第1話「自己新は恋のはじまり」
白波女子学園・屋内プール。
天井の最新式LEDが水面に煌めき、波紋に合わせて光が揺れている。
5000人規模の観客席には200人以上の制服女子がずらり。
それは毎日のように行われる水泳部名物、ファンクラブによる応援だった。
試合でもないのに横断幕が垂れ下がり、そこには大きく《ドンとこい!千尋先輩♡》の文字。そして屋内に響く黄色い歓声。
「静かにしろー、お前らー」
歓声を消すかのように笛が大きく鳴る。
水泳部顧問の白波美紗。
オリンピック一大会で金メダル3、銀メダル3を獲った、日本水泳界のレジェンド。
スタート台の横で腕を組み、笑みを抑えながら声を張る。
「堂島、フリー二百。本気の一本、いけるな」
「はい!」
「よし。電子計測、掲示板を入れろ」
堂島千尋。
白波女子学園3年・水泳部キャプテン。
キャップをパチンと整え、ゴーグルをぐっと閉める。
スタート台に足を掛け、呼気を一つ、長く吐く。
頭に描くのは、肩で水を切るイメージ。
ピッ――!
千尋の身体が刃のように水へ吸い込まれ、水が裂け、泡が尾を引く。
最初の十五メートル、入水角度よし。
伸びる、伸びる――肩と広背筋がリズムを刻み、ストロークが水を掴むたびに、身体がひと押し前へ。
(落ち着け。一本一本。次のターンで——)
観客席がざわめく。
「キャプテン速い!」
「入水綺麗っ!」
ストローク数は意図通りだった。
呼吸は二か三か――。
千尋は横目に壁をとらえ、タッチ板を蹴って折り返す。
水面の下、足先から弾けた推進が背骨に通り、胸郭がひらく。もう一度、肩甲骨を滑らせる。
腕が水を掻くたび、音のない拍手のように水が割れた。
(ラスト五十。いける——!)
最後のターン。
壁、タッチ、反転。キックを三つ刻み、水面に浮上――スッと顔が出る。ここからは呼吸を極力絞り、腕の回転数を一段上げる。世界が水と数字だけになる。
タッチ板に指先が触れた瞬間、電光掲示板が赤く点滅した。
「プハッ!」
〈 堂島千尋 1:54:09 〉
一拍の静寂、そして爆発。
「きゃーーーーー!!」
「09!!」
「自己新!」
「やったー! 堂島せんぱーい!」
観客席が総立ちになる。
ペンライトと手作りうちわが揺れ、双眼鏡で覗く子、スマホで写真を撮る子が入り乱れる。その様子はまるでライブ会場だった。
「出たな、自己新!」
顧問の白波美紗が満足げに頷く。
「流石ね。セカンドラップも素晴らしいわ」
副顧問の高城麗子がストップウォッチを確認して微笑む。
「千尋ーっ!!」
タオルを抱えたひとりの少女がスタート台の脇から身を乗り出す。
朝倉明日香。3年生。
千尋の恋人であり、副キャプテン。
直情的で、居るだけで周りが明るくなるムードメーカー。
「すごかったよ、千尋!」
「はぁ、はぁ……っ、ほんと?」
「うん! ほら、手」
「ありがと」
水面から上がる千尋の手を、明日香がぐっと引き上げる。
次の瞬間、彼女は濡れたままの千尋に抱きつく。
「ちょ、明日香——」
「ご褒美だよ!」
千尋の濡れた唇に被さるように、明日香の唇が重なる。
「ん———」
目が重なり、舌が触れ合う。
「きゃーーーーーー!!!」
「尊い!」
「キタコレ!!」
「今日の会報は特大号よ!」
「写真写真写真————!!」
千尋は耳まで真っ赤にしながらも、すべてを拒まない。
しかしそのとき、一枚のタオルが二人の頭に降りかかる。
「そこまでよ、バカップル。練習の邪魔。あと、さっさと体を拭きなさい」
篠原玲奈。3年生。
千尋と明日香の大親友。
口は悪いが、誰よりも律儀な水泳部のチーフマネージャー。
「野暮な玲奈。千尋の自己新お祝いを邪魔するなんて」
「ふん」
「明日香、玲奈の言う通りだよ。タオルありがとう、玲奈」
「わかればいいのよ。私はチーフマネージャー。千尋のことは応援するけど、部のためになることをするだけだから」
