第35話「嵐を越えた先の日常——」
白波女子学園、水泳部専用寮『しらなみ寮』。
東京都予選から一夜明けた早朝、住人たちが戻ってきた『しらなみ寮』には、久しぶりに穏やかな朝が訪れていた。
激闘の疲れと、それ以上に濃密だった感情の嵐を経て、それぞれの部屋には寝息だけが響いている。
「……んん……」
最初に目を覚ましたのは千尋だった。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな光が、《《同じベッド》》で眠る二人の寝顔を照らしている。
右隣には明日香。
いつものように少しだけ口を開け、幸せそうな顔で眠っている。
時折「ちひろー……」と寝言を呟いているのが聞こえて、千尋は思わず頬を緩めた。
昨日のメドレーリレーでの力強い泳ぎ、そしてレース後の弾けるような笑顔が蘇る。
(良かった……。本当に、良かった……)
恋人の安らかな寝顔に優しくキスをして、もう一方を見る。
左隣。
そこには、玲奈が静かに眠っていた。
いつもはどこか険しさや緊張感を漂わせている彼女が、今は完全に力が抜け、まるで子供のようなあどけない寝顔を見せている。
長いまつ毛が規則的に震え、ほんのりと頬が上気しているようにも見えた。
(玲奈……)
千尋は、一昨日の夜の出来事を思い出す。
美紗顧問の叱責、涙の独白、そして玲奈からの熱烈なキス、それを受け入れた自分——。
まだ現実感が伴わないような、フワフワした不思議な感覚。
それでも、この穏やかな寝顔を見ていると、胸の奥が温かくなるのを感じた。
そっと玲奈の顔を撫で、顔に掛かっている髪を優しく耳に掛ける。
「ん……ちひ、ろ……?」
その感触で目が覚めたのか、玲奈がゆっくりと目を開けた。
寝起きのぼんやりとした瞳が、至近距離にある千尋の顔を徐々に捉える。
数秒後——ハッと我に返ったように目を見開く。
「ち、ちひろ!? な、なんで……!?」
玲奈はガバッと起き上がり、布団を握りしめながら胸元を隠す。
「あ、ごめん、起こしちゃった? おはよう、玲奈」
「おはよう……じゃなくて! なんで私のベッドに千尋が——」
「ここ、私のベッドだよ?」
「へ?」
玲奈はポカンとし、千尋と、その奥にある自分のベッドに目を向ける。
「……ッ——!」
玲奈は自分の状況を理解し、顔を真っ赤にしてベッドの上で立ち上がる。
そして、昨夜の記憶がみるみるうちに蘇ってくる。
どうして自分が千尋のベッドで寝ていたのか?
昨夜は美沙顧問の自宅で、麗子副顧問と一緒に東京都予選の反省会と今後の方針を話し合った。
寮に帰ってきたのは深夜。
すでに消灯時間も過ぎ、静まりかえった寮。
眠気が酷く、すぐにでもベッドに入りたかった玲奈は荷物を適当に置き、ベッドに移動した。
そこで見たのは、同じベッドで絡みつくように眠っている千尋と明日香。
服は着ていたが、見ようによっては『事後』にも見える格好だった。
「……バカ明日香……。私にも、千尋の……」
そこからはうろ覚えだった。
意識が飛びそうになりながらも二人をほどき、千尋に覆い被さったところで記憶が切れていた。そのまま落ちたような、その先もやったような、現実と妄想がごちゃ混ぜになっている。
「わ、私は、なんてことを——!」
「あはは、玲奈も疲れてたんだね」
「わ、笑いごとじゃないわよ! こ、これはその、不可抗力というか……!」
玲奈が慌てふためく様子がなんだかおかしくて、千尋は声を立てて笑う。
その笑い声に、反対側で眠っていた明日香も目を覚ました。
「んー……? なに、朝から騒がしい……って、玲奈!?」
玲奈を姿を見た瞬間、明日香の意識が一気に覚醒する。
「なんで千尋のベッドにいんのよ!」
「ち、違うのよ明日香! これは事故!」
「事故で恋人たちのベッドに潜り込むか! この淫獣!!」
「誰が淫獣よ! 淫獣はあんたでしょ! 帰ってきてすぐいちゃつきはじめて!」
「私たちはラブラブだからいいんだよ!」
「こっちの身になれっていつも言ってるでしょ! この淫獣!!」
ギャーギャーと言い争いを始める二人。
それは、数日前までの険悪な雰囲気とは全く違う、いつもの(?)光景だった。
千尋はその光景を眺めながら、心の底から安堵のため息をついた。
(やっと……戻ってきたのかな……?)
