踏み潰せぇ!」
甘利兵部少輔も叫んだ。
その闘気は芋粥兵を圧倒する。
徒歩赤備えは崩れかけた前衛に、
止めを刺しに来る。
その時。
「前田隊、行くぞぉ!
遅れるな!
赤備え、何するものぞ!」
前田利家の五百騎が、
側面から疾走した。
槍を突き出し、
横腹をかすめ、
二、三人を突き倒す。
止まらぬ。
突き、
抜け、
離脱。
ほんの一瞬、
徒歩赤備えの歩が止まった。
その隙に。
「立て直せ!槍衾!」
浅野の怒号。
芋粥軍が、
血を踏みながら隊列を組み直す。
やがて徒歩赤備えと激突。
強い。
騎馬ほどの衝撃はない。
だが一突き一突きが重い。
兵がまた倒れる。
それでも壊滅はしない。
持ちこたえる。
やがて。
ほら貝が鳴った。
山県の号令。
徒歩赤備えが整然と後退する。
騎馬赤備えの後ろに再び徒歩赤備えが整列する。
そして、またもほら貝。
波状攻撃。
赤備えは焦らない。
整え、
削り、
また整える。
二度目の突撃。
今度は点を避ける動きに迷いがない。
勢いはさらに増す。
再び衝突。
槍が折れる。
人が飛ぶ。
盾が砕ける。
斜行陣は保つ。
だが被害は、
目に見えて膨らんでいく。
三百。
四百。
血の匂いが濃くなる。
二度目の後、
赤備えは再び距離を取った。
芋粥軍。
五百近くが討ち取られていた。
呻き声。
転がる兜。
折れた旗。
秀政は、
眉間に深く皺を寄せ、
朱の陣を睨む。
「……強すぎる」
だが。
まだ、崩れてはいない。
赤備えが、
再び整列する。
次が来る。
それは、
止めを刺すための形をしていた。
豊川の風が、
血と土の匂いを運ぶ。
*
赤備えが整然と並び、その士気は高い。
山県昌景は馬上で静かに戦場を見渡した。
斜行陣。
削られながらも、まだ形を保つ芋粥軍。
血は流れている。
だが、崩れ切ってはいない。
山県の目が細まる。
「頃合いだな」
低く呟く。
「止めを刺せ」
陣太鼓が鳴った。
重く。
速く。
激しく。
総攻めの合図。
今度の突撃は違った。
騎馬赤備えは、
斜めに流されることを恐れぬ。
真正面。
中央へ。
一直線に加速した。
「来るぞ――
中央だ!」
浅野の声が掠れる。
槍衾が再び構えられる。
だが、三度目の衝撃は重さが違った。
点在する馬防柵を踏み越え、
落とし穴を察知しても止まらぬ。
隊列は崩れぬ。
加速。
圧縮。
突入。
衝突。
槍が何本も折れ、
数騎が転ぶ。
だが止まらない。
騎馬赤備えは、
槍衾を押し裂いた。
中央が、裂ける。
馬上からの突きが、
兵を弾き飛ばす。
踏み倒す。
押し潰す。
悲鳴が上がる。
「中央、持たん!」
誰かが叫ぶ。
斜行陣が、崩れた。
左右の翼も、
中央が抜かれたことで支えを失う。
一瞬の揺らぎ。
それが連鎖する。
陣が、瓦解した。
「退け!城へ退け!」
浅野が叫ぶ。
芋粥軍は、
豊川一夜城へ向けて後退を開始した。
だがそれは、完全な潰走ではなかった。
混乱しきってはいない。
整然と城へと走る。
だが、背を見せた以上、
いくら想定している退却とはいえ、
甘くはない。
徒歩赤備えが追う。
整然と。
無駄なく。
容赦なく。
突く。
倒す。
踏み越える。
背中からの一撃が、
芋粥軍の絶え間ない悲鳴を起こす。
そこへ。
前田利家の五百騎が、
再び突っ込んだ。
今度は離脱のためではない。
囲まれる直前まで粘る。
槍を振るい、
敵を弾き、
味方の退路をこじ開ける。
前田騎馬隊にも被害が出始めた。
「ここまでか……!」
利家が歯を食いしばる。
「退け!退けぇ!」
前田騎馬隊は一斉に馬首を返した。
だが向かう先は、
城ではない。
南の林。
騎馬は土煙を上げ、
木立の中へ消えていく。
騎馬赤備えは追わない。
山県の号令で、
騎馬赤備えは一旦元の位置へ戻る。
追撃は徒歩赤備えに任せる。
小幡典膳と甘利兵部少輔が、
敗走する芋粥兵を容赦なく叩いた。
だが。
城門が近づいた時。
「射て!」
政成の声が響く。
表門上。
土塁の上。
弓隊が一斉に放つ。
鉄砲が火を吹く。
火花と煙。
矢が降り注ぎ、
数名の赤備えが倒れた。
「これ以上は無理だ」
小幡典膳が即断する。
甘利も舌打ちしつつ距離を取った。
追撃は止まる。
その隙に。
芋粥軍の残兵が、
門内へ雪崩れ込む。
最後の兵が入った瞬間。
「閉めよ!」
表門が固く閉じられた。
重い音が戦場に響く。
櫓と土塁から、
矢と鉄砲が放たれる。
赤備えは一旦距離を取った。
小幡典膳は目を細め、
城を見据える。
櫓。
土塁。
門。
冷静に観察する。
「兵がおらぬ櫓がある」
甘利が眉をひそめる。
「何だと?」
「どうやら造りかけよ。
板が薄い。
柱が細い。
幻術など存在せぬ」
山県の元にその報告が届く。
山県は静かに頷いた。
「そうか。やはりな」
赤い陣を見渡す。
「造り終わる前に頂くとするか」
わずかに笑う。
「この城は今後使える」
そして命じた。
「大盾、竹束、
丸太撞木を甘利に与えよ」
攻城攻めの道具が甘利隊に届けられ、
伝令によって、山県の指示が伝えられる。
甘利が深く頭を垂れる。
「は!承知したとお伝えください」
頭を上げた後、甘利は小幡を見た。
「典膳、先鋒は俺だ。
この程度の城、お前の出番はあるまい、ははは!」
小幡も鼻を鳴らす。
「ふん、自慢は落としてから言え。
……抜かるなよ、兵部少輔」
*
山県の目が、
豊川一夜城を射抜く。
「今日中に落とすぞ」
赤備えの陣太鼓が、
再び鳴り始めた。
城を包囲する、
虎の足音だった。
*
秀政は二の丸に立つ。
「籠城戦だ……。
武田――
想像の数倍強い。
浅野、裏門の林に潜め」
「は!」
「義父殿、例のあれを準備してくれ」
「分かり申した。
あの武田を倒すのはこの鬼謀しかありませぬな」
「あぁ――
これが俺の戦い方だ」




