第30話「開戦のブザー」
決戦の朝を向かえた。
インターハイ東京都予選の会場である、首都圏アクアアリーナ。
その巨大なガラス張りのドームには、早朝にも関わらず多くの選手や関係者が集い、独特の熱気が渦巻き始めていた。
だが、会場入りした白波女子学園水泳部の周りだけは、まるで真冬のような冷たい空気が漂っている。
ここ数日の重苦しい雰囲気は、一夜明けても解消されるどころか、むしろ決戦のプレッシャーと相まって、さらに部員たちの心に重くのし掛かっていた。
「——整列! 点呼を始めます!」
「「「 はい 」」」
玲奈の声が控えスペースに響き、部員たちの返事が不和響音のようにこだまする。
いつもなら統一された活気のある返事だが、今はモヤが掛かったような力の無い声が聞こえるだけ。
玲奈自身もその反応を咎める気力がないのか、淡々と名前を呼び上げていく。
その横顔は睡眠不足のためか、昨日よりもさらに青白い。
明日香は列の後方で視線を落としたままだった。
覇気のない部員たちよりも負の感情を纏っており、誰とも視線を合わせようとしない。
時折、心配そうに明日香を見る視線があるが、それに応えることはない。
明日香の頭の中は、玲奈の言葉と、曇った千尋の顔でいっぱいだった。
泳ぐことへの自信も、チームへの信頼も、明るい要素はなにもない。早くこの場から消えてしまいたいという、逃避感情だけが、その胸を占めていた。
「——以上。全員、揃っています」
点呼を終えた玲奈が報告する。
その声を聞き、千尋はキャプテンとして、無理やり表情を引き締めた。
「よし。みんな、聞いて」
千尋の声はわずかに震えていた。
その瞳には、自信ではなく、怯えや不安が見え隠れしている。
それでも、彼女はチームの前に立つ。
「昨日のミーティングでも話したけど……今日は、絶対に負けられない戦い。インターハイ9連覇への最初の関門。プレッシャーは当然あるし、色々思うところもあると思う。でも……」
千尋は言葉を探すように、一度目を閉じる。
そして軽く深呼吸を入れると、顔を上げ、部員たちを見渡す。
部員たちの不安そうな顔、虚ろな明日香の瞳、感情を失ったかのような玲奈の横顔が目に入る。
千尋はずっと考えていた。
この状況を好転させる言葉を。
明日香を元気づけ、玲奈に前を向かせ、部員たちを鼓舞する言葉を。
眠れなかった。
そして、眠れないほど考えた。
チームの心を一つにするような、キャプテンらしい言葉を送ろうと。しかし——。
「……自分のベストを尽くすこと」
口から出たのは、当たり障りのない言葉だった。
状況は変わらない。
そこには、まるで覇気のない空気だけが広がっている。
「……隣の仲間を信じて……ううん、まずは自分を信じて泳ぐ。大丈夫、私たちは白波なんだから」
なんとか絞り出した言葉は、あまりにも弱々しく、響かなかった。
チームを鼓舞するには程遠い、自分自身に言い聞かせているかのような響き。
当然、部員たちの反応も鈍く、「はい……」という力ない返事が数人から聞こえただけだった。
(ダメだ……全然、ダメ……)
千尋は唇を噛み締めた。
胸が痛み、目頭に熱いものを感じる。
キャプテンとしてチームを立て直さなければならないのに、今の自分にはその力がない。
右を見ても左を見ても、上を見ても答えは見つからない。
見つかるのは、下にある自責の念と後悔だけ。
千尋は全身に力を込める。
下を向かないために、前を向いて歩くために。それが、空回りで終わるとわかっていても。
***
レース前のウォーミングアップが始まっても、その雰囲気は変わらない。
いつものような活気はなく、選手たちはただ黙々と、指示されたメニューをこなしているだけ。
千尋は一人一人に積極的に声をかけて回る。
しかし、返ってくるのはぎこちない笑顔とカラ元気な返事ばかり。
明日香は他の選手と距離を置き、一人、壁に向かってキックを繰り返している。
玲奈はプールサイドの隅で一人、タブレットに向かい続けていた。
「——白波、どうしたの?」
他校の選手たちが白波水泳部を見て、不思議そうな声を上げる。
「なんか暗いよね」
「うんうん暗い」
「堂島さんもなんか陰があるし……」
「ファンクラブ動画もお休み中だしね」
「サンスプの配信も止まってるし……病気?」
「一斉にあの日とか?」
「ないない」
「……ちょっと行ってくるわ」
「あ、お姉様!」
座ってストレッチ中の千尋に、他校の選手が話しかけてくる。
「ごきげんよう、堂島さん」
「……あ、九条さん。おはよう」
九条と呼ばれた女子生徒は、座っている千尋を見下ろし、腕組みをする。
その姿は高飛車なお嬢様ながら、どこか気品のある立ち姿だった。
「……」
「えっと、なにか用ですか?」
「あなたたち、変じゃない?」
「……普通ですよ。いつも通りです」
他校の選手に内部情報——ましてや、チームの士気が落ちていることなど、言えるはずがなかった。
九条は千尋の『普通ですよ』を鼻で笑い、白波チームを見渡す。
「堂島さんだけじゃない。朝倉さんも、篠原さんも——主力メンバー全員が腐抜けた顔してるのよ。まるで、心ここにあらずって感じね」
「……」
「そんな状態で私たち、聖明学院に勝てると思ってるの? 舐められたものね」
「……私たちは私たちのベスト尽くすだけです。結果は——後から付いてきます」
「フン。今日こそは白波に勝たせてもらうわ」
「負けません」
「どうかしら?」
九条は用が済んだとばかりに背を向け、歩き出す。
「ああ——」
立ち止まり、顔だけクッと振り向く。
「コンディション管理も実力のうち。負けても言い訳にはならないわよ」
「……もちろんです」
「白波の最強伝説、この大会で終わらせてあげるわ。それでは、次はレースでお会いしましょう、堂島さん」
「はい……」
千尋は去って行く九条の後ろ姿を見送り、ストレッチを再開する。
しかし、その動きは相変わらず鈍く、闘志とは違う感情が心を占めていた。
『——まもなく、予選競技を開始します。最初の種目は、女子400メートル、個人メドレー予選——』
アナウンスが会場に響き渡り、招集のアナウンスが流れ始める。
ついに、インターハイ序章の幕が上がる。
千尋は、招集所へと向かう『白波』たちの背中を見送りながら、祈るような気持ちで呟いた。
(お願い、みんな。自分の泳ぎだけは、見失わないで……!)
ブザーが鳴り響き、レースが始まる。
会場の熱気とは裏腹に、『白波』は凍てついたまま。
キャプテンとしてチームを鼓舞しようとする千尋だが、その声は誰にも届かない。
そして『白波女子学園水泳部』は、最悪の雰囲気のまま、決戦の時を迎えてしまう。




