第29話「予選前夜」
インターハイ東京都予選の前日。
会場近くの宿舎に到着した白波女子学園水泳部の一行を待っていたのは、いつものような高揚感ではなく、重く、息苦しい沈黙だった。
夕食の席。
広い食堂には70名を超える部員が集まっているはずなのに、聞こえてくるのは食器がカチャカチャと触れ合う音と、遠慮がちな小さな話し声だけ。
大会前夜特有の『戦支度』のような空気は全くない。
誰もが笑ったり、明日のレースへの意気込みを話す気にはなれずにいた。
「……やばくね?」
「しっ」
「言えないって……」
「空気おも……」
「はあ……」
聞こえてくるのは大会のことではなく『今の』ことだけだった。
誰も大会を見ていない。
全員の中心にあるのは、やはりキャプテン、副キャプテン、そしてチーフマネージャーの三人の関係。
千尋、明日香、玲奈は、役職的に同じテーブルについていた。
しかし、その間には見えない、けれど分厚い壁が存在しているようだった。
明日香は、ほとんど食事に手を付けられなかった。
食べて明日に備えなければならい——という感情は、今の明日香にはない。
皿に置かれた食事に箸をのせたまま、ただ窓の外を虚ろに見つめているだけ。
部室で感情を爆発させて以来、明日香は誰とも口を利いていなかった。
寮に帰っても黙々と過ごし、うつろなまま今を迎えている。
その瞳には、もはや怒りも悲しみもなく、ただ深い疲労と諦観の色だけが浮かんでいるように見えた。
玲奈は黙々と食事を口に運んでいた。
明日香の言葉を聞いてしまった衝撃から立ち直れていないのか、顔色は青白く、いつも宿しているはずの鋭い光はどこにもない。
隣の席の後輩マネージャーが心配そうに声をかけても、「大丈夫」と力なく返すだけ。
彼女の意識は、目の前の食事でも、周囲の部員たちでもなく、別のどこか——おそらくは、自分の『正しさ』が招いた結果という名の暗闇——に向けられているようだった。
そして、千尋。
二人の間に座る彼女は、キャプテンとして、そしてこの状況を作り出してしまった元凶の一人として、言葉にならない重圧に押しつぶされそうになっていた。
(話さなきゃ……。私が、何か……)
そう思うのに、言葉が出てこない。
箸が重かった。
調理された湯豆腐も喉を通らない。
味もなく、どこかに引っかかる、苦痛な食事。
右隣の明日香はほとんど箸が進んでいない。
左隣の玲奈も箸が重く、表情はとても沈んでいる。
(明日香……玲奈……)
明日香にかけるべき言葉も、玲奈にかけるべき言葉も、今の千尋には見つからない。
どんな言葉も、今の二人にとっては空虚に響くか、あるいはさらに傷つけるだけのような気がしていた。
あの夜、明日香と心を通わせたはずなのに——。
あの夜、玲奈に本心を伝え、お互いに吹っ切れたはずなのに——。
まるでそれらが、遠い夢の中の出来事のように感じられた。
食事が終わり、ミーティングの時間になっても、その空気は変わらない。
玲奈は用意された資料に基づき、明日のスケジュールや注意事項を淡々と読み上げる。
その声には抑揚がなく、まるで自動音声のようだった。
質問を促しても、誰一人として手を挙げる者はいない。
全員が完璧に理解しているからではない。全員が大会のことを考えていないだけだった。
普段なら冗談を飛ばしたり、鋭い質問をしたりする明日香も、ただ資料に目を落とし、俯いているだけ。
美紗顧問と麗子副顧問は、その空気を無視して見守っているだけ。
何人かの部員たちは事前に相談したりもしたし、今も目線で助けを求めているが、美沙顧問たちはそれらを流し、静観を貫いている。
まるで『自分たちで解決しろ』と言わんばかりの無言の圧が、二人からは発せられていた。
「……絶対やばいって」
「……うん、やばい」
「……こんなこと初めてだよね」
「……お前たちを信じてるってやつ?」
「……なんか胃が痛い」
そんなミーティングが終わり、各自が部屋に戻っていく。
千尋、明日香、玲奈は、今回も同じ部屋だった。
だがその部屋は、かつて三人の笑い声で満ちていた場所とは到底思えないほど、冷たく静まり返っていた。
明日香は部屋に入るなり自分のベッドに潜り込み、完全に背を向けてしまった。
玲奈はすぐにPCデスクでノートパソコンを開き、ヘッドホンで耳を塞ぐと、データの世界に没入する。しかしその指は何度も止まり、画面をただ見つめているだけの時間も多い。
千尋は二つの背中を見つめ、立ち尽くす。
かける言葉が見つからない。
触れることすら躊躇われる。
かつては一つのベッドで眠ることもあった三人が、今は同じ部屋にいながら、手の届かない場所にいるように感じられた。
千尋はベッドに腰掛け、祈るように頭を抱える。
(ごめん……)
懺悔の言葉がふと浮かぶ。
(ごめん、ごめんね……)
何度も何度も謝罪が繰り返される内に、二人の笑顔が浮かぶ。
(明日香、玲奈……)
心の中で繰り返す謝罪は誰にも届かない。
浮かぶ笑顔はもう遠い昔のように感じられ、現実味が全くない。
窓の外では夜の闇が深まる。
明日は、決戦の日。
インターハイ本戦への切符をかけた、絶対に負けられない戦いが始まる。
しかし、絶対王者・白波女子学園水泳部は、その歴史上、最も脆く、最も冷え切った夜を、ただ静かに過ごすことしかできなかった。
崩壊したチームワーク。
断絶した三人の心。
そして、それぞれが『後悔』と『不安』という底なしの闇を抱えたまま、決戦の朝を迎えるのだった。
この後21:00にも追加で投稿します。




