第31話「白波の悪夢(上)」
東京都予選、大会初日の午後。
首都圏アクアアリーナの熱気は、午前の予選を経て高まっていた。
そして、各種目の決勝レースが始まる。
午前中の予選、白波女子学園の選手たちは概ね順当に駒を進めていたが、その泳ぎにはいつものような圧倒的な輝きはなく、白波関係者はもちろん、他校の選手たちにも動揺が広がっていた。
そして特に注目を集めたのが、バタフライの明日香だった。
予選タイムは高校記録の自己ベストに遠く及ばず、トップ3にすら届かないありさま。明日香ファンのざわめきは今も治まっていない。
そして、最初の決勝種目、女子400メートル自由形が始まる。
注目選手は当然、第4コース・堂島千尋だった。
予選のタイムは自己新に及ばないものの、他を圧倒する泳ぎを見せ、白波全体の不安を吹き飛ばすように決勝の舞台に戻ってきた。
隣の第5コースには強豪・聖明女学院のエース、九条静香。
タイムだけを見れば開きのある二人だったが、その間には不穏な火花が散っていた。
『Take your marks』
スタート台に緊張が走る。
千尋は水面に射貫くような視線を落とし、その先をイメージする。
ピッ————!!
電子音が鳴り、小さな水しぶきが一斉に上がる。
千尋の泳ぎは『魚』だった。
力強くも流麗。高身長を活かした大きなストロークで、後続との距離がどんどん開く。
九条静香も食らいつくが、千尋との差は広がるばかり。
ラスト50メートルではさらに加速し、他を寄せ付けない圧倒的なスパートを見せる。
電光掲示板に表示されたタイムに、会場がどよめく。
〈 1 堂島千尋 4:02:15 GR 〉
大会記録を更新する圧巻のタイム。
自身の持つ日本記録と高校記録には届かないものの、大会記録更新に大きな拍手が起こる。
それは、2着の九条静香を3秒以上突き放す、女王の貫禄を見せつける泳ぎだった。
『素晴らしいタイムです堂島千尋選手! 個人種目一つ目の優勝です!』
報道席では、女子アナが自分のことのように歓喜の声を上げる。
しかし、プールから上がった千尋の表情は硬かった。
タイムも相手選手も見ず、ただ一礼し、その場を後にする。
勝利インタビューも、「チームのために、自分の泳ぎをするだけです」と短く答えるだけで、いつものような笑顔は見られない。
彼女の視線は、次の種目へと向かう仲間の背中に注がれていた。
続いて行われたのは、女子100メートル平泳ぎ決勝。
第二泳法のスペシャリスト、平泳ぎのエース、藤原詩織がスタート台に立つ。
彼女はチームの不穏な空気に心を痛めつつも、冷静さを失っていなかった。
スタートから安定したフォームを維持し、巧みなレース運びを見せる。
そして、計算された泳ぎで完走し、トップでゴール。
大会記録と高校記録を更新し、千尋同様、大きな拍手に包まれた。
詩織はレース後、心配そうに千尋と視線を交わすが、多くは語らずに自分の世界に入っていく。
そして、会場のボルテージが再び高まる選手が入場する。
女子100メートルバタフライ決勝。
白波のエーススプリンター、朝倉明日香の登場である。
日本記録に次ぐ記録を持ち、今年度で超えると期待されている次世代の星。
予選のタイムは平凡だったが、決勝では巻き返すと、多くの観客は思っていた。
観客席の一角には、明日香のファンクラブ【SUN♡SPLASH】の面々が陣取っている。
横断幕やペンライトが掲げられ、アイドル顔負けの声援が飛び交う。
それはまるで、部活の光景をパワーアップしたような光景だったが、本人の反応は鈍い。
いつもであれば笑顔で歓声に手を振り返す明日香だが、今は能面のよう表情でプールを見つめていた。
千尋は、その姿に胸が締め付けられる。
(お願い、明日香。前を向いて。自分の泳ぎを思い出して……!)
スタート台に立った明日香の表情は硬直していた。
瞳は虚ろで、焦点が合っていない。
午前中の予選での不調、そして昨日から続く玲奈との断絶、千尋との距離感——それら全てが、彼女の肩に重くのしかかっていた。
『Take your marks』
構えるが、力が入らない。
ピッ————!!
明日香の飛び込みはタイミングがズレていた。
まるで、電子音にビクつき、慌てて入水したようだった。
水中動作も硬く、最初の浮き上がりで他の選手たちが前方に見える。
(なんで——! 動かない——!)
焦りが全身を支配する。
必死に腕を回すが、水は重く、身体が沈む。
得意なはずのダイナミックなストロークは影を潜め、ただ空回りしているだけ。
ターンも精彩を欠き、後半はさらに失速していく。
会場がざわめき始める。
【あの、朝倉明日香が——】
千尋は唇を噛み締め、プールサイドで見守る。
玲奈はラップタイムを記録するタブレットを見つめたまま、微動だにしない。
その瞳には、絶望も諦めもなく、明日香のように能面だった。
(このっ——!!)
明日香は本能のままにスパートをかける。
だが、時は遅すぎた。
「——ッ、はぁっ——!!」
いつもの癖で、電光掲示板に視線が向く。
そこに表示された順位とタイムに、明日香は息を飲んだ。
〈 4 朝倉明日香 59:39 〉
自己ベストには程遠いタイム。
高校での自己ワーストを大幅更新。
入学時より遙かに遅い、高校生活初の59秒台。
そして、まさかの表彰台落ち。
バタフライデビューしてから守り続けてきたこのタイトルを、初めて失った瞬間だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
息が整わない。
プールから上がった明日香は、呆然と立ち尽くす。
タオルを差し出す後輩マネージャーの手にも気づかない。
歓声やざわめきが会場を満たしているが、明日香には全く届かない。
ただ、自分のタイムが表示された電光掲示板を、魂の抜けたような目で見つめ続ける。
目頭に熱いものが込み上げてくる。
しかしその熱は、髪から流れる水と同化し、床のシミとして消えていく。
玲奈はその結果をタブレットに淡々と記録する。
そして、タブレットに映るスケジュール通り、次のレース準備へと移っていった。
明日香は玲奈の動きに視線を向けるが、お互いの気持ちは伝わらない。
そのすれ違いが、明日香の心をさらに深く抉る。
(……負けた。千尋は勝ったのに、私は……)
しかし、白波の悪夢は明日香だけでは終わらなかった。
他の選手たちも、決勝に進みながらもベストタイムを出せない。
そして、勝ち続けてきた種目で次々と表彰台を逃していく。
全体のベスト更新率は異常に低く、月日が巻き戻ったかのようなタイムが頻出する。
白波の控えスペースには焦りと不満、そして諦めに似た空気が膿のように溜まっていく。
外野は騒然としていた。
観客もスタッフも他校の選手たちも、そしてSNSもファンクラブも。
『白波』を中心に回っていた水泳界は、これらの出来事がまるで『悪夢』のようだと語る。
絶対王者、常勝軍団、無敵艦隊——その歯車は、確実に狂い始めていた。
そして始まる、初日の最終種目【4×100mフリーリレー】。
メンバーを包み込む暗い影はより一層その濃さをまし、広がっていく。
覚めない『白波の悪夢』は、いつまで続くのだろうか——。




