第14話「マネージャーの目標」
放課後。
水泳部の練習も終わり、空がうっすらとオレンジに染まり始めた時刻。
部室の一角、マネージャー専用のデスクスペースは、練習中の喧騒が嘘のように静かだった。
玲奈はタブレットに表示された膨大なデータと向き合い、高速スクロールしていた。
春季大会の全部員のラップタイム、ストローク数、心拍数の推移。
そこに並ぶのは、わずかな文字と、数字、数字、数字——。
しかしそれが、彼女の仕事であり、使命であり、戦場だった。
その指がふと止まる。
頭に響くのは、昼休みの明日香の楽しそうな声と、それを羨望の眼差しで見る後輩たちの顔。
そして、千尋の「頑張って」という、優しい声。
(私の仕事はこれ。なのに……)
玲奈はタブレットの画面を落とし、ぎゅっと目を閉じた。
その時、控えめな声が静寂を破った。
「あ、あの……篠原先輩……」
振り返ると、1年生マネージャーの水瀬美羽が立っていた。
数枚の報告書を胸に抱きしめ、不安そうな顔をしている。
「どうしたの、水瀬さん。担当チームの報告書?」
「は、はい! その、今日の練習タイムの集計で、どうしても計算が合わない箇所があって……お忙しいところ、すみません!」
美羽が差し出してきた報告書には、赤ペンで何度も計算し直した跡があった。その必死さが、かつての自分と重なり、胸が熱くなる。
「いいわよ、見せて」
玲奈は報告書を受け取り、数秒で問題点を見つけ出す。
「ここね。50メートル4本のハード練習、サークルタイムの計算がずれてる。リカバリータイムを考慮してないわよ」
「あ、そこ……。す、すみません!」
「いいのよ。誰でも最初は間違えるし、それに気付かない。それに気付いて聞きに来たのは十分立派。あとはこの数字のズレが、選手のコンディションにどう影響するかを想像できるかが重要。そこまで考えられれば、水瀬さんはもっと先に進める」
「は、はい! 頑張ります!」
玲奈は立ち上がり、美羽の目の高さに合わせるように少し屈む。
その目は、いつもの厳しいチーフマネージャーのものではなく、後輩を導く『先輩』の目をしていた。
「ねえ、水瀬さん。あなたにとって、マネージャーの仕事って何?」
「え……? そ、それは、選手の皆さんを……支える、ことです」
「そう。じゃあ、『支える』って、具体的にどういうことだと思う?」
問い詰められ、美羽は言葉に詰まる。
玲奈は、静かに、しかし力強い声で続けた。
「記録をつけること? タオルを渡すこと? ドリンクを作ること? マッサージをすること?」
「えっと、全部、でしょうか……?」
「そうね、全部。でも、私たちの目標はそんな具体的なことだけでは計れない」
玲奈は、壁に貼られた大会の写真の数々に視線を移す。
その写真の多くは、レースシーンや表彰式の様子だった。
千尋のスタート台でのポーズ、レース中継の切り抜き、トロフィーを受けっている瞬間、チームが並んで賞状とトロフィーを掲げ、肩を組んでいる様子——どれも勝者らしい、輝かしいものばかりだった。
そして、それらの写真のオマケのように、片隅には大会前後の集合写真。
マネージャー組はそこに、大勢の一部としてひっそりと写っているだけ。
「……私たちの仕事は世間からは見えない。心身を削って動いても、選手の全てを知っていても、表彰されることはないし、大会では名前すらを呼ばれない。でもね——」
玲奈は、千尋の写真から目を離さずに言った。
「一人の選手が人生を懸けたあの舞台で、最高の笑顔で表彰台に立ったとき……その笑顔のほんの一部分、いえ、基礎の全ては、私たちが作ったものだと誇りを持つ。選手が何も心配せず、ただ泳ぐことだけに集中できる完璧な環境を創り上げる。それが、私たちの目標であり、『支える』ってことよ」
その言葉には、玲奈の哲学と、そして隠しようのない情熱が込められていた。
美羽はその言葉に圧倒されながら、キラキラした瞳で玲奈を見つめていた。
(篠原先輩、やっぱり、すごい……)
赤ペンが引かれた資料を握る手に力がこもる。
(やっぱり、キャプテンにふさわしいのは篠原先輩。誰よりもキャプテンを支えているのは篠原先輩。横に立つだけじゃダメ。『支える』ことが出来ないと……)
美羽の頭に、SNSでの『推しカプ戦争』でのやりとりが浮かぶ。
『篠原先輩こそキャプテンの伴侶にふさわしい』
目を閉じると、千尋と玲奈がキスをしている一枚画像が動画のように動き始め、その先の展開へと発展していく。
「……わかりました、篠原先輩! 私、もっともっと頑張ります!」
「ええ、期待してるわ、水瀬さん」
決意を新たにした美羽が自分のデスクに戻っていく。
その背中を笑顔で見送った玲奈は、その視線を再び壁の写真——千尋の単独ショットに目を向けた。
写真の千尋は、勝利への喜びと共にトロフィーを持つ、栄光の一枚。
しかし玲奈には、千尋のその視線が、カメラの先の人物へと送られているように思えた。
(そう。私の目標は……部のみんなが最高の泳ぎをできるようにすること……)
タブレットに視線を戻し、データ群を目で追う。
(これでいい。これでいいのよ……)
自分に言い聞かせるように、心の中で何度も何度も繰り返す。
しかし、その言葉は空虚な戯言のように、玲奈の心をすり抜けるだけだった。
完璧なマネージャーとしての『目標』と『誇り』。
そして、それだけでは説明できない、千尋だけ向けられたこの熱い想い。
玲奈の心は二つの感情の境界に立ち、静かに立ち尽くしてした。
自分の秘めた想いがマネージャーとしての自分を少しずつ侵食し始めていることに、玲奈はまだ気付いていなかった。




