第32話「敗北の沈黙と、顧問の雷」
初日の最終種目『女子4×100m フリーリレー 決勝』が終わっても、首都圏アクアアリーナの喧騒は続いていた。
絶対王者・白波女子学園の敗北――。
その瞬間を目の当たりにした観客たちのざわめきは続き、聖明女学院の応援団はその快挙に沸いていた。
対照的なのは、白波女子学園の控えスペース。
まるで時間が止まったかのように静まり返り、悲壮な雰囲気がチームを覆っていた。
誰もが言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしている。
プールから上がってきた千尋も、項垂れるメンバーに掛ける言葉が見つからず、ただ静かに身体を拭き、プールサイドを後にする。
初めての敗北を味わったチーム白波は、重い歓声を背負いながら戦場を去るのだった。
「……」
明日香は一人、逃げ込むようにトイレの個室に引きこもる。
生理現象ではない。
放心状態でただ座り込み、燃え尽きたかのように項垂れる。
(……もう私、ダメだ……)
リレーで負けたのは自分のせい。それを痛いほど痛感していた。
(千尋……玲奈……)
しかし、ずっと明日香を支配していたのは、二人の顔と言葉。
千尋の笑顔が思い出せない。
あの夜の出来事より、あの雨の日の光景が頭をよぎる。
(……私は、もう、必要ない……?)
玲奈が隣りにいる。
玲奈が千尋を速くする。
玲奈がチームを支えている。
そこに、自分の居場所があるように思えなかった。
(愛されて、愛して、愛して、愛して――子供を産んで、産まされ、ずっと隣りにいて、ずっとあの笑顔と一緒にいる……。それだけで、良かったのに……)
少し前まで当然のように考えていた未来が、今は儚い夢のように感じていた。
(たくさん愛し合ってきたはずなのに、思い出せないや……ははは……)
去年のインハイで告白して以来、数え切れないほど身体を重ねてきた。
愛し合って、何度も二人の未来を語ってきた。
結婚しようね。
千尋の子供が欲しい。
明日香の子供が欲しい。
(結婚して、オリンピックで活躍して、大きな家に住んで、家族に囲まれて、幸せに…………あれ? なんだっけ……?)
明日香は何度も描いてきた光景を思い出そうと、必死に考えを巡らせる。
(……そうだ。結婚式は大きな教会。二人ですっごい高い純白のウェディングドレスを着て、一緒に並ぼうって――――)
なんとか思い出したのは、結婚式の光景だった。
教会。純白のウェディングドレスの千尋。
そして、その隣に並ぶのは……。
(――ッ、玲奈――――!!)
千尋の隣りに並んでいたのは、玲奈だった。
雨の日の笑顔を千尋に向け、二人は幸せそうに見つめ合っていた。
(……そっか。やっぱり、もう、私は必要ないんだ……)
明日香は幽鬼のようにふらっと立ち上がり、控え室に戻るのだった。
***
「……全員整列して。宿舎に戻るわよ」
控え室に玲奈の声が響く。
その声にはいつものような覇気は全くない。
部員たちはまるで操り人形のように無言で荷物を持ち、動き出す。
宿舎への帰り道も、そして宿舎に到着してからも、その重苦しい沈黙は続いていた。
夕食の時間になっても食堂に現れる部員の数はまばらで、規律は乱れきっている。
ほとんどの部員が部屋に閉じこもり、沈んでいた。
強固な絆で結ばれていたはずの白波女子学園水泳部は、見る影もなく崩壊していたのだった。
午後8時。
千尋、明日香、玲奈の部屋のドアがノックされた。
「はい」
千尋が応えると、ドアの外に立っていたのは副顧問の高城麗子だった。
その表情は厳しく、有無を言わせぬ口調で告げた。
「あなたたち三人を美沙顧問が呼んでいるわ。部屋まで来なさい」
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
ついに、この時が来た――と。
三人は顔を見合わせることもなく、黙って立ち上がり、麗子の後に続いく。
部屋には美沙顧問が一人、腕を組んで窓の外を眺めていた。
その背中からは、普段の親しみやすさとはかけ離れた、冷たく厳しいオーラが放たれている。
