第28話「壊れたチームワーク」
千尋の練習での日本記録更新から数日。
都予選は刻一刻と迫っていたが、白波女子学園水泳部の空気は重く、冷え切っていた。
原因は明白だった。
副キャプテンである朝倉明日香の深刻なスランプと、それに伴うチーム内の不協和音。
「はぁっ、はぁっ……くそっ!」
タイムアタックを終えた明日香は、壁を叩きつけんばかりの勢いでタッチし、水中で悪態をついた。
電光掲示板に表示されたタイムは、昨日よりもさらに遅い。
もはや、Sチームはおろか、Bチームのレギュラーメンバーにも劣るレベルだった。
プールサイドでデータを確認する玲奈は、そのタイムを無感情で記録すると、何も言わずに次のメニューへと視線を移す。
まるで、明日香の不調など存在しないかのように。
その冷徹なまでの無視は、明らかに意図的なものだった。
他の部員たちはどう反応していいのかわからず、遠巻きに見ているだけ。
今の明日香にはムードメーカーとしての面影はない。
そんな焦燥感と苛立ちを隠せない明日香に、誰も声をかけられずにいた。
「明日香、少し休憩しよ?」
インターバル中、千尋が意を決して声をかけた。
しかし、明日香は首を振り、千尋の目をまともに見ようとしない。
「平気。次、行ってくる」
「明日香……」
その拒絶のオーラは、千尋に痛いほど届いていた。
キャプテンとして、恋人として、何かをしなければならない。
そう思うのに、言葉が見つからない。
あの夜の練習で気持ちが通じ合い、お互いに笑顔になった記憶が嘘のように感じた。
玲奈も、以前のように明日香を叱咤するでもなく、ただ自分の仕事に没頭している。
(どうすればいいの……? 私が、どうすれば……)
千尋は、バラバラになったチームの中で、ただ一人、立ち尽くすような無力感に苛まれていた。
重い空気の中で行われた練習。
美沙顧問の檄が飛び、玲奈の的確な指示が飛ぶも、波に乗り切れない部員たち。
そんな空気の中で時間は進み、練習は終わる。
部員たちが帰り支度を始める部室。
軽い談笑は聞こえてくるが、いつものような活気はそこにはない。
明日香は誰とも言葉を交わさず、黙々と荷物をまとめていた。
「明日香」
千尋はそっと明日香の隣に立った。
「今日の練習……きつかったね。少し、話さない?」
その瞬間、明日香の中で何かが切れた。
「……話すことなんて、ないよ」
千尋の顔をまともに見られず、その優しい声を聞くと心が痛んだ。
その声の主を考えないようにして、帰り支度を再開する。
しかし、その声の主は諦めなかった。
「最近、ずっと無理してる。私でよければなんでも聞くから……」
千尋の手がそっと明日香の肩に置かれる。
「無理なんてしてない!」
肩の手が振り払われ、怒声が響く。
部員たちの動きが止まり、視線が一斉に集まる。
明日香が顔を上げた。
その瞳は涙で潤み、怒りと悲しみが入り混じった複雑な色をしていた。
「千尋にはわかんないよ! 私の気持ちなんて!」
「明日香……」
「だって、千尋はすごいもん! どんな時だって結果出すし! 私みたいに溺れたりもしない!」
その言葉は、憧れではなく、嫉妬と絶望の色を帯びていた。
「そんなことは——」
千尋が言いかけた言葉を、明日香の叫びが遮った。
「もうチームには私より、玲奈の方が必要なんでしょ!!」
涙が、明日香の頬を伝って床に落ちる。
「データがあって、冷静で、千尋のことを一番分かってる玲奈がいればそれでいいんでしょ!?」
「……」
「私みたいなただうるさいだけの脳筋なんて、もういらないんでしょ!?」
部員たちが息を飲んで二人を見つめている。
だが、明日香の目にはもう、千尋しか映っていなかった。
その瞳は、責めるような鋭さを持ち、千尋を捉えて離さない。
向けられたことのない視線に、千尋は言葉を失う。
その言葉を否定したかった。
そんなことあるはずない、明日香が誰よりも必要だと伝えたかった。
あの夜に伝えた気持ちは本物だし、偽りのない本心。
しかし、あまりにもまっすぐな明日香の悲痛な叫びを前に、声が出ない。
誰も気付かない。
更衣室のドアがわずかに開き、途中で止まっていたことに。
ドアの向こう側。
廊下の影では、玲奈が立ち尽くしていた。
美沙顧問とマネージャー組で現状について話し合いが行われており、マネージャー組は遅れて帰ってきたのだ。
そして——明日香の叫びの全てを聞いてしまった。
『もうチームには私より、玲奈の方が必要なんでしょ!』
その言葉が、玲奈の胸に深く突き刺さった。
(違う……私は、そんなつもりじゃ……)
玲奈は、千尋の隣に立つために、千尋を支えるために、『完璧なマネージャー』であろうとした。
それが千尋の支えになり、チームの支えになると信じていたから。
だが結果的に、明日香の感情を無視し、データと理論だけを突きつけた。
その結果が、これだった。
自分が信じた『正しさ』が明日香をここまで追い詰め、チームを壊している。その現実が、玲奈の目の前に突きつけられたのだ。
(私が……チームを……壊した……?)
玲奈の顔から血の気が引いていく。
タブレットを持つ手が震え、カタカタと音を立てた。
足元がおぼつかず、壁に手をつかなければ立っていられない。
「篠原先輩!?」
後輩マネージャーが玲奈を支え、オロオロする。
「……」
玲奈の口から言葉は出なかった。
自分の正しさが招いた残酷な現実が、その肩に重くのしかかる。
玲奈は、深い絶望の淵へと、突き落とされるように感じていた。
室内では、感情があふれ出して泣きじゃくる明日香を、千尋がただ抱きしめている。
玲奈にはわからなくなった。
なにが正しくて、なにが間違っているのか。
壊れてしまったチームワーク。
三人の関係は、これまでにないほど深く、深く、傷ついてしまった。
そして、部員たちもまた、その混乱に巻き込まれる。
バックを落とす者、歯軋りをする者、もらい泣きをする者——それぞれに深い共感を示し、揺さぶられていた。
都予選を目前に控えた白波女子学園水泳部は、今ここに、最大の危機を迎えていた。




