第40話「新たな波へ——」
寮の部屋には、まだ張り詰めた空気が残っていた。
千尋はベッドのふちに座り、泣きじゃくる明日香を胸で抱きしめていた。
そして、その千尋の片手を握りしめ、頬に当てて静かに涙を流す玲奈。
三人の間で交わされた言葉——千尋の決断は、あまりにも重く、そして彼女たちの未来を決定づけるものだった。
明日香は大切な恋人だけど、玲奈も恋人として、真剣に付き合いたい。
二人とも大切な千尋が出した、優柔不断にも見える決断。
いくら多重婚が認められてるといっても、明日香は千尋の恋人は自分だけと信じていた。
それが、よりにもよって幼馴染みでもあり、千尋への恋愛相談をずっとしてきた玲奈ともなれば、明日香の心中は穏やかではなかった。
千尋は学園のアイドルで、将来は競泳で国民的スターになれる人物だと明日香は思っている。いずれは二人目、三人目の恋人が出来て、千尋を独占できなくなる。
でもそれは、まだまだ先の未来だと思っていた。
せめて学生のうちだけは、自分が千尋を独占する——そういう希望を抱いていたのだ。
こんなに早く終わりが来ると考えていない。
千尋の手を取り静かに涙を流す親友を見ながら、明日香は顔を上げ、千尋に確認する。
「……本当に、玲奈とも付き合うの? 恋人として」
「うん」
「本気で言ってる?」
「うん」
千尋は迷いなく頷く。
空いている手を明日香の頬に添え、その瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
自分の決断が本気だということ、二人を心の底から大切に思っていることを伝えるために。
「明日香はかけがえのない、私の一番の恋人。それは絶対に変わらない」
何度も『一番』を繰り返すことに、明日香は千尋の本気を感じる。
「でも、玲奈も私にとって、もうただの親友じゃない」
「……」
「明日香と一緒で、離したくない、大切な、大好きな人なんだ」
「……」
千尋は、手を握ったままの玲奈へと視線を移す。
玲奈はハッとしたように顔を上げ、千尋と視線を合わせる。
その瞳はまだ涙で潤んでいたが、そこには強い意志の光が宿っていた。
「だから……私は二人とも大切にしたい。パートナーとして、これから先も、ずっと一緒にいたい」
それは、千尋が出した、誠実な答えだった。
どちらかを選ぶのではなく、どちらも選ぶ。
それは、誰よりも二人を大切に思う千尋だからこその、不器用で、けれど精一杯の決断だった。
「……本当に、千尋はずるい」
明日香がもう一度呟いた。
だが、その声には先ほどのような怒りや悲しみは消えていた。
どこか諦めと、深い愛情が滲んでいた。
「本当に、千尋はずるいんだから……」
明日香は「ふうー」と大きなため息をつくと、千尋の腕の中から身を起こす。
そして、まだ涙の跡が残る顔に目一杯の力を込め、玲奈に向き直る。
「玲奈」
「明日香……」
二人の視線が交錯する。
幼馴染であり、ライバルであり、これからは同じ人を愛する仲間となる二人。
明日香は天井見てからもう一度息を吐き、《《先輩》》として最大限の笑顔を浮かべ、《《後輩》》の顔を見据える。
「しょうがないから、玲奈を認めてあげる」
少し拗ねたように、はっきりと口にする。
「千尋がそうしたいって言うから、特別だよ」
「……ありがとう、明日香」
玲奈の声が震え、涙に濡れる顔が緩む。
「ただし!」
明日香は人差し指を立てて、玲奈と、そして千尋を交互に見据えた。
「私が一番だから! それだけは絶対に譲らないから!」
それは、明日香なりの最大限の宣言であり、覚悟だった。
「……分かってるわよ」
玲奈は涙を袖でぐいっと拭い、ふっと微笑む。
「私も負けるつもりはない。いつか、千尋の一番になってやるから」
「上等じゃん!」
二人の間に、健全なライバルとしての火花が散る。