「堂島千尋、朝倉明日香、篠原玲奈、三名、失礼します……」
千尋が代表して声をかけると、美沙はゆっくりと振り返った。
その瞳には、深い失望と、静かな怒りが宿っていた。
「座れ」
聞いたこがない低い声で促され、三人はテーブルを挟んで美沙の向かいに座る。
重い沈黙が部屋を支配していた。
「今日のレース、特にフリーリレー。あれが、今のお前らの実力だ」
美沙は静かに、しかし刃物のように鋭い言葉で切り出した。
その言葉は重く、千尋の心を抉る。
「個人種目での取りこぼし、リレーでの惨敗。言い訳は聞かない。結果が全てだ」
三人は顔を上げることができない。
「なぜ負けたか、わかるか?」
美沙の問いに、誰も答えられない。
答えはすぐに浮かんだが、それが喉を通ることはなかった。
「堂島。キャプテンとして、これをどう分析する?」
名を呼ばれ、千尋はびくりと顔を上げた。
視線が一瞬合う。しかし、あまりの迫力に視線が美沙顧問の背後に逃げる。
千尋は「どう分析する?」という問いに、言葉を選び、ゆっくりと口を開く。
「……チームの連携が……取れていませんでした。私の、力不足です……」
美沙顧問は鼻で笑う。
「そんな生易しいものではないだろう?」
その視線が、明日香、そして玲奈を射抜く。
「お前らは何をしにここへ来た? 友情ごっこか? 恋愛ごっこか?」
千尋は目を開け続けることが出来なくなった。
唇を咬み、ぐっと堪える。
「はあぁぁぁー……」
美沙顧問がわざとらしく大きなため息をつき、目をつり上げる。
「ふざけるのも大概にしろ!!」
その声は重く、体育館に響き渡るかのような凄みがあった。
まさに、怒りが『雷』となってが落ちた瞬間だった。
「ここは遊び場ではない! 『白波』の看板を背負って、チーム全員の想いを背負って戦う戦場だ!」
三人は反論できない。
震える身体でそれを受け入れる。
「だがお前らは自分の感情に振り回され、やるべきことを見失い、挙句の果てにはチームをバラバラにした!」
テーブルが強く叩かれる。
それは、普段は厳しくも優しい指導者が見せる、初めての怒りだった。
「特に! 朝倉! 篠原!」
「「っ……!」」
二人の肩が大きく震える。
「個人的な感情がチーム全体にどれだけ悪影響を与えているか自覚はあるか!?」
「「……」」
「あのリレーの無様な姿は、お前らがチームを振り回してきた結果だ!」
「そんな……!」
千尋が思わず口を挟もうとしたが、美沙顧問の鋭い視線に遮られる。
「堂島も同罪だ。二人の問題に振り回され、チームを崩壊させた。その責任は誰よりも重い」
その言葉は、容赦なく三人の心を抉っていく。
「いいか、お前ら?」
一呼吸置き、三人を見据えて言葉が続く。
「恋で泳ぎを濁らせるのは、『白波の選手』として言語道断だ」
明日香と玲奈の肩が再びピクッと動く。
「お前らはこれまで『白波』が築き上げてきた歴史と、仲間たちが積み上げてきた努力を、全て踏みにじっているということを忘れるな」
美沙顧問は吐き捨てるようにそう言うと、立ち上がる。
「今夜だ」
「え?」
「リミットは今夜。よく考え、本音で話し合え。全部ぶちまけて相手にぶつけろ。自分たちが何をすべきなのか、なにを乗り越えるべきなのか。しっかり理解し、すぐに解決しろ。このままなら明日のレース、お前たちの帯同は許可しない」
その言葉は最後通牒だった。
帯同すら許さいというのは、いるだけでチームにとってはマイナスになるということ。それは、レギュラーから外されるより重い処分だった。
美沙顧問はそれ以上なにも言わず、冷たい視線を三人に残して部屋を出て行った。
残されたのは、深い沈黙と、打ちのめされた三人の少女たち
尊敬していた顧問からの、あまりにも厳しい叱責。
それは、彼女たちが目を背けてきた現実を、容赦なく突きつけてきた。
壊れた関係、失われた信頼――。
三人の心には、『白波』の名を汚し、『仲間』を裏切ったという重い事実が伸し掛かる。
千尋、明日香、玲奈。
それぞれの胸に巻き付く茨の痛みと共に、『本音』の夜が始まるのだった。




