第20話「恋人の微熱と、親友の平熱」
記録会の翌日。
寮の部屋は昨日までの喧騒が嘘のように、穏やかな空気に包まれていた。
部員たちは束の間の休日を堪能するように思い思いに過ごしている。
そして、自動販売機の前では1年生が二人、ジュース片手に談笑していた。
「ふう。記録会も終わったし、一区切りついた感じ?」
「キャプテンたち、今日はデートでもしてるのかな?」
「篠原先輩はまだ安静を命じられてるらしいし、部屋にいるんじゃない?」
「そういえば、カレント(千尋FC)も盛り上がってたよね」
「サンスプ(明日香FC)も盛り上がってたし、部屋に贈り物とかたくさん届いてそー」
「あ、私寄付した」
「私もー」
「……」
「……」
「めっちゃ届いてそー」
「あり得るー」
二人は笑い合う。
「今回はフルーツ系だから、部屋で『あーん』とかしてそう」
「してるしてる、絶対してる」
「羨ましいよねー」
「しいよねー」
「……外行く?」
「いこいこ、私たちも『あーん』したい」
「よーし、レッツゴー!」
「ゴー!」
二人はジュースを飲み干すと、腕を組んで白波ストリートに繰り出すのだった。
その頃、話題の人物たちは——。
「千尋、ほらほら」
「ん」
部員たちの予想通り、いちゃついていた。
しかし玲奈はまだ安静を命じられており、カーテンで覆われたベッドで横になっている。
部屋のローテーブルには、贈り物のカット済み果物の盛り合わせが置かれており、二人は隣り合わせで座って『あーん』をしていた。
「はい、千尋、あーん」
「ん……おいしい」
フォークに刺さったりんごを口に運んでもらい、千尋は嬉しそうな笑みを浮かべる。
それを見た明日香は誇らしげに微笑み返し、満足げに頷く。
「まあ、私が厳選したやつだからね!」
「うん、ありがとう」
二人の間には、いつもの恋人同士の甘い時間が流れていた。
まるで、あの夜以前の二人の関係のように。
明日香は横になっている玲奈が見えていないかのように振る舞い、千尋も特に違和感をもたずに受け入れている。
千尋から見た明日香はいつも通りの明日香だった。
あの大会を経て仲直りできた——千尋は本気でそう思っていた。
「ほら次これ、はい、あーん」
「ん——」
そして、ブドウを手づかみで口に運ばれる瞬間だった。
コンコンと、控えめなノックの音。
「はーい」
『あ、1年の、み、水瀬です』
「水瀬さん? どうぞー」
『し、失礼します!』
入ってきたのは、1年生マネージャーの水瀬美羽だった。
その手には、お盆に乗せられたお粥とスポーツドリンクが置かれている。
「キャプテン、副キャプテン、失礼します。篠原先輩のお食事、お持ちしました」
「もうそんな時間なんだ。ありがとう、水瀬さん。重かったでしょ」
「あ、いえ! これが私の仕事ですから!」
美羽は、どこか玲奈を彷彿とさせるキリッとした表情で言うと、千尋にお盆を渡す。
「玲奈、ご飯の時間だけど……大丈夫?」
千尋がベッドのカーテンを開き、玲奈を覗き込む。
玲奈はかなり顔色が戻っており、上半身を起こしてタブレットを操作していたが、サイドテーブルに置かれた食事を見て作業の手を止める。
「ええ、問題ないわ。ありがとう」
「もう……無理しちゃダメだって言ったのに、またやったの?」
「おかげさまで頭は冴えてきてるし、大丈夫よ」
「ホントに大丈夫?」
千尋は身を乗り出し、玲奈のおでこと自分のおでこをくっつけ、熱を見る。
「ち、ちひ——」
「んー……とりあえず、熱はないみたいね」
「え、ええ」
「顔はちょっと赤いみたいだけど、ホントに大丈夫?」
「こ、これは違うから。大丈夫だから、本当に」
玲奈は千尋の胸を軽く押し、距離を取る。
「篠原先輩」
「水瀬さんが食事を持ってきてくれたのかしら」
「は、はい! 篠原先輩のためならこんな雑事、何万回でもお任せ下さい!」
「無理はしないこと、こうなっちゃうから」
玲奈は自虐的に微笑む。
「はい! 気をつけます!」
「それとこれ、記録会のデータ。みんなから集まってる範囲でまとめておいたから、後で目を通しておいて」
「はい!」
「もちろん、無理のない範囲でね」
「はい!」
水瀬美羽は目を輝かせてUSBメモリを受け取り、何度もお辞儀する。
「玲奈、せっかくのお粥が冷めるよ」
「そうだったわね。じゃあ——」
玲奈がスプーンを取ろうとしたところで、千尋がそのスプーンを先に取る。
「え?」
「まだ疲れてるでしょ。これぐらい、お世話させて」
千尋はお粥を掬い、フーフーして軽く冷ます。
「ほら、玲奈。あーん」