「だね。いつもありがとう。行こう、明日香」
「ほーい。あ、私が拭いてあげるからタオル貸してよ」
「ありがとう、明日香。はい」
「ふふふ、隅々まで拭いちゃうんだからねー」
「今はダメ。あとで」
「あとで? 絶対だからね! 大好き!」
「私も大好きだよ、明日香」
千尋は明日香に体を拭かれながらベンチに下がっていく。
「……本当に、バカップルなんだから」
玲奈の手にある記録紙がわずかに歪むが、すぐに元に戻る。
ピィー! 顧問の美紗が笛を軽く鳴らす。
「青春なのはいいが練習を続けるぞ! 堂島。ナイスな一本だった!」
「ありがとうございます」
千尋が頭を下げると、観客席から「礼儀まで尊い!」という謎の悲鳴があがる。
玲奈は馬鹿らしいと愚痴り、マネージャーモードに切り替わる。
「はい、クールダウン入るわよ。フリー四本、リカバリで。掲示板オフ、タッチ板はそのままで」
「流石だ篠原。ほら、再開再開!」
「「はい!」」
笛がもう一度鳴り、部員たちが次のセットへ散っていく。
***
千尋と明日香はベンチで並んでいた。
タオルで髪を拭かれる千尋だが、その距離はやたら近い。
「じっとして。はい、うつむいて……そう、耳の後ろがまだ……」
明日香が指先で千尋の髪をすくい上げ、タオルでやさしく押さえると、ふいに視線が合う。
二人とも小さく息を呑み、指を絡めてじっと見つめ合う。
千尋の前髪と額には、まだ水滴が残っていた。
「きゃーー!」
「二回目!」
「尊い……」
観客席の女子たちが友達の肩をばんばん叩いて悲鳴を上げる。
「ほんと、学園のアイドルよね、千尋は」
玲奈がバスタオルを片手に現れ、千尋の顔と髪をゴシゴシ拭く。
態度や口調は冷たいが、目はやわらいでいた。
「遅くなったけど、自己新、おめでとう」
「ありがとう、玲奈」
「千尋はいいけど、明日香はこれ」
「モップ……って、嘘でしょ。今日は当番じゃ——」
「やる」
「はぁ……。わかった、わかりましたー」
明日香のモップを引きずる姿を、千尋は笑顔で見送る。
そこへ、ファンクラブの生徒が控えめに近づいてきた。
ネクタイのラインが2本、二年生の証。
その腕には、ファンクラブの役員証である腕章が誇らしく光っていた。
「ど、堂島先輩!」
「なに?」
「今日の練習の写真、会報に使ってもいいでしょうかぁ!」
「う、うん。遠慮なく使っていいよ」
「ありがとうございます! あの、で、できれば私とも、“タオルで髪を拭き合うシーン”を——」
「却下ぁ!」
玲奈の手刀がすっと出て、言葉を遮る。
「練習の写真はOK。でもプライベートは節度を守るようにって、いつも言ってるでしょ」
「は、はいぃ……!」
2年生が慌てて下がると、観客席が一瞬ざわめく。
「玲奈先輩、こわ……でも、そこがカッコいい……」
玲奈はそんなセリフを聞き、大きく息を吐く。
千尋はそんな様子を見て再び笑顔になり、軽く笑いながら口を開く。
「いつも助かるよ。私、どこまでOKなのか分かんないからさ」
「だから私がいるんでしょ。キャプテンを守るのが仕事の一つなの」
玲奈が目を逸らして呟いた「そう、キャプテン、だからね——」という言葉は、水音にかき消されるように、誰にも届かない音となって消えたのだった。
***
夕焼けがガラス越しに長く差し込む。
練習が終わって更衣室に戻る途中、掲示板の前に人だかりができていた。
今日のタイムとラップがプリントされて貼り出されているのだ。
「やっぱ次元が違うよねー」
「次のインハイ、何冠行くかな……」
「フリーで全部とか?」
「水泳星人じゃん!」
「ルールブレイカー!?」
千尋はガヤガヤしている人だかりをスッと抜ける。
「ほら、すぐに着替えるよ。この季節はまだ冷えるから」
玲奈が先回りし、更衣室の扉を押さえて待っていた。
「ありがと」
千尋は更衣室に入る前にチラッと掲示板へ目を向ける。