朝食の時間。
騒がしい寝起きを終えた三人は、連れ立って寮の食堂へ向かった。
集まっている部員たちも、どこか吹っ切れたような明るい表情をしている。
昨日のメドレーリレーでの圧勝が、チーム全体の空気を完全に変えたのだ。
「あ、キャプテン、朝倉先輩、篠原先輩、おはようございます!」
「昨日はすごかったです!」
「打ち上げのジュース、最高でした!」
後輩たちが、屈託のない笑顔で次々に挨拶してくる。
三人も笑顔で応え、いつものテーブルについた。
今日のメニューは和食。焼き鮭、だし巻き卵、味噌汁、そして炊き立てのご飯。シンプルな食事が、疲れた身体に優しく染み渡る。
「ふぅ、ほっと一息だね」
「んー! やっぱ寮のご飯は最高だね!」
明日香が早速ご飯を頬張り、味噌汁とだし巻き卵を口にかけ込む。
玲奈はご飯を一口、焼き鮭を丁寧にほぐし、口に運ぶ。
「うん、美味しいわ」
玲奈がいつもより穏やかな表情で味噌汁を啜る。
その時、明日香が自分の皿からだし巻き卵を一つ取り、玲奈の皿に移す。
「……それあげる。昨日のお詫び。好きでしょ、だし巻き卵」
「は? なんのお詫びよ?」
「いいから」
「このメニューは栄養バランスを考えて作られてるのよ。選手であるあなたは特に気を付けなきゃいけないの。私はいいから、自分で食べなさい」
玲奈は皿に盛られただし巻き卵をつまみ、明日香の皿に移動しようとするが、明日香はそれを箸で防ごうとする。
「いいってば」
「ダメよ」
カツン——。
二人の箸先が空中でぶつかる。
だし巻き卵が半分に割れ、それぞれの皿に落ちる。
「「あっ——!」」
二人とも動きを止め、顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく視線を逸らす。
その顔はほんのりと赤く染まり、軽く湯気が出ているようだった。
「ど、どうぞ……」
「も、もらっとくわ……」
ぎこちないやり取り。
あの夜に『仲直りのキス』をした二人は、時々こういう《《恥じらい》》を見せるようになっていた。
それを見ていた千尋は、思わず吹き出しそうになるのを必死で堪える。
(なんか可愛いなあ、二人とも……)
嵐は去った。
しかし、全てが《《元通り》》になったわけではない。
友情を超えて和解したからこそ生まれる、新しい距離感。
照れくささと、言葉にしなくても伝わる、互いへの気遣い——。
「千尋?」
「ん?」
「なんか、ニヤニヤしてない?」
「してないわよ、気のせい」
明日香と玲奈に同時にジト目で見られ、千尋は慌ててご飯をかき込んだ。
食卓には少しぎこちないけれど、温かくて優しい時間が流れていた。
それは、壊れた絆が修復され、新たな関係性が芽生え始めたことを示す兆し。
悪夢の都予選という嵐を乗り越えた三人の少女たち。
それぞれの胸に新しい感情を抱くなか、食堂には夏の朝日が差し込み、穏やかな空気が流れていたのだった。




