第25話「私の決意」
夜。
月明かりと、街灯が所々照らすだけの帰り道。
明日香はプールからまっすぐ帰寮した。
千尋はプールの鍵を返すために教員用居住区に寄り、美沙顧問に直接プールの鍵を返却、今夜のお礼を述べた。
(最近は顧問に迷惑かけっぱなしなだな、私……)
千尋は、キャプテンに就任してからこれまでの出来事を振り返り、若干憂鬱になる。
この短い期間——特に最近は、ひどく迷惑をかけていると感じていた。
明日香と玲奈の喧嘩から始まった水泳部の雰囲気悪化。そして今日も、急な外出許可とプールの時間外使用。キャプテン権限の乱用といわれても仕方なかった。
(でも……)
さきほどの秘密練習は、明日香の心を解きほぐせたように感じている。
(あとは、玲奈との関係が元に戻れば、『いつもの日常』になるはず……)
チーム全体のぎこちない空気は自分たちのせいだと、千尋はわかっていた。
だから、急であっても明日香との時間を取った。
次は、玲奈とちゃんと向き合う必要があると思っている。
記録会で倒れて以来、玲奈は完璧なチーフマネージャーとして振る舞い続けていた。
しかしその完璧さが、千尋には痛々しい壁のように感じられた。
(玲奈、どうしたんだろう……)
記録会では三人で認め合い、和解したように思っていた。
だが、練習復帰後はまた壁を作り、素っ気ないない態度を取られている。
(……やっぱり、しっかり話そう。明日香みたいに、きっとわかってくれる……)
寮の自室のドアを静かに開ける。
明日香は既に自分のベッドで穏やかな寝息を立てている。
そして、千尋たちが外出する前は寝ていた玲奈は——。
パソコンデスクの小さなスタンドライトが点いており、玲奈はそこでヘッドホンを被り、タブレット作業をしていた。
(起きたんだ、玲奈……)
千尋は玲奈の背後にそっと近づき、タブレット画面をのぞき込む。
画面には、次の都予選に向けた対戦校のデータ分析がびっしりと表示されていた。その集中力は凄まじく、千尋がすぐ後ろにいることに全く気づいていない。
「玲奈」
声を潜めて呼ぶと、玲奈の肩が小さく跳ねた。
ヘッドホンを外し、驚いたように振り返る。
「ち、千尋……」
「ごめん、起こしちゃった?」
「大丈夫。気になることがあって、ちょっと確認してただけだから」
「無理しないでね」
「……千尋」
「なに?」
「どこに行ってたの?」
玲奈は明日香に軽く視線を向け、千尋の目を見る。
その問いに、千尋は一瞬言葉を詰まらせた。
千尋から「玲奈には内緒」と言って明日香を夜のプールに誘ったのだ。ここでバラしてしまっては、明日香との約束を破ることになる。
軽く息をのみ、千尋の口から出た言葉は——。
「……ちょっと考え事。眠れなくて、外の空気を吸ってただけだよ」
「そう……考え事、ね……」
嘘をついたことに、胸が小さく痛んだ。
玲奈は追求することもなく、スッとタブレットに視線を戻した。
その壁を感じさせる態度に、千尋は思わず言葉を続けた。
「玲奈は……大丈夫?」
「何が?」
「体調もそうだけど……色々、無理してないかなって」
玲奈の手が、一瞬だけ止まる。
「問題ないわ。言ったでしょ、これが私の仕事だって」
「うん……分かってる、分かってるけど……」
千尋は言葉を探すように、少し俯いた。
プールの塩素の匂いが、まだ自分の髪に残っているのを感じる。
「チームの空気が良くないのは、私のせいだと思うんだ」
「千尋のせいじゃないわ」
玲奈はタブレットに視線を落としたまま、即座に否定した。
「私と……明日香のせいよ……」
「でも、きっかけは私にある。私がもっとしっかりしていれば、二人があんな風にぶつかることも……玲奈が倒れることもなかったかもしれない」
キャプテンとしての責任感と、親友としての罪悪感。
それが千尋の心を重くしていた。
「玲奈がいてくれないと、私……正直、すごく不安になる時があるんだ」
