第22話「支える者の背中」
美紗顧問の檄から一夜。
白波女子学園の屋内プールは、張り詰めたような集中力に満ちていた。
都予選へ向けた強化メニューが始まり、選手たちの息遣いと水をかく音だけが、高い天井に響いている。
ファンクラブもこういった期間は大人しく観戦するのが伝統となっていて、うわさ話のざわめきも黄色い歓声も鳴りを潜め、今はじーっと推し選手を目で追っている。
ザバッと水が跳ねる。
千尋は50メートルを全力で泳ぎ切り、壁にタッチして息を整えた。
タイムは悪くない。むしろ、自己ベストに迫る勢いだった。
しかし、彼女の意識は隣のレーンを泳ぐ明日香と、プールサイドでストップウォッチを握る玲奈とに交互に向いていた。
「はあ、はあ、はあ……」
千尋が視線を向けても二人は変わらない。
お互いに言葉も交わさず、黙々と自分の『役割』だけをやっていた。
(明日香……)
明日香は鬼気迫る表情で、ただひたすらに水を叩きつけるような泳ぎを繰り返していた。
玲奈はフォームの乱れに気づいているはずなのに何も言わない。
タブレットに数値を打ち込むその指は、まるで感情のない機械のようだった。
ぎこちないトライアングル。
そのアンバランスな関係性が、チーム全体に揺らぎを生んでいることに、キャプテンである千尋は気づいていた。
(このままじゃ、『白波』が『白波』じゃなくなる……)
千尋が明日香に声を掛けようとした、その時だった。
インターバル走のスタートを管理していた1年生マネージャーの水瀬美羽が、悲鳴のような、切羽詰まった声を上げた。
「あっ、す、すみません! 次のセットのサークルタイム、入力ミスで……!」
Aチームの選手たちが、スタートのタイミングを失い、水中で戸惑いの表情を浮かべる。
強化練習において、時間のロスは泳ぎのリズムを乱すことになる。
このミス一つでその日の練習——最悪、ずっとリズムを崩すことだってありえるほどの重大ミス。
プールサイドの空気が一瞬にして凍りつく。
「水瀬ちゃん、大丈夫!?」
一番に反応したのは、隣で給水していた明日香だった。
彼女はプールから上がると、慌てる美羽の元へ駆け寄ろうとする。しかし、それよりも早く、静かな声が場を制した。
「落ち着いて、水瀬さん」
玲奈だった。
彼女は全く慌てていなかった。
そして怒ることもなく美羽の隣に立つと、その手からタブレットをこともなげに受け取る。
「Aチーム、全員聞いて。システムエラーよ。次のセットは私の笛の合図でマニュアルスタートに切り替える。インターバルは60秒。そのまま集中を切らさないで」
凛とした声に安心した選手たちは「はい!」と力強く応え、即座に体勢を立て直す。
その間、わずか数秒。
玲奈はタブレットを数回タップすると、エラーを修正し、何事もなかったかのように美羽にそっと返す。
「大丈夫、誰にでもあるミスよ。パニックにならず、まず報告すること。そして、どうすればリカバリーできるかを最優先で考える。それが私たちの仕事。わかった?」
「し、篠原先輩……!」
美羽は涙ぐみながら、深く頭を下げる。
玲奈は責める代わりに、その肩を一度だけポンと叩いた。
「反省は後。今は目の前の選手に集中しなさい」
その一連の流れを、明日香はプールサイドに立ち尽くしたまま、呆然と見つめていた。
(玲奈、すご……」
自分がやろうとしたことは、ただ慌てる後輩を「大丈夫だよ!」と励ますことだけだった。
明日香には問題の解決方法はすぐには思いつかなかった。
卒業した先輩がやっていたのは見たことがあっても、とっさには思いつくはずがない。
しかし、玲奈は違った。
問題の本質を瞬時に見抜き、選手たちを落ち着かせ、後輩のミスを静かにカバーし、そして——それを成長の機会へと変えてみせた。
それは明日香には決して真似のできない、『支える力』だった。
千尋の隣で笑い、一緒に泳ぎ、肌を重ねることはできる。
恋人として、千尋の『体温』を感じることは誰よりも得意で、誰にも真似できない、自分だけの特権だと思っていた。
だが、千尋がキャプテンとして背負うチームの重圧を、玲奈のように軽くすることは明日香には出来なかった。
勝利のために必要な無数のデータを、玲奈のように管理することはできない。
まして、目の前で起こったようなトラブルを、玲奈のように解決することなんて絶対にできない。
(そっか。私じゃ……ダメなんだ……)
明日香の脳裏に、ふと玲奈の言葉が蘇る。
『あなたは私が用意した舞台の上で泳いでいるだけじゃない!』
あの時はプライドが傷つけられて怒りしか感じなかった。
しかし、今の明日香にはその意味が痛いほどわかる。
あれは、紛れもない『事実』だったのだと——。
練習が終わって部員たちが解散していく中、明日香はその場から動けなかった。
玲奈がコーチや後輩マネージャーたちを集め、淡々と今日の反省会を始めている。
明日香にはその後ろ姿が、やけに大きく、そして遠く見えた。
「玲奈はまだ時間がかかりそうだね……」
部員たちに挨拶し、美沙顧問との話し合いを終えた千尋が明日香の隣りに並ぶ。
「先に帰ろうか、明日香」
千尋が心配そうに声をかける。
「……うん」
明日香は無理やり笑顔を作って頷く。
その笑顔がひどく歪んでいることに、自分でも気がついていた。
寮の部屋に戻っても、シャワーを浴びても、夕食を食べても、その気持ちが晴れることない。
どんどん自分の不甲斐なさや、玲奈の言葉が重くなっていくだけ。
明日香は玲奈の完璧な背中を思い出すたびに、鉛のような劣等感が大きくなるのを感じていた。




