第38話「夕暮れの帰り道で——」
夕暮れのプールサイド。
千尋と玲奈は、しばらくの間、言葉少なにお互いの存在を感じ合っていた。
静かに揺れる水面が、窓から差し込む茜色の光を反射し、二人を淡く照らしている。
「——そろそろ戻ろっか」
「ええ。明日香も待ってるかもしれないし」
玲奈は静かに頷き、タブレットをバッグにしまう。
データ整理はまだ中途半端だった。本来であればまだしばらく作業を続けなければならないし、タブレットをしまうのは一区切りが付いたあと。
しかし、今の玲奈にはもっと優先したいものが出来ていた。
(……まだ、千尋の温もりが残ってるみたい……)
玲奈はさっき千尋に握られた手のひらをぎゅっと握り、その温もりと感触を思い出して笑顔になる。
「あー、みんな帰っちゃたね。今日のメニューはきつめだったから、早く寮で休みたかったのかな?」
「でしょうね。明日香ですら引っ張られたみたいだし」
「元気になってから更に人気者になったからね。みんな、明日香と帰りたくたくて仕方ないんだよ」
千尋と玲奈はロッカーからバックを取り出し、着替え始める。
千尋の話題は明日香のことばかりだった。
悪気があるわけではない。
明るく楽しい話題を振ろうとすると、自然と明日香が出てくるののだ。
「明日香って本当に——」
「昔っから明日香は人気者なのよね。私と違って明るいし、行動力もあるし……」
玲奈だってわかっていた。
明日香の方が人気があって、明るくて、優しいと。
それでも、幼馴染みとしてずっと隣りにいる玲奈としては、嫉妬せずにいられなかった。
明日香は太陽、自分はその影。
初等部の頃は同じ選手として一緒の舞台にいたのに、怪我で泳ぐことを諦めてからはずっと裏方だった。
選手を支える立場になり、チーフマネージャーになった今は多少近づけたと思っていた。
しかし、周囲はそう思わない。
目立つのはいつも明日香だった。
人気があるのはいつも明日香だった。
そして——千尋の隣りにいるのも明日香だった。
「……私は、明日香みたいにはなれない。まあ、マネージャーなんだし、今はそれでもいいと思うけど——」
玲奈は美沙顧問に叱咤激励され、三人で和解した夜にある程度の区切りをつけていた。
明日香も自分と同じように苦しんでる、自分だけじゃない、と。
選手とマネージャー。
前に進むためにはどちらも必要で、自分たちはそれをわかり合った。
(それでいい。それだけでいい。そう思っていた……のに——)
想い人の顔がスッと頭を横切る。
何気なくその人物の方を見ると、玲奈を見て微笑んでいた。
「玲奈は玲奈でいいんだよ」
着替えの手が一瞬止まる。
「明日香と違ってすごく冷静で気配り上手。私はそんな玲奈が大好きだよ」
「……ありがとう」
一糸まとわぬ姿でのその告白は、隠すことのない、千尋の本心に見えた。
そういった意味ではないと玲奈は理性を働かせるが、その姿に、その言葉に、どんどん心が昂ぶってくる。
(明日香のこと、もう淫獣とか言えないわね……。気持ちがわかるから……)
千尋の一挙手一投足に目が行ってしまう。
手の動き、足の動き、息づかい——今の玲奈は、千尋の全てが特別に見えて、全てを感じたいと思っていた。
「玲奈?」
「……え?」
「早く着替えよう。いくら暖かくなってきたからって、なにも着ないと風邪引くよ」
「そ、そうね——」
千尋に見とれていた玲奈は慌てて着替え、制服を整える。
「うん、室内異常なし」
二人で無人になった室内を点検し、部室の鍵を閉める。
「じゃ、帰ろうか」
「ええ」
部室から寮の帰り道。
初夏らしい風が流れ、空は濃い朱色に染まっていた。
人影のない周囲には、虫の鳴き声と、最後のチャイムが鳴り響いている。
「だから玲奈は——」
「……」
千尋は、先ほどの玲奈との会話を反芻していた。
玲奈が抱えていたかもしれない不安を少しでも和らげるために。
一方、玲奈の胸中は、千尋への想いで満たされていた。
千尋の言葉が一つ一つが隙間を満たし、玲奈の想いを固めていく。
(言ってくれた……。千尋が、私を必要だって……)
『玲奈がいると安心する』
『玲奈が、篠原玲奈っていう一人の人間として、私の隣にいてくれることが、私にとって一番の安心材料なんだよ』
『玲奈は玲奈でいいんだよ』
『玲奈の——』
『玲奈に——』
『玲奈だから——』
『私は大好き——』
千尋の言葉が、何度も何度も頭の中で繰り返される。
それは、玲奈がずっと欲しかった言葉の数々だったのかもしれない。
データや分析ではなく、ただ『篠原玲奈』という存在そのものを肯定してくれる言葉。
(もう、迷わない——!)
