第19話「勝利の影に」
記録会の全日程が終了し、会場には後片付けのアナウンスが流れ始めていた。
白波女子学園の控えスペースは勝利の喜びに満ちていた。
「おつかれ!」
「やったね!」
「おめでとう!」
「藤原先輩も南雲先輩も凄かったです!」
「岩倉もすごかったぞー」
「全中王者は伊達じゃないね」
「堂島先輩のおかげです」
「自己新も出たしリレーも勝ったし、ひとまずホッとした感じ」
千尋の日本新、明日香の高校新。
そして、出場したほとんどの選手が自己ベストを更新し、リレーも完勝するという、いつも通りの圧倒的な結果。
選手は勝利の余韻に浸り、マネージャー組は後片付けと、データ整理に追われていた。
「――これで、全データのバックアップ完了。負傷者、体調不良者、共にゼロ。顧問への報告準備も——よし……」
玲奈は、最後の確認項目をタブレットに打ち込み、パタンとカバーを閉じた。
その指先がほんの少しだけ震えていることに、彼女自身は気づいていない。
「お疲れ、玲奈。あんたのデータ、マジで助かった」
「玲奈先輩のおかげで自己ベスト出せました! ありがとうございます!」
「さすが篠原先輩です。私ももっともっと頑張ります!」
同級生や後輩のマネージャーたちが、尊敬の眼差しで玲奈を取り囲む。
「……当然よ、私の仕事だもの。でも、みんなもよくやったと思う。私は後押ししただけ」
玲奈は気の抜けたような笑顔を向け、全員に声を掛ける。
「次は……合宿ね。今回の反省点を各自でまとめて、あとで出して」
「おっけー」
「はい!」
玲奈はいつものように完璧なチーフマネージャーとして振る舞う。
しかし、その声にはどこか張りがなかった。
壁をうつろに見つめ、作業スピードにも切れがない。
「玲奈」
振り返ると、着替えを終えた千尋が立っていた。
その隣には、少し目が泳いでいる明日香が寄り添っている。
「……どうしたの?」
「ううん、お疲れ様って言いにきただけ。玲奈のおかげで最高の泳ぎができたよ。本当にありがとう」
「……」
玲奈はうっすらと笑い、無言でうなずく。
そして明日香は目をそらしながら、頭をかきつつ口を開く。
「あー、玲奈……。えっと、あんたはやっぱすごいよ。自己新は私の才能が爆発したからだけど、正直……後半はめっちゃきつかった」
「……」
「いつものレースプランに関心したというかなんというか……」
「……」
「ま、あんたのすごさを実感したよ」
再び目をそらし、軽く腕を組む。
千尋はその照れ隠しに笑いながら、玲奈に向き直る。
「だね。いつもありがとう、玲奈」
「……」
千尋は、心からの感謝を込めて、玲奈の肩にそっと手を置いた。
その瞬間——。
「ッ——」
玲奈の身体がぐらりと大きく揺らぎ、前のめりに傾き始める。
「れ、玲奈!?」
千尋が慌ててその身体を受け止める。
その額には冷や汗が浮かび、服は汗ばんでいた。
「……ごめん、千尋。少し、立ちくらみがしただけ……」
「大丈夫じゃないって! 顔が真っ青だよ!」
「玲奈!」
明日香も血相を変えて駆け寄る。
玲奈は二人の心配を振り払うように弱々しく笑う。
「大げさよ、二人とも……」
言葉は短かった。
「私は……泳いでない……」
単語一つ一つに間が空き、呼吸が入る。
「疲れてる、わけ——」
その言葉は、最後まで続かなかった。
玲奈の瞳から光が消え、まぶたが落ちる。
身体は糸が切れた人形のように崩れ落ち、重力に従って千尋にもたれかかる。
「玲奈っ!!」
「——玲奈っ!!」
千尋の悲鳴と明日香の絶叫が、勝利に満ちた部屋に響き渡った。
***
医務室の白いベッド。
