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ドンと恋!〜 私たちのStarting Block 〜インターハイで日本新記録を出したら表彰台で公開告白されました。  作者: 空知美英
4章:決裂と再生

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第38話「夕暮れの帰り道で——」

夕暮れのプールサイド。

千尋と玲奈は、しばらくの間、言葉少なにお互いの存在を感じ合っていた。

静かに揺れる水面が、窓から差し込む茜色の光を反射し、二人を淡く照らしている。


「——そろそろ戻ろっか」

「ええ。明日香も待ってるかもしれないし」


玲奈は静かに頷き、タブレットをバッグにしまう。

データ整理はまだ中途半端だった。本来であればまだしばらく作業を続けなければならないし、タブレットをしまうのは一区切りが付いたあと。

しかし、今の玲奈にはもっと優先したいものが出来ていた。


(……まだ、千尋の温もりが残ってるみたい……)


玲奈はさっき千尋に握られた手のひらをぎゅっと握り、その温もりと感触を思い出して笑顔になる。


「あー、みんな帰っちゃたね。今日のメニューはきつめだったから、早く寮で休みたかったのかな?」

「でしょうね。明日香ですら引っ張られたみたいだし」

「元気になってから更に人気者になったからね。みんな、明日香と帰りたくたくて仕方ないんだよ」


千尋と玲奈はロッカーからバックを取り出し、着替え始める。

千尋の話題は明日香のことばかりだった。

悪気があるわけではない。

明るく楽しい話題を振ろうとすると、自然と明日香が出てくるののだ。


「明日香って本当に——」

「昔っから明日香は人気者なのよね。私と違って明るいし、行動力もあるし……」


玲奈だってわかっていた。

明日香の方が人気があって、明るくて、優しいと。

それでも、幼馴染みとしてずっと隣りにいる玲奈としては、嫉妬せずにいられなかった。

明日香は太陽、自分はその影。

初等部の頃は同じ選手として一緒の舞台にいたのに、怪我で泳ぐことを諦めてからはずっと裏方だった。

選手を支える立場になり、チーフマネージャーになった今は多少近づけたと思っていた。

しかし、周囲はそう思わない。

目立つのはいつも明日香だった。

人気があるのはいつも明日香だった。

そして——千尋の隣りにいるのも明日香だった。


「……私は、明日香みたいにはなれない。まあ、マネージャーなんだし、今はそれでもいいと思うけど——」


玲奈は美沙顧問に叱咤激励され、三人で和解した夜にある程度の区切りをつけていた。

明日香も自分と同じように苦しんでる、自分だけじゃない、と。

選手とマネージャー。

前に進むためにはどちらも必要で、自分たちはそれをわかり合った。


(それでいい。それだけでいい。そう思っていた……のに——)


想い人の顔がスッと頭を横切る。

何気なくその人物の方を見ると、玲奈を見て微笑んでいた。


「玲奈は玲奈でいいんだよ」


着替えの手が一瞬止まる。


「明日香と違ってすごく冷静で気配り上手。私はそんな玲奈が大好きだよ」

「……ありがとう」


一糸まとわぬ姿でのその告白は、隠すことのない、千尋の本心に見えた。

そういった意味ではないと玲奈は理性を働かせるが、その姿に、その言葉に、どんどん心が昂ぶってくる。


(明日香のこと、もう淫獣とか言えないわね……。気持ちがわかるから……)


千尋の一挙手一投足に目が行ってしまう。

手の動き、足の動き、息づかい——今の玲奈は、千尋の全てが特別に見えて、全てを感じたいと思っていた。


「玲奈?」

「……え?」

「早く着替えよう。いくら暖かくなってきたからって、なにも着ないと風邪引くよ」

「そ、そうね——」


千尋に見とれていた玲奈は慌てて着替え、制服を整える。


「うん、室内異常なし」


二人で無人になった室内を点検し、部室の鍵を閉める。


「じゃ、帰ろうか」

「ええ」


部室から寮の帰り道。

初夏らしい風が流れ、空は濃い朱色に染まっていた。

人影のない周囲には、虫の鳴き声と、最後のチャイムが鳴り響いている。


「だから玲奈は——」

「……」


千尋は、先ほどの玲奈との会話を反芻していた。

玲奈が抱えていたかもしれない不安を少しでも和らげるために。

一方、玲奈の胸中は、千尋への想いで満たされていた。

千尋の言葉が一つ一つが隙間を満たし、玲奈の想いを固めていく。


(言ってくれた……。千尋が、私を必要だって……)


『玲奈がいると安心する』

『玲奈が、篠原玲奈っていう一人の人間として、私の隣にいてくれることが、私にとって一番の安心材料なんだよ』

『玲奈は玲奈でいいんだよ』

『玲奈の——』

『玲奈に——』

『玲奈だから——』

『私は大好き——』


千尋の言葉が、何度も何度も頭の中で繰り返される。

それは、玲奈がずっと欲しかった言葉の数々だったのかもしれない。

データや分析ではなく、ただ『篠原玲奈』という存在そのものを肯定してくれる言葉。


(もう、迷わない——!)


