第16話「データと体温」
朝練前の部室はまだ薄暗い。
その静寂の中、マネージャーデスクのライトが一人の少女を照らしていた。
玲奈は無音のヘッドホンで音を遮断し、鬼気迫る集中力でタブレットを操作していた。
画面には千尋の泳ぎをコマ送りで再生した映像と、無数の数字が並んだスプレッドシートが映し出されている。
(――違う。春季大会のラスト50メートル、ストローク数が1回増えてる。これでコンマ2秒のロス。原因は——ターン直後の浮き上がりの角度が0.5度浅いから……)
彼女の指が驚異的な速度でデータを打ち込んでいく。
これはただの記録作業ではない。
千尋の筋肉の動き、呼吸のリズム、心拍数の回復曲線——その全てを数値化し、勝利への最短ルートを導き出すための、玲奈だけの戦場だった。
(明日香にはこれができない。彼女にわかるのは水の感触だけ。でも、私は違う。私は、千尋の全てを『数字』で理解できるし、『数字』で訂正できる)
スズメの声が聞こえ始めた頃、玲奈は完成したレポートを印刷し、その束を丁寧にファイリングし、テプラでタイトルを貼り付ける。
表紙には、こう印字されていた。
【堂島千尋専用 レース戦略分析ノート Ver.18.0】
***
朝練が中盤に差し掛かった頃、玲奈は千尋をプールサイドに呼び出した。
「千尋、少し良いかしら」
「ん、どうしたの?」
玲奈は、一晩の全てを注ぎ込んだそのファイルを、少しだけ誇らしげに千尋に手渡しす。
「次の記録会に向けて、千尋のデータを再分析した。特に、春季大会で見えた課題と、その改善案。ここに全て入ってる」
「相変わらず早いね、ありがとう」
「確認してみて」
「うん」
千尋がファイルを開いて軽く目を通す。
一瞬ポカンとした表情になり、ページを追うごとに表情が引き締まっていく。
そこには、素人目には暗号にしか見えないグラフや数式と共に、千尋の泳ぎの長所と短所が、恐ろしいほどの精度で言語化されていた。
「すご……すごいよ、玲奈! 私が感覚でしか分からなかった『ズレ』が、全部数字になってる……!」
玲奈の顔が緩み、口元が誇らしげに上がる。
「データは嘘をつかない。このプラン通りにフォームを修正すれば、次の記録会ではさらにコンマ5秒は縮められる」
「ありがとう! やっぱり玲奈は私の秘密兵器だね! 玲奈がいるから、私は泳ぎに集中できるんだよ!」
嬉しそうに数字を見つめ、手放しで自分を称賛してくれる千尋の笑顔。
その笑顔を自分だけの力で引き出せたという事実に、玲奈の心は高揚感で満たされる。
これこそがマネージャーだけが得られる達成感。
そして、自分が自分である理由。
(この仕事に誇りを持てる理由が、千尋の、この——)
「なーにやってんのー、二人して?」
その空気を切り裂くように、明日香が背後から現れ、濡れた身体のまま千尋に抱きついた。
「冷たっ!?」
「そんな難しい顔して何見てんのさ?」
「はあ、これ」
「んー、あー、玲奈のやつね。相変わらず細かいねー」
明日香は玲奈が作ったレポートを覗き込むが、すぐに興味を失って顔を上げる。
「ねーねー、千尋。そんな難しい話よりさ、もっと楽しいことしよーよ!」
「楽しいこと?」
「次のオフにさ、またスイーツ巡り行こうよ!」
「うん、オフにね。とりああえず今は——」
明日香はレポートに目を向ける千尋の顔を両手でむにゅーっと挟み、強制的に自分の方を向かせる。
「ふぁふか(明日香)?」
「データも大事だけどさ、息抜きも大事!」
明日香の両手が肩に置かれ、顔をぐっと寄せられ力説される。
「そんな数字ばっか気にしてたら身体に毒だって、ね」
「明日香……」
千尋は少し困ったように笑いながら、しかしはっきりと、肩に置かれた手をそっと外す。
「ごめん、明日香。今は玲奈の話の方が大事だから、その話はまた後で」
「ッ——!」
その瞬間、部室の喧騒が一瞬だけ遠のいたように感じた。
千尋にとっては、ただの状況説明。悪気など、一欠片もない。
しかし、恋人の明日香にとっては、それは初めての体験だった。
去年のインハイで恋人になってから今まで、どんなときでも自分のスキンシップは笑顔で受け入れられてきた。
抱きつきも、キスも、夜の相手も——バカップル禁止令が出来てからも、明確な拒絶は一度もない。
明るい笑顔で、照れた笑顔で、困った笑顔で全部を受け入れてくれていた。
それがたった今、明確な『拒絶』をされた。
そしてその理由が、『玲奈が作ったデータ』であるという事実。
「……あ、そ。わかったよ」
明日香は一瞬だけ固まった後、陰の差し込む笑顔で明るく言い放つ。
「じゃ、私、先に戻ってダウンしてる。大事な大事な『作戦会議』、邪魔しちゃ悪いし」
そう言って踵を返した明日香の背中は、いつもより少しだけ小さく見えた。
玲奈はその姿を黙って見ていた。
胸の中に広がるのはイラつきにも似た不思議な感情。でも心の奥では、小さな、しかし喜びにも似た熱が宿っていた。
(……そうよ。あなたは千尋の『体温』を独占できるかもしれない。でも、千尋の『勝利』を創れるのは、私だけなのよ——)
千尋は、去っていく明日香の背中を少し心配そうに見つめた後、すぐに玲奈の方へ向き直った。
「ごめん、玲奈。あ、それでこの部分のデータなんだけど——」
再びレポートに夢中になる千尋の顔を見ながら、玲奈は優しい笑顔で説明を進める。
その『データ』が三人の関係にどのような影響を与えたのか、それは当人たちにもはっきりわからない。
しかし、その答え合わせは、そう遠くない未来、必ずやってくる。
(全ては数字に出来る。そのデータに従えば絶対に上手く進む——)
この時の玲奈は、まだそう信じていた。




