第17話「夜の三者会議」
夜9時。
白波女子学園の水泳部寮は消灯後の静寂に包まれていた。
ミーティングルームにだけは明かりが灯り、ホワイトボードには来週末に迫った「関東高等学校 選抜記録会」の文字。
その下には、びっしりと書き込まれたエントリーリストと目標タイムが大きく貼られていた。
ミーティング机を挟んで向かい合う、千尋、明日香、そして玲奈。
キャプテン、副キャプテン、チーフマネージャー。その手元には、昨日千尋に見せた『レース戦略分析ノート』が置かれていた。
これは三人だけによる、最終確認作業だった。
「――以上が、記録会での各種目エントリーと目標タイム。異論はある?」
玲奈が、冷徹とも言えるほど冷静な声で問いかける。
「さすがだね、玲奈。完璧だと思う。これなら、みんな自己ベストを狙える」
千尋はノートを確認しながら、素直な称賛の声を送った。
玲奈は嬉しそうに頷き、誇らしげな笑顔をうかべる。
しかし、明日香はペン回しをしながら、つまらなそうに窓を眺めているだけだった。
千尋のキャプテンとしての姿勢と、玲奈の意気込みとは正反対の態度。誰の目から見ても、それは副キャプテンとは思えない態度だった。
千尋は不思議に思いながらも、仕事に集中してもらいと思い、声を掛ける。
「明日香は、どう思う?」
「……別に。玲奈が決めた完璧なプランなんでしょ?」
「それを確認するためにここにいるんでしょ。部屋にはホワイトボードもないし」
「私なんかが口を挟む余地、ないんじゃない?」
明日香は閉じたままのノートをヒラヒラさせ、気だるげな返事をする。
その態度、言葉にはどこか棘があった。
そのあまりな言動に玲奈の眉がピクリと動き、小さなため息がもれ、歪んだ口から言葉が出る。
「そうね、これは綿密なデータに基づいた私なりの最適解」
玲奈はデータを自信を持って見つめ、明日香に鋭い視線を向け、言葉を続ける。
「ここに、あなたの『気分』や『感性』が入り込む隙はない」
「へぇー。水泳って、いつから数学になったわけ?」
「気合いと根性だけで勝てる時代はとっくに終わってるのよ。あなたも少しは勉強したらどう?」
明日香の見下した視線と、玲奈の仇を見るような視線がぶつかる。
まさに一触即発。
危険を感じた千尋が慌てるように二人の間に割り込む。
「二人とも落ち着いて。これはチームのための作業。私情は挟まない」
「……ごめん、千尋」
「……」
明日香は素直に謝ったが、玲奈は違った。
彼女は感情を抑えたように立ち上がると、明日香をまっすぐに見下ろす。
その瞳には、これまで抑え込んできた感情が込められていた。
千尋は見たことのない、感じたことのないような玲奈の目に、いいよれぬ不安を覚える。
「玲奈……」
侮蔑と怒り、そして理解不能な悲しみが、玲奈の目には宿っていた。
「明日香、あなた、自分が何様のつもり?」
「は?」
「いつもいつも千尋の隣にいて、恋人だって顔をして、いちゃついて……。あなたは、千尋のために何をしたの?」
「……」
視線がさらに鋭くなり、歯がぐっと食いしばられ、声が重くなる。
それは、玲奈が初めて見せる、感情の爆発だった。
「私がみんなが寝ている間にデータを分析しているとき、あなたは何をしてた?」
「玲奈、落ち着い——」
「千尋のスランプになったときだってそう。私がその原因を探して、過去何年分ものレース映像をチェックしている間、あなたはなにしてた? ただ隣で見てただけじゃない。千尋を励ますわけでもなく、原因を探るわけでもなく、ただ不機嫌になっていただけ」
「それは……!」
「そうよね、あなたは選手、分析は仕事じゃない。ただ隣にいて、一緒に泳ぐ、それが仕事。そして恋人だから、千尋の体温を感じて、その心に寄り添うのがあなたの『役割』。でもね——!」
感情の蓋が吹き飛び、言葉があふれ出す。
「それだけじゃ勝てないのよ! 千尋の涙を拭ってあげられてもその原因を——0.01秒のロスを、あなたは見つけられない!」
「玲奈……」
「千尋の勝利を創っているのはこの『数字』なの! 私が積み上げてきたこのデータなの! あなたは私が用意した舞台の上で泳いでいるだけじゃない!」
「この——ッ!」
明日香の椅子が床とぶつかって大きな音を立て、その手が振り上げられる。
そして玲奈も射貫くような視線で立ち向かう——が、そこにもう一人の声が響く。
「やめて!!」
千尋が叫ぶ。
「明日香も玲奈もどうしたの!? 私が苦しい時に明日香は隣にいてくれた、玲奈も必死になってくれた! 私にとってはどちらも——!」
「どちらも、ですって?」
玲奈の鋭い目に光が反射し、その揺らぎが深いものになっていく。
「……そう。あなたは、いつもそうやって優しいのよね。でも、もうやめましょうよ、こういうの」
「玲奈、なにを言って——」
玲奈は自分の荷物を掴むと、静かにドアへ向かう。
「ごめんなさい。少し、頭を冷やしてくるわ」
千尋が言葉をかける間もなく、その姿は無機質なドアの向こうに消え、静寂が生まれる。
その部屋には、重い沈黙だけが満ちていた。
明日香は目を背けたまま動かない。その肩は小さく震え、拳はきつく握られている。
千尋は、閉ざされたドアと、無言の恋人の背中を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
三人の関係を支えていたはずの『友情』という名の絆はすれ違い、その心は暗闇の中で迷子になっていくのだった。