「ちょ、千尋!? い、いいわよ! 自分で食べられるから!」
「いいから、口開けて」
「え、ええ。じゃあ……」
千尋はお粥を玲奈の口元へ運ぶ。
その手つきは、あまりにも自然で、優しさに満ちていた。
「ん……」
「どう? 熱すぎない?」
「ん……大丈夫、丁度良いわ」
「良かった。フーフー……はい、あーん」
「あーん」
玲奈は観念したように、少しだけ照れながら千尋の行為を受け取る。
その光景を、明日香はカットフルーツを手に、無言でじっと見つめていた。
(なにさ、あれ……)
胸の奥が、チリッと音を立てる。
千尋が誰かに優しくするのはいつものこと。
病気の玲奈を気遣うのも、キャプテンとして、親友として、当然のこと。
頭ではわかっている。
しかし、目の前で繰り広げられている光景は、どこか違って見えた。
お粥を冷ます仕草、口に運ぶ仕草、そして、相手が食べている光景を幸せそうに見つめる表情——それはまるで、カットフルーツを食べさせ合っていた自分たちと重なっていた。
千尋のあの仕草、あの表情は、『恋人』にだけ向けられる『二人だけ』の特権。
明日香は手に持ったカットフルーツをそっとテーブルに置き、立ち上がる。
「ねぇ、千尋」
明日香が少し重い、明るい声で呼びかける。
「私もちょっと頭痛くなってきた。熱っぽい」
「え、大丈夫?」
千尋はスプーンを置き、玲奈に「ちょっとごめん」と断り、明日香の元へ駆け寄る。
そして、玲奈にした時と同じようにおでこを合わせ、熱を見る。
「んー……熱は、ないみたいだけど……」
「でも、なんかクラクラするーーー」
明日香は大げさにふらつき、千尋の胸に倒れ込む。
「わっ……! ちょっと、大丈夫!?」
「私、もうダメかもー……」
千尋の胸に顔を埋め、スリスリする。
「千尋の愛がないと、死んじゃうー」
「……はいはい。わかったから、とりあえず体温計で熱測ろうか」
千尋は明日香の茶番をすぐに見抜く。
明日香が軽い調子で畳みかけてきたり愛がどうこう言うときは、決まって『茶番』なんだと、付き合い始めてからわかるようになっていた。
こうなった明日香は止まらない。
千尋が相手をするまで、執拗に甘えてくる。
「あー、フラフラするー」
両腕をしっかり回し、病人とは思えない力で抱きつく。
「はあ。一応、熱測っとこうか」
甘えてくる身体を抱きしめながら、机からクリップ式体温計を取り出し、明日香の耳に取り付ける。
そのやり取りを、玲奈はベッドから静かに、しかし鋭い目で見つめていた。
(始まったわね、バカ明日香のわかりやすい嫉妬が……)
玲奈は、小さく、深いため息をつく。
明日香の嫉妬は今に始まったことではない。
これまで何度も見てきたし、その度に千尋はああやって受け入れ、甘やかしてきた。
玲奈はその見慣れたはずの光景に妙な違和感をおぼえる。
昨日の記録会で明日香を認めた。
もうあの夜のような激情は薄れている。
明日香からも『仲直り』とも取れる言葉を聞いた。
今日からはいつも通りの日常が戻る——そう思っていた。
(なのに……このモヤモヤした気持ちはなに? あんなの……いつも通りじゃない……)
二人の茶番を見ていると、手に力が入り、汗ばんで来るのを感じる。
「うん、熱はないみたい。疲れが溜まってるのかもね」
「えー、でもー……」
「頭が痛いなら横になってた方がいいよ。よっと」
明日香をお姫様抱っこし、そっとベッドに横たえる。
「千尋……」
明日香が期待していたのはそんな冷静な対応ではなかった。
もっと心配して、自分だけを見てほしかった。
少し前の千尋なら「やれやれ」と思いながらも流され、このまま抱きしめ合い、キスして、その先まで行っていた。
しかし——今の千尋は明日香の頭を一度優しく撫でると、すぐに玲奈の方へ向き直ってしまう。
「ごめん、玲奈。お粥が冷めちゃうね。ほら、もう一口」
「……ええ」
再び始まる、千尋と玲奈、二人だけの優しい時間。
その光景を見ながら、明日香はベッドの上で一人、唇を噛む。
(……負けた……)
千尋の優しさを引き寄せるための『微熱』という名の甘えは、病み上がりの玲奈という、本物の『弱者』の前では、あまりにも無力だった。
三人の関係に生まれた明確な『温度差』。
恋人の『微熱』よりも、親友の『平熱』の方が、今の千尋にとっては、ずっと気にかけるべきものなのだという事実。
明日香は千尋と玲奈の楽しそうな声を聞きながら、ぎゅっと目を閉じる。
胸の中に広がるのは、焦りと寂しさ——そして、膨らみ続ける負の感情。
この感情にどんな名前をつければいいのか——この時の明日香には、まだわからなかった。




