第18話「地方記録会、開幕!」
翌朝。
記録会へ向かうバスの中は、異様なほどの静寂に包まれていた。
いつもなら、明日香の冗談と、それを諌める玲奈の声、そして千尋の苦笑いが響いているはずの空間。
しかし今は、エンジンの低い唸りだけが場に満ちていた
千尋は、窓の外を流れる景色を見ながら、重いため息を押し殺す。
隣の席の明日香は、ヘッドホンで耳を塞ぎ、目を閉じたまま腕組みをしていた。
その表情は、眠っているのか、それともただ周囲を拒絶しているのか、今の千尋には判別がつかない。
通路を挟んだ向こう側には玲奈が座っている。
タブレットに表示された対戦校のデータを、能面のような表情でスクロールしていた。
千尋がチラッと視線を向けても、振り返ることはない。
いつもであれば、どんな作業中でもあっても千尋の視線に気付き、振り向いてくれる玲奈。
しかし、その視線は一度もタブレットから外れることはなかった。
——昨夜の話し合い後。
玲奈が部屋を出て行ってから今まで、明日香は一度も自分から声を発しなかった。
千尋にとっては初めての経験。
入学のときに出会ってから昨夜まで、こんなことは一度もなかった。
何を話しかけても「ごめん」とだけ呟き、自分の世界に入ってしまう。
おやすみと言っても、無言の返事が返ってくるだけ。
千尋には明日香の気持ちがわからない。
3人でのミーティング前、なぜすでに不機嫌だったのか?
なぜ、玲奈の言葉に過剰に反応したのか?
なぜ、玲奈に対して手を振り上げたのか——千尋には何もわからない。
わかるのは、自分の言葉が明日香と玲奈になんらかの決断——それも、良くない決断をさせてしまったという、重い事実だけ。
千尋は、明日香の拒絶と沈黙に耐えきれず、アポを取って顧問の美沙を訪ねた。
夜分遅くの外出。本来であれば、事前に特別外出許可を届け出なければ、一切外に出られない時間。
電話で美沙顧問に事情を説明したところ、時間制限付きで外周許可が得られた。
寮長から与えられた時間は1時間。学園敷地内限定。
寮から美沙顧問が住んでいる教員用居住区までは往復で30分。
相談できたのは残り30分だけ。
当然、相談らしい相談は出来ていない。
ただ、起きた出来事だけを話し、どうしたらいいのかわからないと愚痴っただけ。
美沙顧問から返ってきた答えは明瞭簡潔だった。
『口を出すな』
『結果で示せ』
千尋は理解できないまま帰寮した。
大切な人たちが自分のせいで心を乱し、自分を拒絶している。
(本当にそれでいいの……?)
千尋は部屋の常夜灯を多くつけた状態でベッドに入る。
3つのベッド内、一つには皺一つなかったから。
ここにいないときはPCデスクに座っているはずの人物。
なんでも相談できて、心から信頼できる大好きな親友。しかし、その姿はどこにもない。
(玲奈……)
送ったメッセージには既読すら付かず、全く連絡は取れない。
麗子副顧問からは『大丈夫』と言われていても、どうしても心配してしまう。
千尋は無人のベッドをもう一度見て、天井を向く。
(どうして、こうなっちゃったんだろう……)
千尋は現実逃避するかのように目を閉じ、今に至る。
(玲奈……明日香……)
明日香は変わらず無言だった。
玲奈も変わらずにタブレットを操作していた。
三人の関係に出来てしまった大きな心の壁。
その壁はどこまでも高く、壊し方も、乗り越え方もわからなかった。
キャプテンとして、恋人として、親友として——自分に何ができるのか。
千尋にはその答えが見つからない。
不安という爆弾を抱えたまま、バスは大会会場へと到着する——。
***
会場の喧騒と熱気は、三人の間の冷たい空気をより一層際立たせた。
「ウォーミングアップ開始。各自、指定されたメニューを。Sチームは第3レーン。Aチームは——」
玲奈はチーフマネージャーとして、完璧に仕事をこなしていた。
いつも通りに張りのある声を出し、テキパキと指示を出す。
しかし、千尋にはその声がまるで『機械』のように聞こえていた。
そしてその声は、部員全員に向けられたものであり、千尋や明日香個人に向けられたものではなかった。
明日香は名前を呼ばれ、その『機械的な指示』を受ける。
「了解」
その返事も機械的だった。
明日香は短く答えると、誰よりも早くプールへ飛び込んでいく。
千尋から見たその『バタフライ』は、いつもより荒々しく、力任せに見えた。
(明日香……)
それは、千尋の知る『明日香のバタフライ』とは全く違っていた。
本来の泳ぎは力強くも、技術と経験に裏打ちされた精密なもの。
しかし今、千尋がこの学園に入って最初に目標にした『バタフライ』はそこになかった。
水を割くのではなく、水を叩くような『バタフライ』。
明日香は技術を意識していなかった。
いつもならすぐに声を上げる玲奈は、まるで『見知らぬ他人』を見るような目で、その泳ぎを見ていた。
千尋は、そんな二人を交互に見つめ、唇を噛む。
(……)
しかし、今は感傷に浸っている場合ではない。