それを見て、千尋の顔にもようやく心からの笑顔が戻った。
「優柔不断な彼女でごめんね、明日香、玲奈」
「「謝らない!」」
二人の声が重なる。
二人は顔を見合わせ鼻で笑うと、先に明日香が口を開く。
「千尋はいい加減な気持ちで玲奈の気持ちを受け入れたわけじゃない。でしょ?」
「う、うん……」
「その全部を大切にしたいって気持ち、私は大好き。だから納得した。OK?」
「うん……」
明日香のどこまでも前向きな気持ちに、千尋の目頭が熱くなる。
「私だってそうよ」
「玲奈……」
「もしも千尋が明日香を泣かせるようなら、私の気持ちは揺らいでた」
「そ、そうなの?」
熱くなっていた目頭が冷め、顔が引きつる。
「全部を妥協しない、全部を受け入れる。私は……そんな千尋だから、大好きになったの」
「玲奈……」
「明日香を大切にする千尋が好き。そして、私を大切にしてくれる、大好きって言ってくれる千尋はもっと大好き」
「……」
直球の大好き連発に、千尋は顔が熱くなり、胸が熱くなる。
「謝らなくていいから。ずっと前を向いて、私たちを愛しつづけてくれればそれでいい。でしょ、明日香」
「できれば私だけを——」
「は? 納得したんじゃないの?」
「いやー、玲奈が千尋に好き好き連発してたらさ、なんかムカついてきた」
明日香は頭を搔きながら軽い苦闘で口にする。
「……千尋、明日香を捨てていいわよ。今日からは私だけがあなたの恋人」
「いや、それはないって、アホ玲奈。捨てられるのはあんただよ」
涙やしんみりしていた空気は吹き飛び、二人はベッドの上で取っ組み合いの喧嘩を始める。
しかし、蚊帳の外に置かれた千尋から見たそれは、友人同同士のじゃれ合いにしか見なかった。
千尋は心の底から思う。
この二人を好きになって良かった——。
この二人に愛されてる自分は幸せ者——。
千尋は迷いを完全に捨て、決意する。
愛される限り愛し続ける。求められる限り答え続けよう、と。
「明日香! 玲奈!」
「「え!?」」
千尋はベッドの上で団子になる二人の上にダイブし、ぎゅっと抱きしめる。
「ちょ、千尋——!」
「お、おも——い——!」
一回り以上大きい千尋に覆い被さられ、二人はギブタッチの合図を送る。
しかし千尋はお構いなしに更に抱き寄せ、二人と顔をくっつける。
「改めて——」
「「……」」
真剣な口調に、二人の動きはピタリと止まる。
「私は二人が大好きです。これからも、恋人として、最高のチームとして、ずっと一緒にいてください」
一瞬ポカンした二人の顔が、みるみる笑顔になっていく。
「当たり前じゃん! ずっと一緒だよ!」
「ええ。どこまでも、千尋と一緒に……」
三人は、強く、固く、抱きしめ合う。
涙と、笑顔と、そして確かな愛情が、部屋の中に満ちていく。
それは、彼女たちだけの『家族』が誕生した瞬間だった。
「あ——」
「なになに?」
「どうしたの、千尋?」
「恋人になったんだし、記念の……キスでもしとこうか?」
「するする! 千尋から言い出すなんて激レアじゃん!」
明日香は遠慮無く、千尋と恋人同士のキスを実行する。
息が掛かる距離でそれを見せられた玲奈は、引きつった顔を見せる。
「間近で見るとエグいわね。さすが淫獣明日香」
「ほれ! 次は玲奈のばん!」
明日香は千尋の顔を玲奈の方に向け、キスを促す。
「本当にいいの? こ、恋人のキスを……?」
「私は玲奈の恋人だよ。親友じゃない、ちゃんとした恋人のキス、しようか」
「……千尋。大好き……愛してる——」
「私も愛してるよ、玲奈——」
恋人たちの長い夜が明けると、窓からは新しい朝の光が差し込み始めていた。
それは、白波女子学園水泳部にとっても、千尋、明日香、玲奈の三人にとっても、新たな波が始まることを告げる、光の波ように見えた。
【第4章 完】