その目は数字ではなく、紙の端に書かれた落書きを追っていた。
『堂島先輩ならもっと速くなれます! FC一同より』
「……ねえ、玲奈。ファンってさ、ありがたいね」
「そうね。でもうるさい」
「うん、そうだね。私にはそれが嬉しいんだけど」
「お人好し」
「分かってる」
「まあ、そこが千尋の良いところなんだけどね。私が——」
「ん?」
「なんでもない。ほら、早く入る。明日香が待ってるよ」
「うん」
更衣室では着替えを終えた明日香がベンチに寝転がり、スマホを弄っていた。
「やっと帰ってきたー。美沙先生、なんて?」
「今日のタイムのことと、今後の調整について」
「それだけ?」
「あとは——」
「練習中に発情するな、よ。バカ明日香」
「えー、あんなもん、普通のスキンシップじゃん」
「どこがよ」
「お祝いだからちょっと長めにしただけだって」
「あれがちょっと長めですって?」
「そうそう。本当に長いキスっていうのは、こう舌を動かして——」
「気持ち悪いモノを見せるな」
「玲奈はさ、千尋のこと、もっと知りたくないの?」
「……知りたくないわけじゃないけど、それとこれとは話が別」
「無理しちゃって」
「この——ッ!」
「明日香も玲奈もストップ」
玲奈が丸めたノートを振り上げたところで、千尋が手を挙げる。
「キスのことは注意されてないよ」
「そなの?」
「玲奈が適当言ってるだけ。ねえ、玲奈」
「……ええ。私がムカついただけ」
「なんだそりゃ。ヤキモチ——」
「じゃないから。千尋は『なんでもドンとこい』って性格だから受け入れてるけど、あんたは少しぐらい自重しなさい」
「はぁ……」
「去年のインハイから付き合い始めたばかりなのよ。それが……もうこんな関係なんて不純すぎるのよ。同室の私の身にもなりなさい。明日香のせいで千尋まで淫獣のように見られたらどうすんのよ」
「淫獣って酷くない? 私たちはプラトニックな純愛を——」
「うっさい、淫獣。それもこれも——あ……」
千尋は玲奈が言うことにも一理あると思い、一人、耳を塞ぐようにして着替えていた。
玲奈が声を上げたのは、千尋が足を上げて水着を脱いだ瞬間だった。
「……」
「ん? 玲奈も早く着替えなよ。自分でも言ってたでしょ、まだ冷えるって」
「え、ええ、そうね。着替えを——」
「誰が淫獣だってぇ? ええ、玲奈さんよぉー」
「うっさい」
「あ、千尋ー、そのままこっち向いてー」
「ん?」
「撮るよー、ハイ、チーズ☆」
「(笑顔のVサイン)」
カシャ!
「いやー、新しいの欲しくてさ——って痛! そのノート硬すぎ!?」
「怒りが乗ってるからよ。更衣室でカメラを使うな。非常識にも程があるわよ」
ピロローン♪
「私のスマホ?」
玲奈は自分のスマートウォッチが振動するのを感じて画面を見る。
「は? 明日香? 目の前に居るんだから直接言いなさいよ」
「口じゃちょっとねー。それで怒りをお治めください、玲奈神様ぁぁぁ」
「はあぁ? なにを送ってきたのよ……」
玲奈はロッカーから自分のスマホを取り出し、着信通知を開く。
「——ッ、こ、これは今の!?」
「それで許して、ね?」
「……きょ、今日は引いてあげる。でも、今日だけだから」
「ありがとうございますー」
「スマホ弄ってないで玲奈も早く着替えなよ。本当に風邪引くよ」
着替えを終えた千尋は、真っ赤になってスマホを見ている玲奈に優しく声を掛ける。
これが三人の切っ掛け。
堂島千尋は高校日本一の水泳部キャプテン。世間からは怪物と呼ばれるスイマーであり、明日香の恋人。
朝倉明日香は副キャプテンで明るいムードメーカー。そして千尋の恋人。
篠原玲奈はチーフマネージャー。几帳面で強豪部における縁の下の力持ち。
この三人は寮でも同室の大親友。
しかし、三人の関係は、この日から徐々に変わり始めるのだった。
毎日12:00に更新予定!
お楽しみに!