都予選での過ち。
明日香への嫉妬。
チームを壊した罪悪感。
それらが完全に消えたわけではない。
しかし、千尋の言葉が、それら全てを乗り越える勇気を玲奈に与えていた。
(私は千尋の隣にいたい。ただ支えるだけじゃない。篠原玲奈として、千尋の特別な存在として——)
寮の入り口が見えてきた。
このまま部屋に戻れば、また明日香がいる日常が始まる。
(今、ここで——!!)
玲奈は、意を決して足を止めた。
「千尋」
「ん? なに?」
千尋が不思議そうに振り返る。
夕日を背にしたその姿は、玲奈の目には眩しいほど美しく映った。
玲奈は胸に手を置き、震える息を深く吸い込んだ。
本当の気持ちを伝えるために、一歩を踏み出すために。
玲奈は不思議そうにする千尋の顔を真っ直ぐに見つめて、重い口を開く。
「千尋が言ってくれたこと、すごく嬉しかった」
「うん」
「私、これからも全力で千尋を、チームを支えるつもりよ。それは本当」
「う、うん……」
玲奈のあまりにも真剣な表情と、その言葉の重みに、千尋はちょっと腰が引ける。
『このまま聞いても大丈夫なのか?』
そんな問いが、千尋の頭をよぎる。
玲奈はそんな千尋に遠慮すること無く、逃げようとするその瞳を捕らえる。
一度言葉を切り、ぎゅっと拳を握りしめた。
心臓の音が、耳元でうるさいほど鳴っている。
「支えたい、でも、それだけじゃないの」
「……?」
「千尋の隣にいたい、でも、支えるためだけじゃない——」
夕日が、玲奈の頬を赤く染める。
その瞳に、その表情に、千尋は息を飲む。
夕日の色に、頬を染める朱色が混ざっていく。
「千尋の特別な存在として……ずっと、あなたの隣にいたい、です」
千尋の瞳が、驚きに見開かれる。
玲奈はその瞳から目を逸らさずに、最後の言葉を紡いだ。
「——愛してます、千尋——」
それは、長い間、心の奥底に秘めてきた一言。
虫の鳴き声だけがうっすら響く、夕暮れの帰り道。
その言葉は、あまりにもはっきりと響いた。
千尋は言葉を失ったように立ち尽くす。
驚きと、戸惑いと、そして何か別の感情が入り混じった複雑な表情で、玲奈を見つめている。
「……玲、奈……」
千尋の声は、わずかに掠れていた。
「ごめんなさい。困らせるってわかってる。千尋の恋人は明日香。でも、どうしても伝えたかったの。私の、本当の気持ちを……」
玲奈は溢れそうになる涙を必死で堪えながら、続けた。
「返事は……いらない。ただ、知っておいてほしかっただけだから……」
そう言って玲奈は俯き、千尋の前から走り去ろうとした。しかし——
「待って、玲奈!」
千尋がその腕を掴んだ。
「ッ……!」
玲奈は驚いて振り返る。
千尋は困ったように眉を寄せながらも、玲奈の腕を離さない。
その瞳は、真剣そのものだった。
「……えっと、驚いた。正直、すっごく、驚いてる」
千尋は、ゆっくりと言葉を選びながら口を開く。
「でも……玲奈の気持ち、ちゃんと受け止めたよ。そして……嬉しいと、思った」
「千尋……」
「でも、ごめん。今すぐには答えられない。明日香のこともあるし、私自身、まだ気持ちの整理がついてないから」
千尋は掴んだ玲奈の腕を引き、その身体をそっと包み込んだ。
「……玲奈の想いを、無かったことには絶対にしないし、傷つけない。ちゃんと向き合うから。だから……だから、少しだけ、時間をもらってもいい?」
それは、明確な肯定ではなかった。
そして、拒絶でもない。
玲奈の告白を真摯に受け止め、誠実に向き合おうとする、千尋らしい答えだった。
「……うん……」
玲奈は涙を堪えきれずに小さく頷き、千尋の優しさに感謝し、その背中に手を回す。
千尋の優しさと温かさが、痛いほど玲奈の心に沁み渡る。
夕暮れの空の下、二人の影は一つになり、寮へと伸びていた。
告げられた想いと、受け止められた想い。
千尋と玲奈、そして明日香の関係は、この瞬間、また新たな局面へと動き出したのだった。