千尋は深呼吸し、水の匂いと会場の空気を身体に入れる。
自分はキャプテン。
この雰囲気の中でも、チームを勝利に導く責任がある。
千尋はスタート台に立って静かに目を閉じ、深く一呼吸を入れる。
すると、景色が変わった。
いつの間にかレース本番。
選手、スタッフ、観客——それらが一つの情報になって千尋に届く。
耳に届くのは、ざわめきと、水の音。
(——大丈夫。いつも通り——)
しかし、脳裏に響くのは、昨夜の玲奈の叫びと、明日香の無言の拒絶。
(今は泳ぐしかない。私の泳ぎで——示すしかないんだ)
『Take your marks』
電子音が鳴り響く。
そして千尋の身体は、水面に祈りを捧げるように吸い込まれていった。
***
千尋のレースは圧巻だった。
まるで内に秘めた葛藤の全てを推進力に変えるかのように、これまでと同様、他の選手を寄せ付けない圧倒的な泳ぎを見せた。
ゴールした瞬間、会場がどよめき、一気に歓声に変わる。
電光掲示板には——
〈 1 堂島千尋 1:53:95 GR NR HSR 〉
自己ベストを『コンマ0.3秒』を上回る新記録。
「さすが、キャプテン。すごい……」
誰かが呟く。
白波の部員たちの間に、少しだけ安堵の空気が流れる。
千尋は笑顔で歓声に応え、元気よく部員たちとハイタッチを交わす。
それだけで部員たちのテンションは上がり、『白波』らしい、自信に満ちた雰囲気に戻る。
そして、次にスタート台に立ったのは明日香だった。
彼女の専門、100mバタフライ。
スタンドの最前列で、玲奈がストップウォッチを構える。
しかしその表情は、どこまでも無機質なようだと、千尋は感じていた。
『Take your marks』
スタートの合図。
電子音が鳴り、明日香の身体が、弾かれたように飛び出す。
その泳ぎは、やはり荒々しかった。
しかし、そこには鬼気迫るほどの気迫が満ちていた。
(見てろよ! 玲奈ぁぁぁ——!)
『あなたは、私が用意した舞台の上で泳いでいるだけ』
(私の泳ぎは私のもの!)
水面を大きく、何度も跳ねる。
(人に言われて、人の言いなりで泳ぐなんてまっぴらごめん!)
50mを大きくターンし、水を跳ね上げる。
(千尋に魅せるために泳ぐ!)
腕が、脚が、悲鳴を上げる。
フォームが崩れているのを自分でも感じていた。
(構わない!)
データ?
理論?
そんなもの——この想いで超えてみせる!!
ラスト15m。
身体が鉛のように重かった。
体力配分のミス、フォームの崩れ……その全てが明日香の泳ぎに襲いかかる。
それでも、明日香は腕を回し続けた。
脳裏に浮かぶのは千尋の笑顔だけ。
その笑顔の為だけに、明日香は手を伸ばし続けた。
指先が壁を叩く。
水面から顔を上げた明日香は、荒い息の中、電光掲示板を見上げた。
そこに表示されたタイムに、彼女は目を見開いた。
〈 1 朝倉明日香 55:98 GR NR HSR 〉
自己ベスト更新。
そして同時に、自身の持つ日本記録の塗り替え。
「——っしゃあ! 55っ!」
確かな声で叫び、明日香は拳を突き上げた。
***
レース後。
クールダウンを終えた千尋は、スタンドで一人佇む玲奈の元へ向かった。
「玲奈」
「……圧勝、おめでとう」
その声は、まだ壁を作っていた。
千尋は言葉を探すように、一度口ごもる。
「明日香の泳ぎ、見てた?」
「……ええ。データは取ってた」
玲奈はそう言って、手にしたストップウォッチの画面を千尋に見せた。
そこには、明日香が叩き出した、新しいベストタイムがデジタルで刻まれている。
「フォームは最悪だった。前半の突っ込みすぎで後半は完全に失速している。データ上は、自己ベストなんて到底出せる泳ぎじゃなかった。でも……」
玲奈の声が、微かに震える。
「でも、出した。私の計算を、あのバカの想いが、超えていった……」
玲奈はストップウォッチを握りしめたまま、うつむいた。
その瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちるのが見えた。
「千尋」
「うん」
「白波の勝利を、千尋の勝利を創るのは、私のデータだと思ってた」
「……」
「でも、違った……」
玲奈はうつむいたまま、明日香の記録が残るストップウォッチの数字を見る。
「明日香のあの無茶苦茶な泳ぎ……想いの力も、すごい、力……」
玲奈は顔を上げられないまま、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「……誇り。千尋が圧勝したことも……あのバカが、私の予測を超えていったことも……チーフマネージャーとしての、誇り……」
それは、謝罪ではなかった。
しかし、玲奈が初めて見せた『自分の完璧』が崩れた瞬間の、偽らざる本心だった。
千尋は何も言わずに玲奈の隣に座り、その肩をスッと抱き、引き寄せる。
かける言葉がなかった。
いや、今は言葉はいらなかった。
高すぎた心の壁が、少しだけ、ほんの少しだけ、崩れているような気がした。