「……私がいなくても大丈夫よ。白波には優秀なマネージャーやコーチがたくさんいる。水瀬さんだって、すごく頑張って急成長してる」
玲奈は努めて冷静に、事実だけを述べようとする。
まるで、タブレット画面に映る文字を読み上げるように。
しかし、千尋にはその声が微かに震えているように感じた。
「うん、わかってる、他のマネージャーも頼りにしてる。でもね——」
千尋は顔を上げ、椅子の背もたれごと玲奈を抱きしめる。
「ッ——」
「玲奈がいると、安心するんだ」
その言葉は、深夜の静寂の中に、驚くほどはっきりと響いた。
「どんなにすごい記録を出しても、チームが勝っても……玲奈が隣で冷静にデータを見ててくれないと、どこか足元が覚束ない」
「ちひ——」
「私が白波のキャプテンとして前を向いて歩けるのは、玲奈が後ろでしっかり支えてくれてるから。いつもありがとう、玲奈」
それは、千尋の偽らざる本心だった。
恋人である明日香への想いとは違う、絶対的な信頼を玲奈に寄せている。
それは、パートナーとしての、唯一無二の存在証明だった。
「……」
玲奈は何も言えなかった。
ただ、千尋の言葉と腕の温もりが、心の奥底——ずっと蓋をしてきた場所に、熱い楔のように打ち込まれるのを感じていた。
(私の支えをわかってくれてる……? 私がいると、千尋は安心する……?)
明日香にはない、自分だけの価値。
それが今、千尋自身の口から、これ以上ないほど明確な言葉で肯定された。
(私は……千尋にとって、必要な存在なんだ……)
尊敬でも、畏敬でもない。
『安心する』という、温かくて、揺るぎない感情。
それが、玲奈の心を強く満たしていく。
(だったら——)
玲奈の中で、何かが音を立てて形を変えた。
これまで自分を縛ってきた『チーフマネージャー』という役割、『親友』という立場。それらが千尋への強い想いと結びつき、一つの確固たる意志へと昇華していく。
(ただ支えるだけじゃない。千尋が安心できる場所として……千尋の一番近くに、『私』が、ずっといなくちゃいけない——!)
「玲奈?」
黙り込んだ玲奈を、千尋が心配そうに覗き込む。
「……なんでもない」
玲奈は感情の爆発とは裏腹に、平静を装い、小さく微笑み、千尋に振り返る。
「ありがとう、千尋。その言葉だけで、私はまだまだ頑張れるわ」
その笑顔は、いつもの冷静なマネージャーのものではなかった。
どこか決意を秘めた、強い光を宿していた。
「そっか。良かった……。でも、無理だけはしないでね」
「ええ、ありがとう。もう夜も遅いし、千尋も早く休んで。体調管理も選手の仕事よ」
「それじゃ先に休むね。おやすみ、玲奈」
「おやすみなさい、千尋」
千尋は自分のベッドに入り、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。
その顔はどこか憑きものが落ちたように、スッキリとしたものだった。
玲奈は二人の寝息を聞きいてタブレット画面を落とすと、千尋のベッド脇にスッと移動し、その顔を見下ろす。
「……」
玲奈は千尋の寝顔を見つめ、頬を染めて妖艶に微笑む。
そして、先に帰ってきて幸せそうに眠る明日香の顔と交互に見つめ、ぎゅっと拳を握りしめる。
玲奈だって馬鹿じゃない。
二人で夜遅くに外出して、別々に帰ってくる。
一人は幸せそうな顔ですぐに眠り、もう一人は適当な嘘でごまかし、憑きものが落ちたようにすぐに眠りつく。
散々二人の情事を横で聞かされてきた玲奈には、今夜なにがあったのか、すぐに見当がついた。
明日香から千尋の匂いがする。
千尋から明日香の匂いがする。
二人の『それ』が頭に浮かんだ玲奈は、みるみる表情を変えていく。
(明日香……あんただけにはもう譲らない……! 千尋の一番は、私なの……!)
千尋の『安心』という言葉が、玲奈の『恋心』を確信に変えた瞬間だった 。
この静かな決意を、二人はまだ知らない 。
三人の関係は新たな局面へと、大きく舵を切り始めていた。
この後21:00にも追加で投稿します。




