第33話「涙の独白、白波の誓い(上)」
美沙顧問が去った後の部屋は時計の秒針がやけに大きく響き、重苦しい沈黙に支配されていた。
テーブルに並ぶ千尋、明日香、玲奈。
三人は俯いたまま、互いの顔を見ることすらできない。
床に落とした視線の先には、それぞれの心に突き刺さった美沙顧問の言葉が幻のように揺らぎ、こだましていた。
『恋で泳ぎを濁らせるな』
『チームをバラバラにした』
『明日のレースには帯同させない』
最後通牒。
それは、白波の選手として、仲間として、存在を否定されたにも等しい言葉だった。
三人は目を瞑り、両拳を膝の上でぎゅっと握る。
最初に顔を上げ、沈黙を破ったのは千尋だった。
「ごめん……」
絞り出すような、か細い声。
言葉は少なく、それだけでは意味がわからないような言葉。
だが、明日香と玲奈には、その言葉が心にズシンと響くように感じた。
そして、千尋の唇から次々と言葉がこぼれ落ちる。
「私のせいだよね……。キャプテンなのに、チームのこと、全然見えてなくて……。二人のことも、ちゃんと見てあげられなくて……」
千尋の肩が、小さく震え始める。
堪えていた涙が、堰を切ったように頬を伝う。
それは初めて見る、千尋の『弱気』な涙だった。
二人はポカンと口を開け、熱いものが込み上げてくるのを感じる。
「私がもっとしっかりしてれば! 二人がこんなに苦しむことも、玲奈が倒れることも、明日香が負けることも、チームがバラバラになることもなかった――っ!」
キャプテンとしての責任感、仲間への罪悪感。それが、千尋の心を押し潰していた。
その嗚咽が、スイッチを押したかのように、明日香の感情を激しく揺さぶった。
「違うっ! 千尋は悪くないっ!」
明日香は勢いよく顔を上げた。
その顔は、涙と鼻水に濡れている。
「悪いのは私! ぜんぶぜんぶ、私が、弱かったから――!」
嗚咽が止まらない。言葉が途切れ途切れになる。
「千尋がどんどん速くなって、玲奈がどんどん千尋に必要とされていくの見て……焦って……! 私だけ置いていかれるんじゃないかって……! 千尋にも、チームにも、いらなくなっちゃうんじゃないかって……怖くて……!」
一気に吐き出される負の感情。
それは、白波のエースとして、千尋の恋人として、常に明るく振る舞ってきた明日香が、初めて見せる心の叫びだった。
抑え込んできた劣等感、嫉妬、そして見捨てられることへの恐怖が、どんどん溢れてくる。
「だから玲奈に酷いこと言って……千尋のことも、信じられなくなって……! リレーだって、私のせいで……! 本当に、ごめん……ごめんなさいっ!」
明日香はテーブルに突伏し、子供のように声を上げて泣き叫ぶ。
エースとしてのプライドも、恋人としての意地も、そこにはない。
そこにあるのは、ただ溢れ出す感情のままに涙を流す、少女としての顔だった。
その痛々しいほどの告白は、固まっていた玲奈の心の壁をも、静かに、確実に溶かしていく。
気づけば、玲奈の瞳からも大粒の涙が止めどなく流れ落ちていた。
「……私も……ごめんなさい……」
震える声で、玲奈が呟く。
俯いたまま、テーブルに涙の染みを作っていく。
「明日香の気持ち……全然、わかってあげられてなかった……。データが、数字が全てだって……思い込んでた……」
玲奈はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は赤く腫れ、いつもの怜悧な光は涙で滲んでいる。
「千尋を支えることが、チームを強くする最善の方法だって、信じてた。だから、周りが見えなくなってた……。明日香がこんなに苦しんでるの……本当は、気づいてた……。でも――」
言葉が詰まる。
認めたくなかった自分の醜い感情が、喉元までせり上がってくる。
「――認められなかった。明日香の言う『感性』とか『気持ち』とか……そういう、データにならないものを認めたら……私が今までやってきたことが、全部、無駄になる気がして……怖かった――!」
