第24話「二人の秘密練習」
玲奈との衝突と『イルカ練習』騒動から一夜明けた放課後。
公式の練習メニューが終わり、部員たちがまばらにクールダウンや自主練に励む中、明日香は一人、プールサイドの隅でストレッチをしていた。
その背中にはいつもの太陽のような明るさはなく、どこか小さく見えた。
「明日香——」
不意にかけられた優しい声に、びくりと肩を揺らして振り返る。
そこには、練習水着のままの千尋が立っていた。
「……千尋、おつかれ」
「うん、おつかれさま。まだ残るの?」
「んー、まあね。ちょっと泳ぎ足りないっていうか、なんというか……」
明日香は言葉を濁し、視線を水面に落とす。
昨日、玲奈に『非科学的』と一蹴された自分の『感性』。
そして、玲奈が見せた完璧な『支える力』。
その二つが、明日香の心に重くのし掛かっていた。
「はぁー……」
ついため息が漏れる。
軽く頭を振り、ストレッチに集中する。
千尋はそんな明日香の隣に黙って座ると、静かに切り出した。
「ねえ、明日香」
「ん?」
「今日の夜……少しだけ、付き合ってくれないかな」
「え、デート?」
「まさか。練習だよ」
千尋は悪戯っぽく笑うと、声を潜めた。
「玲奈には内緒だよ」
その言葉に、明日香は目を丸くした。
玲奈には内緒の、二人だけの練習——そんなこと、これまでは一度もなかった。
「ど、どういうこと……?」
「明日香が昨日言ってた『感性』? ちょっと興味あるんだ」
「千尋が、感性?」
「うん、感性」
嘘だと明日香は思う。
千尋は誰よりも理論と実践を重んじるスイマー。
美沙顧問に見いだされて鍛えられ、玲奈によって昇華した泳ぎ。
そこに、明日香のような『感性』が入り込む余地があるとは思えなかった。
本来の千尋であれば、昨日の『イルカ』を肯定するはずがない。
「……私に、気ぃ遣ってくれてんの?」
「うん、遣ってる。だって、明日香は私の大事な恋人だもん」
千尋は明日香の手をそっと握る。
その温かさは、明日香の渇いた心にじんわりと広がっていくようだった。
「千尋……」
「それに……玲奈のやり方が全てじゃないって、私も思うから」
「え?」
「明日香の『感覚』がチームの新しい力になるかもしれない」
「そんなことは——」
「わからないでしょ。だからさ、二人で試してみようよ」
それは、千尋なりの最大限の歩み寄りだった。
玲奈の『データ』と明日香の『感性』。
千尋にはどちらも否定出来ないし、どちらが正しいかはわからない。
これは、落ち込んでいる恋人を元気づけたいという、純粋な優しさ。
そこに、技術や理論はいらなかった。
「……千尋の、ばか……」
「褒め言葉?」
「ばか、ばか……」
明日香の頬に涙の線がスッと走る。
「練習、付き合ってくれるだけで嬉しいのに……あんな、訳わかんない練習まで付き合ってくれるなんて……ばかだよ……」
「バカじゃないし、訳わかんなくないよ」
「千尋……」
「明日香が信じてるものは、私も信じたい」
千尋は握った手に力を込め、優しく微笑む。
「だから、夜10時。ここで。いい?」
「……うん!」
明日香は涙をぐっと堪え、力強く頷く。
二人は一緒にクールダウンし、軽くシャワーを浴びて帰寮した。
***
夜10時。
寮の自室で玲奈が既に眠りについているのを確認し、二人はそっと部屋を抜け出した。
月明かりだけが差し込む屋内プールは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
「なんかドキドキするね、明日香」
「悪いことしてるみたいだもんねー」
「確かに」
「こんな夜に出歩くなんてとんだ不良少女だよ、千尋君」
「君も同罪だよ、明日香君」
二人は手を繋いで指を絡め、くすくすと笑い合いながらプールサイドに立つ。
ひんやりとした空気と、塩素の匂いが二人を包む。
「それで、何をすればいいの? イルカ?」
「うっ……昨日はゴメン。あれは、ちょっとどうかしてた」
「あ、やっぱり?」
「うん、変なテンションになってた」
「でも、可愛かったよ」
「いやいや」
「こう、『キューイ!』って」
「ちょ、もういいって、はずい」
明日香はバツが悪そうに頭をかいた。
「今は普通に泳ぐ」
「うん」
「タイムとかフォームとか、そういうの全部忘れて——」
「うん」
「気持ちいいって思える泳ぎをするだけ」
「うん」
「それだけ」
「わかったよ」
千尋は静かに頷くと、明日香より先に水に入った。
「まずは、一緒にゆっくり泳ごうか」
千尋がプールの中から手を伸ばし、抱き寄せ寄せるように明日香を引き込む。
「ん——」
水の中で軽く抱き合い、静かに唇が重なり、ゆっくり離れる。
千尋は明日香の頬を優しくなで、軽くつねる。
「今はこういうことしない」
「手を引いたのは千尋の方じゃん」
「抱きついてきたのは明日香だよ」
「美味しそうな唇をしてるのが悪い。んー」
「だからしない。ほら」
「はーい」
頬を染めた二人は隣同士のレーンで、静かに水をかき始める。
超スローペースの平泳ぎ。
競い合うでもなく、教えるでもない。
隣を見ると千尋がいた。
隣を見ると明日香がいた。
二人はただ笑い合い、互いの水音と呼吸のリズムを感じながら水をかく。
時折、千尋が「今の、すごく伸びやかで綺麗だった」と声をかける。
明日香は「ほんと?」と嬉しそうに返し、また水をかく。
データも理論もない。
感じたままに泳ぐだけ。
信頼する恋人の言葉だけが、明日香の感覚を研ぎ澄ませていく。
少し泳いで、少しプールサイドで談笑する。その繰り返し。
そして、何度目かのプールサイド。
「……ねえ、千尋」
プールの壁に寄りかかり、息を整えながら明日香が呟いた。
千尋は無言で笑顔を向け、言葉の続きを待つ。
「私さ、やっぱり玲奈みたいにはなれないや」
「うん」
「玲奈みたいに、頭良くないし」
「うん」
「チームのこととか、データとか、難しいことはわかんない」
「うん」
「私にできるのは……千尋の隣で、一緒に泳ぐことだけ」
その声は、諦めではなく、どこか吹っ切れたような響きを持っていた。
千尋は明日香の肩に手を回し、引き寄せる。
「それでいいんだよ」
「そっか……」
明日香の頭が千尋の肩にもたれかかる。
千尋は明日香の濡れた髪を何度も手櫛し、優しく整える。
「こうやって明日香を感じるだけで、私は安心する」
「うん」
「それが、明日香だけの『支え方』なんだよ」
「私の『支え方』……そっか……」
「今、すごく支えられてる気がするよ」
「千尋……」
「明日香、大好きだよ」
「私だって、大好き。ん——」
二つの影が一つに重なり、水の流れも、空気の流れも静かに過ぎていく。
水面が小さく揺れ、月明かりが二人のシルエットを淡く照らす。
甘く、穏やかな時間。
それは、誰にも邪魔されない、二人だけの世界だった。
(この時間が、ずっと続けばいいのに——)
お互いの温もりを感じながら、夜空に浮かぶ月を見上げる。
二人が見たのは綺麗で澄みきったな夜空。月光が影を強くする夜。
しかし、一つになった二人の影は、徐々に薄くなっていくのだった——。
この後21:00にも追加で投稿します。