そこに横たわる玲奈の寝顔は、いつもよりずっと幼く、そして頼りなく見えた。
大会ドクターの診断は——
『極度の精神的疲労と、それに伴う過呼吸の兆候あり。点滴を打って安静にしていれば問題なし』——とのことだった。
ベッドの脇で、千尋と明日香は、ただ黙ってその寝顔を見つめていた。
重い沈黙を破ったのは、明日香だった。
「私のせいだ……」
絞り出すような声だった。
「私が……玲奈を、あんなに追い詰めたから……」
その両手がぐっと握られる。
「違うよ、明日香」
千尋は静かに首を振った。
「私のせい。二人があんなに苦しんでいたのに、私はなにもできなかった」
千尋も両手をぐっと握り、言葉を続ける。
「私はただ、自分が泳ぐことしかできなかった……」
玲奈の寝顔を見つめ、目を伏せる。
「ごめん。明日香、玲奈……」
二人の間に、再び沈黙が落ちる。
千尋の脳裏に、美紗顧問の言葉が蘇る。
『これは、明日香と玲奈、二人の問題だ』
(違う……)
明日香と玲奈の顔を見比べ、千尋は自問する。
(私たちは三人で一つ。そうだったはず。なのに……)
千尋は、眠り続ける玲奈の冷たい手を、そっと握りしめる。
その手は、いつもペンやタブレットを握り、自分たちの未来を指し示してくれていた手だった。
千尋や明日香、部員全員のことを考え、ずっと導いてきた手。
「ん……」
その時、玲奈のまぶたがかすかに動く。
ゆっくりと開かれた瞳が、ぼんやりと天井を捉える。
しばらく天井を見つめたその瞳は、やがて自分の手を握る千尋と、ベッドの脇に立つ明日香の姿を映す。
「……ちひろ……あすか……?」
「玲奈っ! よかった——!」
「玲奈!」
明日香も玲奈の手を握り、その手を自分の額に当てる。
「本当に——ごめん!」
明日香は涙にじむ目をぐっと閉じ、謝罪の言葉を絞り出す。
玲奈は朦朧とした意識の中、二人の顔を交互に見つめ、ふっと、力なく笑う。
「なに、二人して、泣いてるのよ……」
「だって……!」
「……私だって、選手、なのよ……」
「え……?」
玲奈は千尋と明日香の手を、弱々しく、しかし力の限り握り返す。
「あなたたちが水の中で戦ってるなら……私も、陸の上で、戦ってる……」
「「 玲奈…… 」」
「千尋はすごい。そして……明日香もすごい。でも……」
握る手にさらに力がこもる。
「私の支えがあれば、二人はもっと速くなる。もっと先に泳げる」
「うん」
「……だね」
「二人が選手なら——私も選手なの」
「うん」
千尋の言葉に玲奈は力なく笑い、明日香を見据える。
「次は負けないから。レースにも……あんたにも、ね」
「私は……玲奈のデータに負けないように頑張るだけ」
明日香は挑戦的な笑みを浮かべ、玲奈の視線を真っ向から受ける。
「あんたの想像なんて軽くを超えてやるから……早くデータ、よこしなさいよ」
「……負けない、から……」
玲奈は明日香に不敵な笑顔を浮かべ、再び目を閉じ、眠りに落ちる。
「早く元気になりなさよ、アホ玲奈」
「早く元気になって、玲奈」
二人は眠り落ちた玲奈の手に檄を飛ばし、そっと下ろす。
「玲奈はすごいね、明日香」
「わかってる、玲奈はすごいやつだって」
「明日香……」
「でも、負けられないこともあるし、譲れないものだってある」
「……私も、玲奈に負けないようにしないとね」
「まあ、ね……」
明日香は誰にも届かない声で「わかってないな、千尋は——」と呟く。
三人の絆を遮っていた壁は溶け始め、その嵐は一つの区切りを向かえた。
しかし、明日香の心にも玲奈の心にも、これまでとは違う形の『友情』が芽生え始めていたのだった。