完璧なマネージャーであろうとした自分。
その仮面の下にあったのは、嫉妬と不安。そして、誰にも理解されないという孤独感だった。
「私がチームの空気を悪くして、崩壊させた……。私が明日香を……追い詰めた……。本当に、ごめんなさい――っ!」
玲奈もまた、自分の過ちを認め、堰を切ったように泣き崩れる。
それは、常に完璧であろうとした少女が、初めて見せた弱さだった。
千尋は涙を流しながら告白を受け止め、二人の肩を抱き寄せる。
「……みんなでごめんって言ったね。これって……お互い様ってこと、かな?」
千尋は二人の濡れた頬を軽く指で拭き取り、苦笑いを浮かべる。
「私も悪い、明日香も悪い、玲奈も悪い……私たち全員が悪かった」
「「……」」
「だからさ――」
笑顔を深め、二人に笑いかける。
「今から、三人でリスタートしない?」
「「……」」
「ここで気付いた。ここで告白した。ここで謝罪した。だったら――後は進むだけ。そうじゃないかな? 副キャプテン様に、チーフマネージャー様」
「ぐすっ、うん、そうかも!」
明日香が笑顔を浮かべ、大きく頷く。
「ね、玲奈も間違いに気付いたんだし、もういいじゃない。こんなに弱気な玲奈は初めて見るよ。あとは上がるだけ。そうでしょ?」
「ぐす……そうね。そうかもしれないわね……」
「うん、絶対そうだよ。今がどん底、あとは一緒に頑張ろう」
「……ええ」
玲奈は頬にある千尋の手を握り、優しく頬ずりする。
「……千尋、明日香。仲直りの提案があるんだけど、いいかしら?」
「うん、いいよ。ね、明日香?」
「ぐすっ……とりあえず、聞くだけは……」
明日香は笑い泣きしながら、頷く。
「どうも。私の提案というのは――」
「「……」」
「キスよ!」
「……へ?」
「なに言ってんの、アホ玲奈」
千尋はポカンとし、明日香はいつもの調子でつい突っ込みをいれる。
「アホは余計よ、バカ明日香。いい?」
人差し指を立て、持論を展開し始める。
「こんな醜態さらして本音をぶつけあったのは初めて。そこはいい?」
「う、うん」
「これまでも抱き合ったり手を繋いだりは散々してきた。OK?」
「うん、OK、かな……?」
「だったら。今この場で、これまで以上の友情表現が必要だと思うの。お互いに心の底から認めあったという、その証として」
「そう、かな……?」
「そうなのよ。じゃ、失礼して――」
「「え?」」
千尋と明日香があっけにとられてると、玲奈の身体がススッと動き、相手の唇に重なる。
「ん――!?」
「ぷはっ、これでいいでしょ、バカ明日香。あー、スッキリしたわ」
「なにすんのさ! 私の唇は千尋だけのもんなのに!」
「ほら、あんたも千尋とキスしなさい」
「へ?」
「ギスギスしてから一度もしてないでしょ」
「う、うん、まあ……」
「今だけは一秒ルールを無視していいから、濃いのをブチュッとしなさい。初めての仲直り記念なんだし、思い出に残るのをたっぷりしていいわよ」
「……本当にぃぃぃ?」
「ええ。ほら、早く」
「千尋は? 千尋はいい?」
「うん、もちろんだよ。ずっと寂しかったし、私も――んっ――!?」
千尋が言い切る前に唇が塞がり、恋人になって以来、もっとも濃厚な時間を過ごす。
「ぷはっ!! あ、明日香、は、激しすぎるよ……!」
千尋は顔を真っ赤にし、後ずさる。
明日香の沈んでいた顔は吹き飛び、本来の明るい笑みを浮かべる。
「生き返ったぁぁぁーーー! 朝倉明日香、完・全・復・活! 千尋、愛してる!」
「う、うん。私も愛してるよ」
明日香は後ずさった千尋に再び抱きつき、またキスしようとする。が――。
「あんたはお終いよ」
玲奈が明日香の首根っこを思いっきり引っ張り、自分の後ろに掃き捨てる。
床にべちゃっと捨てられた明日香は上半身を起こし、玲奈を睨む。
「なにすんのさ、アホ玲奈!」
