第37話「夕暮れのプールサイド」
その日の練習は数日前の重苦しさが嘘のように活気に満ち溢れていた。
都予選での反省会と決起集会を経て、白波女子学園水泳部は完全に「再起動」を果たしたのだ。
選手たちの掛け声は力強く、泳ぎには迷いがない。
プールサイドには互いを励まし合う声が響き、FC応援団による歓声も飛んでいた。
しかし、千尋はキャプテンとして、チームの変化を肌で感じていた。
明日香は時折ふざけながらも、練習には真剣に取り組み、周囲を明るく照らしている。
玲奈も以前のような壁を作ることなく、的確な指示の中にも、選手を気遣う温かさが戻ってきていた。
(良かった、本当に……)
千尋は安堵しつつも、まだ心に引っかかっていることがあった。
それは玲奈のこと。
あの夜、本音をぶつけあって和解し、決起集会も成功した。
だが、玲奈が流した涙、そして千尋自身が彼女に伝えた『安心する』という言葉——その意味を、もっとちゃんと伝えなければならないと感じていた。
ふとしたとき玲奈が見せる軽い拒絶。
前のような重い感じでは無く、ちょっとした気持ちのすれ違いによる拒絶。
怒ってはいないし、悲しんでいるわけではない。
千尋はそれがずっと引っかかっていた。
明日香に対しては前以上に本音をぶつけているのに、自分には前とは違う、わずかな遠慮を見せる。
気持ちのすれ違いが大きな亀裂となって最悪の結果になる。千尋たちはそれを身をもって知ったばかり。時間も置かずにまたそういったことになった場合、今度は埋められない溝が出来るかもしれない。
(……やっぱり、ちゃんと話そう。今ならなんだって話し合えるはず……)
練習が終わり、部員たちが次々とプールを後にしていく。
シャワー室や更衣室からは賑やかな声が聞こえてくるが、人のいなくなったプールサイドには徐々に静寂が戻り始めていた。
玲奈は掃除当番や後輩マネージャーたちに後片付けの指示を出し、自身もタブレットで最後のデータチェックを行っていた。
その姿は、いつも通り仕事に集中しているように見える。
千尋はクールダウンのストレッチを終えると、玲奈へ歩み寄った。
「玲奈、ちょっといい」
「どうしたの?」
「えっと……少しだけ、いいかな?」
「別に構わないけど……」
玲奈が不思議そうな顔でタブレットから顔を上げる。
千尋は誰もいなくなったプールサイドを見渡し、そして玲奈の目を真っ直ぐに見つめた。
「あのさ、都予選のこと、改めてお礼を言いたいんだ」
「お礼?」
「うん。特にメドレーリレーに関しての玲奈のサポート、本当に完璧だった」
肩がピクリと動く。
「あの時、玲奈がいつも通り冷静に指示を出してくれたから、私たちあ迷わずに泳げたんだと思う」
千尋はあの緊迫した場面を思い出す。
敗北のショックと決起集会の熱気が冷めやらぬ中、玲奈だけは冷静にレースプランを確認し、的確なアドバイスを送り続けてくれていた。
「……当然のことをしたまでよ。それが私の仕事だから」
玲奈は少し照れたように視線を逸す。
「うん、仕事だって分かってる。でもね——」
千尋は視線をそらされた顔を見つめ、言葉を続けた。
「それだけじゃないんだ」
「え?」
「あの夜、美紗顧問に叱られた後……私も明日香も泣いてたけど、玲奈も泣いてたよね」
「ッ——」
玲奈の肩が微かに震える。
「もう忘れましょ、あんな醜態」
「ううん、忘れないよ」
千尋は玲奈の手を取り、両手で包む。
その手は驚くほど冷く、千尋にはそれが二人の間にある《《しこり》》のように感じられた。
「玲奈が自分の弱さを見せてくれたから、私たちはすごく救われたんだ。完璧に見える玲奈も、私たちと同じように悩んで、苦しんでるんだってわかったから。だから、私も明日香も、本音でぶつかることができたんだと思う」
「千尋……」
「前に『玲奈がいると安心する』って言ったでしょ?」
「え、ええ……」
玲奈はそっぽをむいたまま、小さく頷く。
あの夜、千尋から告げられた言葉。
自分の価値を意識し、明日香を異物のように感じ始めたきっかけの言葉。
千尋の隣りにいるのは自分こそが相応しい。
それを意識しすぎて暴走し、明日香を苦しめ、チームの崩壊を招いた。
玲奈にとっては救いの言葉であると同時に、苦い経験にもなった言葉。
それが再び、玲奈の心を大きく揺さぶる。
「あれはね、ただマネージャーとして頼りにしてるって意味だけじゃないんだ」
千尋は握った玲奈の手に力を込めた。
「玲奈が、篠原玲奈っていう一人の人間として、私の隣にいてくれることが、私にとって一番の安心材料なんだよ」
「……」
「玲奈の冷静さも、厳しさも、データへの情熱も……そして、あの時見せてくれた涙も。その全部が、私を支えてくれてる。だから私は私でいられるし、キャプテンとして前に進めるんだ」
それは、恋人である明日香に向ける言葉とは違う。
しかしそれと同じくらい、あるいはそれ以上に深く、千尋の心の核にある感情だった。
玲奈は千尋にとって、泳ぎだけでなく、心を支える羅針盤であり、錨なのだ。
「…………」
玲奈は顔を上げることができなかった。
千尋のその言葉が、温かい奔流のように心を満たしていく。
データでも理論でもない、ただ千尋自身の言葉が、これほどまでに自分の存在を肯定してくれる。
その事実が、嬉しくて、切なくて、涙が溢れそうになるのを必死で堪えた。
(私は……千尋の安心できる場所。それだけで、いいはずなのに……)
それ以上踏み込むと、また明日香を苦しめるかもしれない、またチームが崩壊するかもしれない——玲奈にはそれが耐えられなかった。
もう二度と、あんな気持ちになりたくないし、周囲に迷惑を掛けたくないと思う。
だが、千尋の温かい手と、真摯な瞳は玲奈をまっすぐに捉えていた。
それに触れていると、もっと触れ合いたい、近くにいたいという想いが、さらに強く、熱を帯びて胸の奥から込み上げてくる。
「千尋——」
玲奈は熱っぽくなった顔を上げ、その瞳に自分を映す。
(もっと……もっと、近くで……!)
玲奈の顔が徐々にその瞳に近づき、その存在が大きくなっていく。
「……玲奈?」
黙り込んだ玲奈を、千尋が心配そうに覗き込む。
「!?」
「大丈夫?」
「……ありがとう、千尋」
玲奈は顔を伏せ、ぐっと涙を堪える。
そして感情を飲み込んだ顔を上げ、千尋に笑いかける。
「その言葉はすごく嬉しい。だから……これからも、私にできる精一杯で、千尋と、そしてチームを支えるわ」
「うん。頼りにしてる、玲奈」
二人は握手し、笑い合う。
千尋は気持ちが通じたと信じ込み、笑っていた。
しかし、玲奈のその笑顔の裏には、閉じ込めた想いが再び燃え上がっていた。
(……やっぱり、もうダメね、私は。明日香……ごめんなさい——)
二人の間に流れるのは、深い信頼と、より強固になろうとする特別な感情。
夕暮れに染まる静かなプールサイド。
千尋と玲奈。
二人はただ、笑い合っていた。
弾けそうになる想いと決意を、その胸に秘めたまま——。




