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ドンと恋!〜 私たちのStarting Block 〜インターハイで日本新記録を出したら表彰台で公開告白されました。  作者: 空知美英
3章:崩壊へのプレリュード

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第27話「それぞれのタイム」

雨上がりの翌日。

屋内プールには、いつも以上に張り詰めた空気が漂っていた。

都予選が間近に迫り、練習メニューはタイムアタック中心へと移行している。

電光掲示板には、リアルタイムで選手たちのラップタイムが刻まれていた。


「次、Sチーム、フリー200、ハード! 1コース、堂島!」


玲奈の声が、マイクを通してプールサイドに響く。

その声は、昨日までの揺らぎは微塵も感じられない、完璧なチーフマネージャーの声だった。

千尋はスタート台に立ち、深く息を吸う。


(集中。今は、自分の泳ぎにだけ——)


昨日の明日香の背中、そして傘の中で触れた玲奈の肩の熱——それらが脳裏をよぎるが、千尋はそれを振り払うように軽く頭を振る。

今の自分に出来ることは、美沙顧問に言われた『結果で示せ』ということだけ。


ピッ——!


スタートの合図と共に、千尋の身体が水面に吸い込まれる。

そのフォームには迷いがなく、力強く、そして美しい。

水を得た魚——いや、水そのものになったかのように、滑らかに水を切り裂いていく。

50メートル、100メートル——。

ラップタイムが表示されるたび、プールサイドで見守る部員たちから小さなどよめきが起こり、客席のファンクラブからは控えめな歓声が上がる。


「速い——!」

「自己ベスト、出るんじゃ……?」


150メートルをタッチし、最後のターン。

ラストスパート。

スッと浮上し、静かながらも、圧倒的に力強いストローク。

世界レベルの泳ぎは力強さを増し、他の選手を引き離していく。


(——これで!)


手が伸び、ゴールのタッチ。

電光掲示板に表示されたタイムに、歓声が上がった。


〈 堂島千尋 1:53:93 〉


記録会で出した自己ベスト——日本記録を『0.02』更新する驚異的なタイムだった。


「はぁ、はぁぁぁ……っし!」


千尋が小さくガッツポーズをすると軽く水しぶき上がる。

自分の泳ぎに集中できた、結果も出せた。

プールから上がり、後輩マネージャーに渡されたタオルで身体を拭く。

自己ベストのタイムが消えるまで電光掲示板を見つめていた千尋だったが、次に表示された名前にハッと我に返る。


〈 朝倉明日香 〉


千尋の胸にあった達成感が消え、一抹の不安が湧き上がる。


「次、3コース、朝倉!」


玲奈のコールが響く。

明日香がスタート台に立った。

しかしその表情は硬く、目は虚ろに水面を見つめている。

どう見ても、これから泳ぐ者の表情ではなかった。

千尋は明日香のその横顔見つめ、唇をかむ。

昨日の雨の中の出来事から、彼女はずっとこの状態なのだ。


(明日香……)


千尋は心配そうに見つめるが、声をかけることはできなかった。

もうスタートの笛が鳴る。

どんな感情を持ってるにせよ、このタイミングで『選手』に声を掛けることは出来ない。

それに、今の明日香には、どんな言葉も届かない気がしていた。


ピッ——!


明日香の身体が水に飛び込む。


(ズレてるよ……明日香……)


その動きは明らかに精彩を欠いていた。

いつものようなダイナミックな飛び込みではなく、一搔き一搔きに躊躇いが感じられる。

距離が進むと、その違いは顕著になっていく。

ストロークは力任せで空回りし、キックのリズムもバラバラだった。

水を掴むのではなく、ただ叩いているだけ。

焦るような動きで身体は大きく沈み、フォームがどんどん崩れていく。


(なんで——! 水が、重い——!?)


明日香の心は叫んでいた。

目の前で出された千尋の圧倒的なタイムが脳裏をよぎる。

そして、雨の中の光景。

一つの傘の下。

千尋に寄り添う玲奈の頬の赤みと、見たことのない笑顔。

それらがまるで鎖のように彼女の身体に絡みつき、水底に引っ張っていた。


(クソォォォ——!!)


玲奈はそんな明日香の泳ぎを無表情で追っている。

手元のタブレットには、千尋の完璧なデータが表示されているだけ。

明日香のラップタイムが平凡な数字を刻んでも、彼女の指は動かない。それはまるで、明日香が『そこに』存在しないかのような態度だった。


「——ッ、はあっ!!」


壁にタッチした明日香は勢いよく顔を上げる。

そして、表示されたタイムを見て唇を噛み締めた。

自己ベストには程遠い、平凡以下のタイム。

白波の一年生どころか、一般高校生レベル凡庸なタイム。

プールから上がった明日香は、渡されたタオルで身体を拭くことも忘れ、項垂れる。


「明日香、今の泳ぎ、どういうつもり?」


そんな明日香に、玲奈が冷たく言い放ち、ストップウォッチを突きつける。


「フォームがめちゃくちゃ。最初から最後まで力みすぎ」

「……」

「これじゃ、話にならないわ」


その声には同情も心配も乗っていない。

まるで、事実を告げるだけの機械のような声だった。


「——わかってる!!」


明日香は声を荒らげた。


「ちょっと調子が悪かっただけ!!」

「これは調子が悪いで済むレベルじゃない」

「……」

「今の状態じゃ、都予選のリレーメンバーからも外すことになるわよ」

「なっ!?」


玲奈の言葉は、ナイフのように明日香の胸に突き刺ささり、抉り込む。


(私がリレーメンバーから外される?)


一年生の頃からリレーメンバで、チームの主力だった明日香。

千尋がリレーメンバーに入ったときから、ずっと隣に立って、一緒に泳いできた。

自分がいないリレーメンバーの光景が、明日香の頭に浮かぶ。

明日香の代わりに千尋の横に立っていた人物——それは選手ではなく、玲奈だった。


「ふざけ——!!」


右手が動き、身体が前のめりになる。

しかし、玲奈は臆することなく、冷静に告げる。


「なによ、当たり前でしょ」

「!?」

「こんな醜態さらして、千尋の隣の立てると思ってるの?」


身体が硬直し、頭が真っ白になる。


「自分の泳ぎも出来ない、管理も出来ない。そんな『選手』が同じ舞台に立てるはずないじゃない」

「……」

「わかった?」


ぐっと目を伏せ、声を絞り出す。


「……わかった」


明日香はそれ以上何も言えず、濡れたままプールサイドを後にした。

そのやり取りと震える背中を、千尋はただ見つめることしかできなかった。

玲奈は去っていく明日香の背中を一瞥すると、すぐにタブレットに向き直り、千尋のデータ分析を再開した。

その横顔に、以前のような迷いや葛藤の色はもうない。

千尋のためにデータをまとめ、千尋の隣で支え続ける。

今の玲奈には、それを遂行するための冷徹なまでの集中力だけが宿っていた。

圧倒的な才能で輝きを増す千尋。

焦りと嫉妬で深いスランプへと沈む明日香。

そして、千尋のデータだけを見つめ、明日香の苦しみから目を逸らす玲奈。

三人の間にある残酷なまでの『役割の差』と心の溝が、この日のプールサイドで明確になるのだった。

この後21:00にも追加で投稿します。

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