「いつまでもやってるからよ。次は私の番なんだから邪魔しないで」
「は?」
困惑する明日香を無視し、玲奈は千尋の顔にぐいっと迫る。
「れ、玲奈?」
「最後に私とキスして終わり。そうでしょ?」
「う、うん、そうだね」
「……千尋は私のこと、『親友』として好きなのよね?」
「うん、大好きだよ」
千尋の即答に、玲奈の笑みが深くなる。
「じゃ、親友との仲直りのキス、しましょうか。これで親友を超えた、新しい関係の始まり」
玲奈が顔を上げて口を突き出す。
「あははは……じゃあこれで、仲直り――ん――」
千尋が軽く腰を曲げ、玲奈の唇に自分の唇をそっと重ねる。
「ん――むっ!?」
千尋がそっと離れようとしたところで、玲奈の両手が千尋の後頭部に回り、ガッと押さえ込まれる。
二人の唇が割れ、まるで別れを惜しむ恋人のような、濃厚な時間が流れ始める。
「……おい、アホ玲奈、いつまでやっての?」
「ん、ん――」
玲奈は明日香を無視し、千尋との友情(?)を確かめ続ける。
明日香のこめかみに次々と怒りマークが浮かぶ。
二人のそれは、完全に恋人同士のものだった。まるで、先ほどの自分と千尋のキスをそのままやられているような光景――そこで、明日香は気付く。
(これが狙いだったのか! 一秒ルール無視なんて都合が良すぎると思った!)
仲直りのキス。
一秒ルールの無視。
玲奈はそれを盾にして、大きく一歩を踏み出してきたのだ。
(ムカつく!! ダメって言えないじゃん!!)
ここで二人を引き離してしまっては、せっかくの『仲直り』の空気がまた壊れるかもしれない。
明日香には、もうあのギスギスした関係は耐えられなかった。
少しでもその可能性があるなら、恋人のように見えるキスも止められない。
「くっそ~~~。あとで覚悟しろよ、アホ玲奈ぁぁぁ……!」
わざと聞こえるように声を出し、牽制しておく。
それからたっぷりと時間がすぎ、二人は自然と離れた。
「……れ、な……」
千尋の目は困惑と照れが混ざり、潤んでいた。
自分の唇にそっと指を当て、今起こった出来事が夢なのではないかと確かめる。
「千尋」
「な、なに」
「これで仲直り完了。二人で一緒に、白波を勝利に導きましょう」
「う、うん……」
二人は両手でガッチリ握手し、最後に軽く抱き合って離れる。
「私もいるんですけど~~~」
明日香はベッドの上で寝転がり、頬杖を突いて二人の様子を見守っていた。
完全にあきれ顔であり、不満たらたらの口調が隠せていない。
大きくため息をつき「よっと!」という掛け声と共にベッドから飛び降りる。
「あとで憶えてろ」
「大会で勝ったら相手してあげる。もう負けるんじゃないわよ」
「ふん……!」
明日香と玲奈は軽く拳をぶつけ合い、お互いの気持ちを交換する。
「さて――」
玲奈はパンパンと手を叩き、場を仕切り直す。
「私たちは仲直りして立ち直った。後は――」
「チームのみんな、だね」
キスの衝撃から立ち直った千尋が、日中のチームの雰囲気を思い出し、顔を引き締める。
「そう、チーム。私たちだけが戻っても意味がない。時間が勿体ないわ。夜遅くに申し訳ないけど、全員を集めて緊急ミーティング――決起集会を開く。いいわね?」
「もちろん」
千尋が当然だと言わんばかりに頷くと、明日香も大きく頷く。
「私――たちのせいで大きな迷惑を掛けてるわけだしね。明日のレースのためにも、出来るだけ早くスッキリさせてあげたい。賛成」
「副キャプテンっぽいことも言えるじゃない。その調子でお願いね」
「……任せて」
明日香はふざけた仮面を捨て、チームを導く副キャプテンの顔になる。
「それじゃあ、みんなを呼びに行こうか!」
「うん!」
「ええ!」
三人は円陣を組み、気合いを入れ直す。
壊れた友情、壊れたチームワーク、覆らない敗北。
悪夢を見続けていた三人は、自分たちが壊してしまった『白波』を取り戻すため、前を向いて歩き始めるのだった。