都予選での過ち。

明日香への嫉妬。

チームを壊した罪悪感。

それらが完全に消えたわけではない。

しかし、千尋の言葉が、それら全てを乗り越える勇気を玲奈に与えていた。


(私は千尋の隣にいたい。ただ支えるだけじゃない。篠原玲奈として、千尋の特別な存在として——)


寮の入り口が見えてきた。

このまま部屋に戻れば、また明日香がいる日常が始まる。


(今、ここで——!!)


玲奈は、意を決して足を止めた。


「千尋」

「ん? なに?」


千尋が不思議そうに振り返る。

夕日を背にしたその姿は、玲奈の目には眩しいほど美しく映った。

玲奈は胸に手を置き、震える息を深く吸い込んだ。

本当の気持ちを伝えるために、一歩を踏み出すために。

玲奈は不思議そうにする千尋の顔を真っ直ぐに見つめて、重い口を開く。


「千尋が言ってくれたこと、すごく嬉しかった」

「うん」

「私、これからも全力で千尋を、チームを支えるつもりよ。それは本当」

「う、うん……」


玲奈のあまりにも真剣な表情と、その言葉の重みに、千尋はちょっと腰が引ける。

『このまま聞いても大丈夫なのか?』

そんな問いが、千尋の頭をよぎる。

玲奈はそんな千尋に遠慮すること無く、逃げようとするその瞳を捕らえる。

一度言葉を切り、ぎゅっと拳を握りしめた。

心臓の音が、耳元でうるさいほど鳴っている。


「支えたい、でも、それだけじゃないの」

「……?」

「千尋の隣にいたい、でも、支えるためだけじゃない——」


夕日が、玲奈の頬を赤く染める。

その瞳に、その表情に、千尋は息を飲む。

夕日の色に、頬を染める朱色が混ざっていく。


「千尋の特別な存在として……ずっと、あなたの隣にいたい、です」


千尋の瞳が、驚きに見開かれる。

玲奈はその瞳から目を逸らさずに、最後の言葉を紡いだ。


「——愛してます、千尋——」


それは、長い間、心の奥底に秘めてきた一言。

虫の鳴き声だけがうっすら響く、夕暮れの帰り道。

その言葉は、あまりにもはっきりと響いた。

千尋は言葉を失ったように立ち尽くす。

驚きと、戸惑いと、そして何か別の感情が入り混じった複雑な表情で、玲奈を見つめている。


「……玲、奈……」


千尋の声は、わずかに掠れていた。


「ごめんなさい。困らせるってわかってる。千尋の恋人は明日香。でも、どうしても伝えたかったの。私の、本当の気持ちを……」


玲奈は溢れそうになる涙を必死で堪えながら、続けた。


「返事は……いらない。ただ、知っておいてほしかっただけだから……」


そう言って玲奈は俯き、千尋の前から走り去ろうとした。しかし——


「待って、玲奈!」


千尋がその腕を掴んだ。


「ッ……!」


玲奈は驚いて振り返る。

千尋は困ったように眉を寄せながらも、玲奈の腕を離さない。

その瞳は、真剣そのものだった。


「……えっと、驚いた。正直、すっごく、驚いてる」


千尋は、ゆっくりと言葉を選びながら口を開く。


「でも……玲奈の気持ち、ちゃんと受け止めたよ。そして……嬉しいと、思った」

「千尋……」

「でも、ごめん。今すぐには答えられない。明日香のこともあるし、私自身、まだ気持ちの整理がついてないから」


千尋は掴んだ玲奈の腕を引き、その身体をそっと包み込んだ。


「……玲奈の想いを、無かったことには絶対にしないし、傷つけない。ちゃんと向き合うから。だから……だから、少しだけ、時間をもらってもいい?」


それは、明確な肯定ではなかった。

そして、拒絶でもない。

玲奈の告白を真摯に受け止め、誠実に向き合おうとする、千尋らしい答えだった。


「……うん……」


玲奈は涙を堪えきれずに小さく頷き、千尋の優しさに感謝し、その背中に手を回す。

千尋の優しさと温かさが、痛いほど玲奈の心に沁み渡る。

夕暮れの空の下、二人の影は一つになり、寮へと伸びていた。

告げられた想いと、受け止められた想い。

千尋と玲奈、そして明日香の関係は、この瞬間、また新たな局面へと動き出したのだった。

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